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 扉を叩いたその人は、笑顔も容赦もないが敵意もなく、尻込みするシュリアを外の世界へ連れ出した。

(初めてお会いする人……?)

 いや、違う。

 用件と併せて思いを巡らせば、たった一度だけ見かけた記憶が蘇る。

 この屋敷に着いた時、玄関先で子爵夫人の後ろに控えていた人だ。

(この人、侍女だわ)

 他の使用人と明らかに一線を画す凛とした空気は、シュリアがよく知る侍女のものに違いない。

 先導する伸びた背筋に、ミルデハルト伯爵邸の侍女にも通じる雰囲気が重なった。



 おいしいお菓子をいかがですか。

 甘い誘い文句に裏があるのは世の常で、そうと知っていても拒否権はない。

 向かう先は一階のサンルーム。

 そこで、子爵夫人が待っている。


 

 足を踏み入れると、柔らかな光と温かな風が歓迎するように道を開いた。

「どうぞ、こちらへおいでなさいな」

 大きな窓を背に立ち上がった影が空いた椅子を指し示す。

「は、初めまして。お世話になっていながらご挨拶もせず、大変失礼をして……」

「あなたがシュリアね?」

 ぺこりと下げた頭の上に、女性にしては低めの静かな声が落ちた。

「いつまでもそうされていては不快です。わたくしが呼び寄せたのだから顔を上げてちょうだい」

 一般的に、高貴な相手を直視するのは不敬だ。にもかかわらず、不快と言われてしまったシュリアは、恐る恐る子爵夫人のドレスの裾から視線を上げた。

(わぁ、この方が……)

 芸術的な美を具現化したと言われたら、ああなるほどと、深く納得できそうだった。

 首元から足先まで覆う広がりの少ないドレスは、葉が落ちる前の庭木のような地味な色だ。

 しかし、所々にあしらわれた黒いレースとこの夏流行した唐草模様という意匠の刺繍が、沈み込みそうな印象を底上げして中性的な顔立ちを際立たせる。

(ミルデハルト伯爵様とはあまり似ていらっしゃらないけれど)

 出会った頃のカイナルがよく浮かべていた薄い表情が、そっくり目の前にあった。



 紅茶の馥郁とした香りが立ち上るテーブル。

 差し向かいで座る子爵夫人との間には、花模様が縁取る大きな皿に、これでもかと見栄えする焼き菓子が並んでいる。

 しかも、甘い香りは焼き立ての証拠だ。

 冷めた昼食を冷めた紅茶で済ませたシュリアは、魅力的な光景に目眩がした。

「緊張するなと言う方が難しいかしら? 冷めてしまう前にお食べなさい」

 給仕を終えた侍女が壁際に下がる。

 誘惑を断ち切ろうと侍女の姿を見つめていると、カップを置いた子爵夫人が赤い唇を開いた。

「侍女が珍しい?」

「は、はい。あの、そうですね」

「この屋敷に侍女は二人しかいないわ。どちらもミルデハルト伯爵家で鍛えられた侍女よ。あなたには馴染み深いかもしれないわね」

 道理で懐かしいはずだ。

 そんなシュリアの視線を受けて、笑顔のない侍女が初めて淡く微笑んだ。

「あなたとはちゃんと話してみたいと思っていたのだけど、窮屈な思いをさせているようで悪いわね」

「そんな、ことは……」

「誤魔化さなくて良いのです」


 ずっと、この屋敷に蔓延する空気を不思議に思っていたのだ。

 奥向きの仕事は、普通、その家の奥方が取り仕切る。

 カイナルの実母でミルデハルト伯爵の実妹が、こんな使用人を見逃すだろうかと。


 赤の他人の話をするように、子爵夫人は淡々と理由を話した。

「もう気付いているでしょうけれど、この屋敷には領民ばかりが勤めていてね、昔から誰も彼も、領主様を盲目的に慕っているの」

「伯爵様のお人柄ですね」

「違うわよ」

 素直に零れた感想は間髪入れずに一蹴される。

「この町で領主様と呼ばれるのはザックハルト子爵よ。見ていたら分かるでしょう? ザックハルト子爵以外の存在に価値はない。たとえ、本来の領主の妹であろうと」

 領主様以外の言葉は頑なに聞き入れない。この町はそうやって生き延びてきた。

 一度も天災に見舞われることがなく、王都の隣という恵まれた立地にあってこそ可能にした気風である。

「わたくしは、いずれ領主代理を継ぐ嫡男を含め、子供たち全員を早くから王都に住まわせました。領民の目には、領主様から子を取り上げた悪しき妻として映っているのです。領主様に益をなさないわたくしの言葉など、誰も耳を貸しません」

