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「最初はね、仲良くなった貿易商に頼み込んで、大陸に渡る船に乗せてもらったんだ」
初めて海を渡ったのは五年前。
言葉は通じなくても、若さと勢いという最強の武器があった。
「しばらくはそこにいたんだけど、伝手もあるし、せっかくだから南海に浮かぶ島国まで足を伸ばしてみたらさぁ」
あれは失敗だった。
大陸の共通語ともライナルシア王国の母国語とも根本的に異なる言葉の壁は、想像以上の高さで立ちはだかった。
別の島に渡っても状況は変わらない。たった一個のパンさえ確保できない有り様で、大陸へ戻る船を首を長くして待った。
「また、その食事がねぇ。母国の恵まれた食事環境に心から感謝したよ」
苦労したとぼやく口元は緩んでいる。
その様子を見つめるシュリアは羨望の眼差しだ。
(この人の目は、遠い異国を映してきたのね)
同い年。
目の前の男が輝いて見えるのは、自分より遥かに大きな経験を積んできたからだろうか。
「帰ってきたのは、ライナルシア王国の食事が恋しくて?」
「そう、それもある。人間ってね、生まれ育った場所の食事が一番なんだよ」
「それも、というと?」
喋りながら噴水を眺める長椅子に場所を移した。通りがかった使用人の視線に、ライルが気を利かせたのだ。庭園の入口から遠いこの場所なら人目に付くことはない。
じゃあこれでと戻る気にならなかったシュリアは、秘密の逢瀬に使われる場所だろうと、気兼ねない会話が許されるならどこでも良かった。
それほどに、人との接触に飢えていたのだ。
「結構いい歳になって、そろそろ地に足を着ける時期かなと思ったんだ」
「お兄様のように、お父様のお仕事を?」
「ううん、まあ、どうかな? 兄貴は本当に優秀だから、俺なんかがとも思うんだけどね」
定まってはいないが、このままではいけないと焦燥感だけはたぎる。
その気持ちは、シュリアも覚えがあった。
ミルデハルト伯爵に拾われる前の自分だ。
「何か、やりたいことでもあるの?」
真っ直ぐに問いかけたシュリアは、言った後ではっとした。
ライルが存外真剣に黙り込んでしまったのだ。
「ごめんなさい、会ったばかりで失礼な事を」
「いや、構わない。素直な意見をくれる人って大事なんだよ」
不躾な質問も前向きに捉えるのは、やはり、器の違いだろうか。
(いけない、ときめいてしまいそうだわ)
咄嗟の一言まで何て格好良い男なのだ。
「君はどう? これって決めた道はある? 差し支えなければ聞いてもいい?」
ライルが凄いのは中身だけではない。決して大柄ではないのに、頼り甲斐がありそうで誠実そうで、人懐っこい笑顔に胸を撃ち抜かれてしまいそうでと、見た目も十分に格好良い。
外見がずば抜けて良く、中身もまあまあ良いという男性はどこかで聞いたが、その逆には初めて会った。
(男性に必要なのは、この安心感よね!)
柄にもなく浮かれたシュリアは、素直に答えてしまった。
「私は、ミルデハルト伯爵様のお屋敷で働いているの。雇ってくださった伯爵様に感謝しているし、毎日がとても充実しているわ」
「メイド? 雑用ばかりじゃないの?」
「私は……古い書物の修理をさせてもらっているの」
「ふうん?」
シュリアも、どこに「闇の光」が潜んでいるか分からないと肝に銘じている。だから今も、詳細をぼかして説明したつもりなのだが。
(ふうん、の後は? 特別おかしな話はしていないわよね?)
考え込むライルを前に、遅ればせながら不安が過ぎった。
(まさか、「闇の光」のお仲間だとか言わないでしょう?)
必死に祈っていると。
「タウンハウスの書庫?」
顔を強ばらせるシュリアに向けて、ライルはにやりと笑った。
「ミルデハルト城の書庫は専任の管理者がいるから、手をつけるならタウンハウスだよね。領都へ向かう一行に同行していたし」
簡単な謎解きだと、得意げに胸を張る。
しかし、シュリアは最初の一言しか聞いていなかった。
(専任の管理者?)
あのまま領都に行けばプロの仕事を見ることができたのか。
(伯爵様は、そのために同行させてくださったんだわ!)
