マティの見る世界
今日はマティの機嫌は良かった。
いつもの神殿務めも足に羽が生えたかのように軽く、顔も自然と緩んでいる。
その理由は一つだ。
今日は昼の休憩時間に最愛の弟であるユリシーズがライオネルに連れられてマティに面会に来てくれたからだ。
愛らしくてたまらない弟はマティのために小さく編んだ花輪を髪にさしてくれた。アネリに教えてもらったのだと言う髪飾りはなかなか上手に出来ていて、マティは髪にさしたままにしている。それどころかいつもはおろしていることが多い髪を結い、花が髪から落ちないようにする工夫する有様で、他人から見てもマティが浮かれているのが分かっただろう。
けれどマティはそんなことはどうでもよかった。愛する弟からの思いがけない面会と贈り物に心を躍らせていた。
風のスピリットを呼び、花の香が常に鼻腔をくすぐる様にしご機嫌だ。これで花に手を触れなくとも存在を確かめることが出来る。
仕事が一区切りついたところで、マティは中庭に出て、小さな水場に足を運ぶ。理由は一つで花に水をやるためだ。
髪にさしていれば自然と花は水に飢えてしまう。それを補うためにここに来た。
マティは小さく祝詞を唱え、手を振り上げると、水が小さな破裂を次々と起こし、まるで霧の雨のように降り注ぐ。
極小の水滴が太陽光を反射して煌めきながら落ちていく。
それをマティは目を細めて見守る。
風と水のスピリットがまるでダンスをするようにくるくると絡み合って引き起こされる現象は、少しでも魔導師の素質がある者の視界をさぞ美しく彩っただろう。
もちろんマティも目まぐるしく起こるそれをうっとりと、満足した様子で見守った。柔らかく髪に、肌に降り注ぐ水滴に濡らされても不快さはこれっぽっちもない。
「見事なものだな。さすが稀代の魔導師だ」
陽光の屈折で生じた虹をくぐる様に現れたのはアドレー・ダウズウェルだ。黒騎士らしい黒い甲冑を鈍く光らせながらの登場は見る者の目を奪っただろう。端正な顔立ちもそうだし、鍛えられた肉体は厚く、英雄と呼ぶにふさわしい風体だ。
「……大げさですよ。こんなもの、子供だましです。誰でもできますよ。あなたのイズールトだってそうでしょう」
イズールトというのはアドレーの恋人を皮肉って呼ぶ名称だ。二人に純粋な恋愛関係はなく、打算的で計算し尽くされた関係は、外から見ればまるで神話の「トリストラムとイズールト」になぞらえられるほど美しいものだ。
ただそれはマティのように事情を知った者からすればそらぞらしいものだったが。二人は恐ろしく好色で、計算高い。
「ジャネットにはバルトとしての才能はあっても君ほどの力はない。加護も、君のおまじない程度のものにも敵わない。俺は身を持って知ってるからな」
「それはそれは。そう言っていただけるのは光栄ですね」
「そう棘を出すなよ。その髪飾りはよく似合っているな。神話の女神のようだ」
「そういうことも、ジャネット様に仰ってはどうですか。私はあなたの恋人でも専属の魔導師でもありませんから」
そうすげなく言い返せばアドレーは「やれやれ」という風に肩を竦めた。
自分専属の魔導師になれ、と口説いてくる黒騎士団長にはこれくらい冷たくあしらうのでちょうどいいと思っているマティだ。アドレーは気を取り直して別の話題を口にした。
「噂の弟君を見たよ。君の騎士に連れられてたな。その花飾りは弟君からかい?」
アドレーも二人の姿を見ていたらしい。
ユーリの笑顔を思い出して、ふふ、とマティは機嫌よく笑った。
「愛らしいでしょう? まるで物語に出てくるピクシーのようで可愛くてしょうがないんです」
「……あまり君に似てないな」
「そんなことありません。緑の目も、ちょっと上を向いてる鼻も、白い肌も私とそっくりですよ」
目に入れても痛くない、と言わんばかりのマティにアドレーも苦笑するしかない。
「その弟君を神殿に入れないのはなぜだ? 君の弟ならさぞかし力のある魔導師になるだろう」
「……ユーリを、弟をここへはいれません。あの子は私たちとは違うんです。神に愛されたあの子はもっとのびやかに過ごしてほしいんです」
「神に愛されたと言うなら君もそうだろう。何の違いが?」
「違うんですよ。あの子は私たちと見る世界が、きっと違う」
「?」
意味が分からない、という顔をしているアドレーにマティは霧を手で受けてみせた。
「例えば、この様子、あなたにはどう見えますか?」
「どうって……ただの水だが。水が霧雨みたいになっているな」
