とある風景
それはマティや姉のアネリがまだ生きていた頃の一風景。
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それはマティや姉のアネリがまだ生きていた頃の一風景。
ライオネルが父の跡を継いで騎士になって間もない頃だ。
まだバルト家が今ほど貧困に喘いでいない時分。
魔導士が集う神殿の中で一番の魔力を持つのがマティ・シャブリエだった。稀代の魔力を持ち、その容姿も群を抜いて美しかった。
当時シャブリエ家はマティが継いでいてユリシーズは10歳の子供でしかなかった。マティの肉親と言えばこの小さなユリシーズしかいない。両親は随分早くこの世を旅立ったらしい。
母親はユリシーズが幼いころに、父親はライオネルの父と一緒に戦死してしまった。
二人の家は名門シャブリエ家とは思えないほど質素な家で簡素な家だった。もともと魔導士と言っても貴族ではない。その暮らしぶりはほとんど庶民と変わらなかった。ただ少し庶民よりも森に近い場所で家を構えていただけで。
それでも父親という後ろ盾を失った二人をライオネルは放っておけなくて、屋敷に来ないかと度々誘ってはいた。似たり寄ったりの住まいではあったが使用人だっているし、ここよりは快適に過ごせるに違いなかった。
だがマティは決して頷かなかった。
「ここが私の家さ。ユーリがいて、父と母の思い出も詰まってる。ここをそう簡単には出ていけない」
それに、とマティが瞳を和らげる。その視線の先に、穏やかな寝顔で眠るユリシーズがいる。
「ここは随分と森の気が近い。森と農業の神スケッルスに愛されているあの子にはきっとここが過ごしやすいと思うよ」
とマティは春色にけぶる緑の瞳で笑った。
マティは美しい銀髪と緑の瞳で顔立ちも秀麗だった。ずば抜けた魔力だけでなくその美貌からマティを専属の魔導士にしたいと希望する裕福な黒騎士も後を絶たない。けれど決してマティはなびかない。有力貴族の娘、息子、時には王家の血を引く者から求愛を受けても軽くあしらってしまう。
それはマティの中で一番が弟のユリシーズだったからだ。他の誰でも無く。恋人でも、加護を与えるライオネルにでもなく。そのことが不満ということはなかったが、疑問はあった。
「どうしてユリシーズを神殿に入れないんですか。いつまでもあなたが手元に置いておくよりも神殿に入れた方があの子ももっとたくさんのことを学べる。読み書きも、神学も、もっとたくさんの教養と魔法も」
「文字の読み書きなんて私にでも教えられる。神学も、寝物語で十分だ。あの子に神殿は向かない」
「……どうしてですか」
「あの子がとてもスケッルス神に愛されているからだよ。持って生まれた魔力もきっと神殿にはそぐわない。あの子にはもっとのびのびと育ってほしいんだよ」
ライオネルはため息をついた。マティの神殿嫌いも有名な話だが、結局のところ話はそこに落ち着いてしまうのだ。
マティはユリシーズが可愛い。何をおいても優先順位が一番なのだ。ライオネルと数個しか年は変わらないのに、ここまで弟思いになれるのが不思議だった。
「それに私にできることは私がしてやりたいんだよ。あの子はきっと自分の力で苦労するだろうからね。せめて手に職をつけて生きるのを容易くしてやりたい」
マティは自分の手が空いたときにユリシーズに薬草の知識を叩きこんでいた。
「きっとこの子は薬師として大成するよ。何しろ森の神がついてるからね。本能的に薬草を嗅ぎ分けて有効成分を抽出するのはわけなくやってのけると思う」
「……さっきからユリシーズがスケッルス神に愛されているというのはどういう意味ですか」
「その言葉の通りだよ、ライオネル。私たち魔導士は神の加護とその僕であるスピリットを操る。スピリットを操ることは難しくない。コツさえ掴んでしまえばね。反対に神の加護を得るためには強い信仰心と長い祝詞が必要になる。そうしてようやく神の気に触れられる。でも神に愛されるということは意味合いが違う。生まれながらにして加護を得る。神の僕が自分の僕同然になる。得られる力も加護の度合いも全く違う……とそんな話をしている場合じゃなかった。君、何しにここに来たんだっけ?」
