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シュリアは、レンブルクに来て八日目の朝を迎えた。
働かずして食にありつく贅沢に慣れ、人として堕落しそうな危機感を覚えつつワゴンを廊下に出す。
ふうっと一息ついたところで、足取りも軽やかにカイナルが現れた。
朝の挨拶もそこそこに、上機嫌のカイナルは切り出した。
「さっそくですが、出かけましょう」
そう来ると予想していたシュリアは、疑問も挟まず立ち上がる。
準備万端といった様子を見て、黒い双眸は穏やかに細まった。口元も綻び、昨夜の晩餐に赴く前とは別人の表情だ。
「今日も中央教会ですか?」
「そうですね、取り敢えずは」
窓の外、葉の落ちた細い枝は大きく揺れている。雲一つない晴天が広がっているがどうにも風は強そうだ。
ひるがえって我が身に視線を落とせば、ワンピースの上に薄手のショールを巻いただけ。
「寒いかしら……」
しかし、他に防寒具はない。
「今日は冷えそうですから、町で何か調達しましょう」
それまでは我慢して欲しいと、腕に掛けた自分の上着を着せかけるカイナルである。
シュリアだって自宅に帰れば冬用の外套くらい用意がある。上着を借り続ける勇気はないが、余計な出費は避けたいというのが本音である。
困った。
眉間に皺を寄せていると、時間を気にしたカイナルが当然のように手を取った。
やんわり引っ張られて部屋を出る。
(え、このまま行くんですか?)
空いている方の手で、脱げそうな上着を慌てて押さえた。
時間が遅かったので、レンブルク中央教会の礼拝堂には多くの観光客が出入りしていた。
その誰もが忙しなく辺りを見回し、高い天井を見上げ、祭壇に向かって列をなす。
シュリアたちを先導する老人の正体に気付かれでもしたら大騒動だが、髪の量と同様に存在感も薄い司教様は、今日ものほほんと軽口を叩いていた。
「明日の朝には晴れて欲しいですな」
「こんなに晴れているんですから大丈夫でしょう?」
「日暮れにはひと雨来ますよ、膝の関節が申しております。祭服が濡れてしまうのは勘弁して貰いたい」
何とも信憑性の高い天気予報だ。
(雨の気配なんてしないけれど……)
しかし雨が降れば、カイナルの上着は自動的に雨具になってしまう。
予言された以上、それは心苦しい。
(防寒具、買おうかしら……)
今使っている外套はあちこち修繕しながら付き合ってきた長年の相棒である。まだ当分は現役でいけそうだったが、状況的に選択の余地はない。
軽くなる財布を思って溜め息を噛み殺した。
結論から言うと、シュリアは新しい防寒具を手に入れた。
もちろん中古ではない。何とか織りという聞き覚えのない生地で作られた、薄手ながらしっかりと暖かい逸品である。
長年の相棒が太刀打ちできない高級感は、カイナルが選び、カイナルの懐から資金が出たが故だ。
(こんなにお高いものを買わせてしまった……)
試着させられて、思わず感嘆の声を漏らした次の瞬間には自分の物になっていた。
この外套一着でカカオ豆の菓子は何箱買えるだろうか。
しかも、中のワンピースはカイナルの贈り物、其の一である。カイナルと並んでも遜色ない上品なデザインで、結果、どこのお嬢様かと思えなくもない淑女の出来上がりだ。
(ただの平民だなんて、誰も思わないわよね)
もちろん、立っているだけという限定付きで。
昼を過ぎると風は一層強くなった。雨は未だ降りそうにないが、西の空には黒い雲が浮かび始めている。
司教の膝予報が当たりそうな予感に、カイナルは雨具を取りに戻ることを決めた。
この時間、ドルトムント伯爵親子はザックハルト子爵に連れ出されて屋敷にいない。その観光案内を蹴ってシュリアを誘ったのだから間違いない。
今ならば大丈夫だと踏んで、シュリアの手を引いた。
司教様の膝予報は、どのくらいの確率で当たるのだろうか。
正面玄関横の庭園で待つシュリアは、西から勢力を伸ばさんとする黒い雲を見上げてひとりごちた。