「そうですね。でも私たちは違います。ここには水や風のスピリットが集まっている。密に集まって、ぶつかり合っている。だからこんな現象になってるんです。私たちはスピリットの存在を視覚的に、感覚的に見るので」
「よく分からないな」
「そうでしょうね。例えば向こうの林。鬱蒼と暗く見えるのは、多くのスピリットが潜んでいるからですよ。反対側の林は明るく見えます。スピリットの数が少ないから」
「そんなのは光の加減や、木の立て込み具合だと思うが」
「普通の人はそうなんです。ですが私たちは違います。そうですね、あなたにもスピリットの存在を強く感じますよ。
あなたが必要以上に猛々しく見えるのはスピリットのせいだ」
「へえ?」
マティはアドレーの胸の甲冑に手を触れる。
「大胆だな」
「……ふざけないでください。あなたには、戦の神のダラニスのスピリットの気配を強く感じます。その身を取り巻くように、自然に存在してる。他の騎士には儀式をして呼び寄せるのに、あなたにはその必要がない。だからおまじない程度の加護で恐ろしい程の効果が出る。あなたは生まれながらにしてダラニス神の申し子だ」
マティは甲冑から手を離し、指を鳴らすと、爪の先から青い稲妻が火花となって四方に飛んだ。それは雷をつかさどるダラニス神のスピリットがマティによって小さく集約された結果だ。
「! 確かに、俺の家はダラニス神を厚く信仰している。下手をすれば天空神トータティス神よりも手厚いくらいだ」
「それも要因の一つでしょうね。あなたはダラニスに愛されている」
「……聞いていて照れるほどの称賛だな。ひょっとしなくても君もバルト(称賛者)に向いてるんじゃないのか」
「ご冗談を。話は戻りますが、ユーリも神に愛された子供だ。あの子はきっとスケッルスに愛されている」
「……森の神に?」
マティは頷いた。
「あの子はきっと私たちとは違う世界を見ているのだと、いつも思います。あの子にはきっと……」
これ以上はどう表現しようか迷って、口を閉ざした。
「……マティ?」
「私たちが神の姿を見ることは稀です。僕であるスピリットならまだしも……神というのは途方もない大きなスピリットの集合体で、目が眩んでしまうほどの大きなエネルギー体なんです。神話に伝わるような人型をしていない、巨大な光なんです。それが私たち魔導師の見る世界なんです……」
言いながら思い出すのはユリシーズの不思議な行動だ。あの儀式の最中、マティを森の中で宿り木まで導いたユリシーズは実体ではなかった。不思議な事はそれまでにもたくさんあった。不思議と森の中で迷子になっても翌朝にはけろりと帰ってきたり、ふっくらとした手にこの辺には咲いていないたくさんの花を持っていたりする。奇跡のようなそれはまるでスケッルス神からの贈り物のようだ。その花には確かにスピリットが宿っているが、それよりもその先にある何らかの偉大な力がユリシーズを導いているような気がしてならない。だが当のユリシーズは同じ年頃の子どもと遊ぶような感覚で気安くそれらに触れてくる。その不思議さをなんと表現していいかマティは未だに分からない。
「……なるほど。俺たちのような人間には理解できない世界だが」
「?」
物思いにふけろうとしたマティの手を強く握られて、そのまま口づけられる。
「もっと現実的で、見たままを受けいれてくれてもいい。ダラニスの守護を差し引いても、俺は魅力的な人間の男だと思っているが」
「……ぬけぬけとよく言いますね」
「事実そうなんだからしようがない」
ちゅっと音を立てて手の甲にキスをすると、アドレーはあっさりとその手を解放した。
マティを見つめる目は力があり、同じ同性でも引きこまれそうになるほどの雄の魅力を発している。マティですらそう感じるのだから女性はたまらないだろう。強く、猛々しい雄の本性はこの国では賛辞の対象だ。
「俺の専属魔導師になる気になったか? もしくは、恋人に」
「……どうしてそうなるんですか。そんな話はどこにもしてませんが」
「つれないな。今俺に見惚れていただろう? 君が女性なら、簡単に口説けたのにな」
「生憎、私が女性だったとしても調子のいい騎士には靡きませんよ。ジャネット様程ではないですが私も場数を踏んでますしね」
「だけど今日は君のあしらいを知ったよ」
「?」
「最愛の弟君の話題を出すとたくさんお喋りをしてくれる。俺のような相手でも」
その言葉にマティは舌打ちをしたくなった。いや、軽くしたかもしれない。
忌々しい、という顔をしてみせたマティにアドレーは団長らしからぬ顔で少年のように心底楽しそうに笑った。