そうだった。ライオネルは自分の屋敷にマティたち兄弟を招くために来たわけでもマティの魔法の講義を受けに来たわけでもない。
「明日からシーマック沿岸警備に出ます」
国境警備のためマティの加護を得に来た。
「そう。ではいつも通り戦の神タラニス神の加護を君に。タラニス神の僕である火のスピリット、そして念のために水精霊のスピリットを盾に宿そう。それでいい?」
「はい。それとユリシーズを預かりに来ました。あなたも明日から神殿でお勤めでしょう。姉もユリシーズに会えるのを楽しみにしていますから」
「……嫌な事を思い出させるな、君は。せっかく忘れていたのに」
「そう、言われても……」
困るのだが、とふと手を引かれてライオネルは視線を落とす。
さっきまで寝ていた筈のユリシーズが起き出していてピンク色の花を差し出していた。……姉の好きなプリムローズの花だ。この辺りには咲いていない。
さっきまで眠っていたのにどこから持ってきたのだろう、と不思議に思っているとマティが笑った。
「それがユーリの力さ。スケッルス神の力を借りて花を呼んだんだろう。どれ、綺麗な完全体だ」
「え……?」
ライオネルは意味が分からず可憐なプリムローズと無邪気に笑うユリシーズを交互に見た。
花を呼んだというマティの言葉が分からない。
魔法の力でこの花を出したとでも言うのだろうか。
ライオネルも知る一般的な魔法とは手品のようなものじゃない。もっと神聖で厳かで、目に見えない、けれど確かにその力はそこ存在して脅威となる。それは炎を纏ったように熱くなる剣であったり、光り輝きだす像であったり表現しづらいものだ。
「魔法は本来こうであることが望ましい。魔法なんて所詮道楽程度が丁度いい。今の神殿は信仰の域を越していて、見苦しいよね」
「……またあなたはそんなことを言って。そんなだから神官長に睨まれるんです。だから神殿でも浮くんですよ」
「神官長よりも私の方が力が強いし。それにもともと慣れ合うつもりなんかないよ、くだらない。神殿での権力争いなんて興味無いよ。私にはユーリがいるもの。ねー、ユーリ」
「ねー」
意味の分かってないユリシーズも楽しそうに返す。
「……」
ライオネルはため息をついた。
マティは頑固者なのは今に始まったわけじゃない。いつもライオネルはマティの気が変わるのを待つしかないのだ。
「大丈夫だよ、ライオネル。私は私でうまくやってるからさ。君は君の責任を存分に果たせるように尽力すればいい。私の魔法はそのために。そしてユーリの幸せのために。私の父が死んだのは君の父親のせいでも君のせいでもないんだから。君が追い目に感じる必要はどこにもないよ」
マティはライオネルの心の奥を的確に読んでいる。
マティの父親はライオネルの父親と一緒に戦場で戦死した。そのことが少なからずライオネルの心に影をさしている。ライオネルはまだいい。父は騎士で、武勲と引き換えに死んだ。戦死は騎士の本望とされるところであったし父はライオネルにいろんなものを残してくれた。それは騎士としての立場、家屋敷や備蓄した財産、姉と母、使用人。ライオネルは父を亡くしても孤独にはならない。だがこの兄弟はどうだ。身内はたった一人しかおらず、兄弟身を寄せ合って暮らすだけだ。ついライオネルは痛ましい気持ちでこの兄弟を見てしまう。
「ま、君がそう思うのも仕方ないかもね。騎士って義理堅い人が多いからね。あの忠義心は本当に頭が下がる。気違いじみてさえ思えるよ」
「……気違いって」
ライオネルが少しむっとした声で言えばマティは笑った。
「褒めてるんだ。だから信頼できる。だから父も死の道を一緒に歩いた。だから私も君を信頼できる。もし、私が死んでしまっても君が生きていたなら、ユーリが孤独にならないように愛してあげて、ライオネル。心のどこかで気にかけていて欲しい」
「またあなたはそんなことを……っ」
マティの遺言じみたセリフにライオネルは苛立ちを覚えた。