何ということだ。
本物に触れる機会を逃してしまった。
レンブルクに連行された理由を考慮してもなお、悔しくて地団駄を踏みそうだ。
「あの朴念仁が略奪するくらいだから、それ以上の価値があるんだろうけどね」
ライルが漏らした呆れ混じりの言葉に、シュリアは慌てて意識を戻した。
「略奪?」
「合意の上とは言っても、よそ様のお屋敷のメイドを攫ってくるんだから普通じゃないよ」
首を振るライルは、考えられないとでも言いたそうだ。
直感した。
この人とは話ができる。
(そうよ、普通じゃないのよ!)
ようやく見つけたまともな感性の持ち主を、ここで逃してはならない。
らしくもなく血相を変えたカイナルが呼びにくるまで、久々に時間を忘れて会話に集中した。
「シュリアさん!」
もうすぐ帰ってくるとグレイドに聞いて、その後どれほど経ってしまったのか。
植栽の向こうから飛び出したカイナルの迫力に、はたと約束を思い出したシュリアである。
「ライルと一緒でしたか……」
名前を出された男は目を丸くした。
「……へぇ、珍しい。いや、俺が引き留めていたんです、すみません」
「何かあった訳じゃなければ構わないんだ」
謝罪したライルを責めはしないが、カイナルの前髪は乱れ、眉間の皺は深い。
相当に探し回ったのだろう。
「使用人に尋ねても行方が分からないものですから、心配しました」
「それは……」
シュリアの部屋や廊下、ついでに呼び鈴が届く範囲に控えの使用人はいない。マナーに沿って行き先を告げようにも、拒絶されているのだから仕方ない。
その実情を知らないカイナルは、シュリアが賊に攫われたと思ったのだった。
「私の方も急な任務が入りまして、失礼しました」
会話が成立しない点では他者の追随を許さない男が、さらりと問いかける。
「ところで、二人で何を?」
反射的に答えかけた自分を慌てて制した。
(待って待って、駄目、慎重に答えなきゃ!)
カイナルの双眸を見よ。何気ないのは見せかけだけで、口調を裏切る本気が燃えたぎっているだろう。
(人目につかない場所で二人きりでいたんだもの。理由、理由か……難しいわね)
反論の余地のない言い逃れを真剣に練るシュリアだが、先に口を開いたのはライルだった。
気が抜けた笑顔を浮かべ、一歩進み出る。
「早伝馬。使者のくせに乗馬が残念だったでしょ、という恥ずかしい話をしていました」
自虐的な申し開きに、カイナルの表情も緩んだ。
「ああ、あれは確かに……」
お世辞にも上手とは言えない様を思い出して言葉を濁したようだ。
シュリアも遅れじと助け船に乗る。
「残念とまでは言っていませんよ」
「似たようなものじゃなかった?」
「大きく違うわ」
会話は、調子よく転がったように思えたのだが。
「いつの間にか、随分と仲良くなられたのですね」
息の合った掛け合いを見せられて、カイナルの機嫌が悪化しているではないか。
(もう、何なの!)
利かん気な子供を相手にしているようだ。
「単に同い年ってだけですよ。俺は暫くこの屋敷に軟禁されるから、また機会があればね」
引き際を察したライルが、打って変わってへらへら笑い、顔をしかめたシュリアとカイナルの両方を宥めるように言った。
(今、軟禁と言わなかった?)
妙な事を。
執事の息子とはいえ、成人した大人なのだからどこかに住まいがあるはずだ。たとえ帰国直後だとしても、父親の勤め先に軟禁とは穏やかではない。
「ライル、そんな風に言うな」
「そうですか? まあ、そういう訳で、俺もちょっと息抜きしたかったんですよ。それじゃあ、俺はこれで」
飄々とした印象を残すように、掌を振りながらライルはあっさりと去って行った。
二人きりで残されて、しかし、シュリアは尋ねずにはいられなかった。
「あの人、何かあるんですか?」
軟禁だなんて。
冗談で口にするシュリアとは違い、咎めたカイナルにも含みがありそうだった。
そのカイナルからの返事はない。
「……聞いてはいけないお話でしたか?」
束縛と嫉妬が売りのカイナルだが、基本的にシュリアに隠し事はしない。
良くも悪くもその習性を利用して、陰りを帯びる眼差しを見つめ続けた。
「カイナル様?」
そして、あざとい上目遣いが功を奏したようだ。
カイナルの重い口がゆっくり開く。
「……犯人ではないかと、疑われているのです」