 お食べなさいと促すように菓子の山に視線を投げ、自分は細い指でカップを傾ける。

 感情の削げ落ちた喋り方が、確執の深さを嫌でも彷彿とさせた。


「兄が、タウンハウスの書庫を任せたというのはあなたのことですね」


 唐突に。

 前後の繋がりもなく放り込まれた言葉で、喉を通ったばかりの甘いマフィンが逆流しかけた。

 咳き込むシュリアは、邪魔しないよう口元を押さえるので精一杯だ。

「ああ見えて、兄は好き嫌いが激しい人間です。まさかこんなに若いお嬢さんだとは……。あの書庫を片付けるには相当の時間が必要でしょう。あなたはそれで良いのかしら?」

「そ、それで、とは?」

「女の売り時なんてすぐに終わります。あなただっていつまでも独り身ではいられないでしょう。兄の眼鏡に叶ったということは、失礼だけれど、男女の色恋沙汰に疎いか、興味がないのではなくて?」

 どういう基準か聞いてみたいところだが、ずばっと胸の中心を刺す傷は思った以上に深い。

(何故それを……!)

 ゆっくりと紅茶を口に含んで、音も立てずにカップを置いて。

 整えられた指先が、視線を攫うようにひらめいた。


「どなたか、決まったお相手でも?」


 眼前に、息の根を止める氷のつぶてが見えた。

 これは。

 この問い掛けの真意は。

 二者択一のどちらの返事をしても劣勢に立つ局面で、相手の意図するところが分からない。

「特に、そんな人は……」

 曖昧に濁すと、小さな溜め息が返された。

「いつまでも独身では、どこに欠陥があるのかと、人は喜んで粗探しを始めるわよ。働くことを否定はしないけれど、ミルデハルト伯爵が代替わりしてもその職が続くとは限らないのだから、身の振り方を考えておきなさい」

「代替わりですか?」

「伯爵家には爵位を継げる男子がいません。嫁いだ姪は当てになりませんから、近い親族から養子を取ることになります。その時、あなたの仕事が打ち切られない保証はないのです」

 書庫というのは倉庫と同義で、その管理に人を雇う貴族はまずいない。書物は高価なものだが、どんなに手をかけても金のなる木にはならないからだ。

 この屋敷が良い例だと自嘲して、子爵夫人は、黒く澄んだ瞳を伏せた。

「そういう可能性を忘れてはいけません」

 遅くもなく早くもない頃合いでザックハルト子爵家に嫁ぎ、四人もの子を産んで、女としての大仕事を成し遂げた子爵夫人。

(この方の言葉は、重い)

 シュリアとて、いずれは誰かと結婚するだろうと当たり前に思っていたが、突きつけられると漠然とした未来はすぐに揺らぐ。

 もらってくれそうな心当たりは、この人の息子だけ。

(……とは、言えない)

 いくらでも知らぬ振りができる立場で、わざわざ忠告をくれた優しい人だ。

「お言葉、胸に刻みます。お心を配っていただいてありがとうございます」

 愁傷に礼を言うシュリアの頬を。


「わたくしが? あなたを? まさか、そんな訳がないでしょう?」


 ぴしゃりと、予想外の返しが鋭く張った。


 目を見開くシュリアに向けて拒絶を口にする子爵夫人は、高慢で、美しい。

 美しすぎて、どう反応すべきか分からない。

「女は賢くなければ生きて行けません。あなたのような、その時任せの考えは好きではないわ」

 不機嫌な時のカイナルと同じく、眇めた双眸に険が過ぎった。


「あなたを案じたのではなく、我が子を案じているのです」


 脳内にけたたましく響いたのは、危険を知らせる警笛か、試合本番を告げる鐘か。

 手の中のカップを受け皿に戻すと、陶器が擦れて耳障りな音がした。

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