マティは父親の死後こうして自分の死を仄めかすようになった。それがライオネルには腹立たしい。そもそも、黒騎士と魔導士はお互いの命を守るためにある。
天空神トータティスの加護のために祈りその加護を国へ広める魔導士を守るために騎士が存在する。エードラム国繁栄に導く魔導士を守ることが国を守ることにつながり、騎士もその恩恵を得る。魔導士は神に通ずる聖なる存在として守り崇める存在なのだ。
だから魔導士がおいそれと死ぬようなことはあってはならない。そうならないために神殿があり、騎士たちがいる。
特にライオネルが所属する黒騎士たちは身分も相応であり、腕も確かな者が揃っている。
「二度と父のようなことはありません。俺も簡単には死にません。あなたに何かある時なんて俺があなたを守る限り無いんです」
むきになって言えばマティは笑った。
「そうだね、ごめんごめん。私だってそう簡単には死なないよ。なんたって稀代の魔導士マティ・シャブリエだもの。今のはちょっとした弱気発言だった。忘れてくれ、黒い疾風ライオネル」
黒い疾風というのはライオネルの渾名だ。遊撃部隊に属しているライオネルは馬と一心同体になって戦場を駆け抜けるのが得意で何度も奇襲を成功させ武勲を上げている。
「さあ、君の武器をここに。さっそく祈祷を始めよう。それが終わったらユーリに大好きなアネリのケーキをご馳走してあげて」
何だかうまくはぐらかされてしまって釈然としないがユリシーズの嬉しそうな顔を見ると不満は出口を失ってしまった。
黙って武器を差し出せば、マティは美しい声音で祝詞を唱え始めた。
ユリシーズはマティの足下に座り、時折マティの真似をしながら楽しそうにタンポポのような金茶の髪を揺らしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ライオネルは小さな墓の前で花を供えながら穏やかな表情でつぶやいた。
「あの頃はまさか本当にあなたが死んでしまうことがあるなんて思ってなかった。何だかんだ言ってもあなたの魔力は強かったし、あなた自身随分と図太かったから。まさか本当に俺とユリシーズを残して行ってしまうなんて」
シャブリエ家の傍にあるマティの墓の周りには色とりどりの花が咲き乱れている。
それはマティが一番褒めたユリシーズの魔法だ。
マティの魂がここに帰って来た時、寂しくないように、またユリシーズの魔法を喜ぶようにとユリシーズがせっせと魔法をかけているらしいが、その様子をライオネルはあまり見たことはない。
ユリシーズは唯一の肉親であるマティを亡くし天涯孤独の身になった筈なのに、寂しそうなそぶりは見せず、楽しそうにマティの墓に話しかけながら踊りながら魔法を生みだす。マティが死んでしまったときはずっと泣いていたのに、今では涙を流すことはない。ただ楽しそうに、昔のようにマティと戯れるように遊ぶように魔法を使う。
見れば必ず胸が痛んだ。せっせと花を咲かせる健気なユリシーズの様子に涙を流したこともあった。
だからこうしてこっそりとマティの墓を一人訪れる。
そして強く決心する。
「あの子は俺が守ります。あなたの分も。父親たちの分も。だから安心して眠っていてください」
ユリシーズが孤独にならないように。どんなにバルト家が貧困に喘ごうと、格が落ちようとも、決してマティが愛した弟を見捨はしない。
「バルト家騎士は、あなた方、シャブリエ家の魔導士に尽くします。あなた方にも天空神トータティス神の加護が導きが変わらずありますように」
ライオネルは立ち上がり、深く腰を折った。頭を下げ、胸の前にやった手のひらを上に向ける。
それは魔導士に対する敬意の表し方だ。
本来であれば魔導士の手をとり心臓の上に押し当てる。この命はエードラム国と、トータティス神の加護を導き伝える魔導士のものだと誓うポーズだ。
こうすると不思議と胸が温かくなる。まるでマティの手が乗せられているような温かみを感じる。そしてライオネルはますます強く誓うのだ。心が引き締まる。弱気が飛んでいく。バルト家当主として強い意思が芽生えるのだ。