(ワンピースに外套にお昼ご飯。午後のお菓子と晩ご飯まで、ご馳走してくださるおつもりよね……)
屋敷にいれば強制的に晩餐に参加させられるカイナルは、夕食も外で済ませたいと言っていた。
恋愛関係にある男女が外出すれば、支払いを持つのは往々にして男性の方。住む世界が違ってもこの風潮に差はないだろう。
しかし、今回は支払いの桁が違う。
(そもそも、恋愛関係と言ってしまうのもどうなのかしら。かと言って私の手持ち資金は少ないし)
本来ならミルデハルト城で仕事中なのだ。遊びではないからと大金は持ってきていない。
従って、甘える以外に手立てはない。
都合の良い時ばかりカイナルの好意を利用しているようで、そんな自分が嫌だった。
落ち込む気持ちを掬い上げたのは、こんなときばかりタイミング良く現れるライルの声だ。
「だから何で、いつも難しい顔してるのかな?」
驚きもせず振り向けば、箒と網袋を抱えて近付いて来るではないか。
「ライルさん……」
「昨日は、久し振りに楽しい時間をありがとう」
午前中に見上げた空のように、朗らかな笑顔に曇りはない。帰国の経緯をグレイドに告白したことで、軟禁生活が解かれる日も近くなった。
知性的で落ち着いた眼差しが、真っ直ぐシュリアを見ている。
その、思わずときめいてしまいそうな男の頭には、何枚か枯れ葉が引っかかっていた。
「ライルさんは、お庭掃除のお手伝いですか?」
「そうだよ。働かざる者食うべからずって言うからね」
極めて同感だ。
シュリアは自虐的な苦笑を浮かべた。
「君はいいんだよ。君は、ここにいるだけで貢献している」
「どういう意味ですか?」
「何だか、いつまでたっても他人行儀だね。呼び捨てにしてくれと頼んだ気がするんだけど?」
シュリアの疑問に取り合う気はないようだ。
枯れ葉を落とそうと頭を振りながら、呼び捨ててみてよと強要を止めない。
「私、子供ならともかく、大人の男の人の名前を呼び捨てにしたことはありません」
「喋り方まで他人行儀に戻ってるよ」
「ねぇ、ライルさん」
「駄目。先々を考えても、君は呼び捨てに慣れておいた方がいい」
突然真面目なことを言ったかと思えば、初めてを貰ったと自慢してやろうと、意地悪く笑っている。
「誰に自慢するの?」
「こっちの話だよ。ほら、呼んでみて」
「用もないのに呼べません!」
「仕方ないな。じゃあ……こんにちはシュリア。会えて嬉しいよ」
照れ隠しを上手に切り返され、シュリアはふて腐れた。
「……こんにちは、ライル。私も嬉しいわ」
これで満足かと睨みつければ、受け止めたライルは目にも眩しい満面の笑顔だ。昨日、エンダンテ王国の王子様の話をした時のように。
だが、残念なのは、頭の上に一枚だけ枯れ葉が居座っていることだ。
葉の破れ目が髪に絡まって、風で飛んで行きそうにもない。
(この姿も格好良いけれど、自力では取れないわよね)
意趣返しに放置しても良かったが、それではあまりに大人げないとシュリアは腕を伸ばす。
「ライルさん、まだ葉っぱが……」
意図に気付いたライルも頭を下げた。
そこに、厳しい叱責が飛んだ。
「何ですのお前たち、そういうことは余所でおやりなさい!」
二人同時に弾かれて声の主を探すと、真っ先に目に入ったのは鮮やかな赤いドレス。
昼間にしては妖艶すぎる衣装だが、女の美しい顔立ちを見れば不思議と違和感はない。
「まったく、これだから頭の悪い平民は嫌いなのよ」
ねぇ、と。
眇めた眼差しを一転して蕩ける笑みに変え、女は、細い腕を巻き付けた同伴者を見上げる。
(この人は、ドルトムント伯爵令嬢……?)
同じように視線を動かして、半ば引き摺られるように現れた同伴者の形相を目にした瞬間。
正面に立つライルも、突然現れたドルトムント伯爵令嬢も、その後ろで目をつり上げるザックハルト子爵と思しき紳士も世界から消えた。
直視に耐え難い怒りを湛えるカイナル=ザックハルトの双眸が、シュリアを真っ直ぐ射抜いていた。




