久し振りの軍学校
朝イツキが目覚めると、フィリップが心配そうに顔を覗き込んでいた。
「おはようございますイツキ様、いえ、イツキ君。体調は如何ですか?」
「おはようフィリップさん……もう朝なの?」
「はい、昨日王宮から帰る途中に眠られてから、朝まで眠られたままでした」
フィリップはそう言いながら、いつものイツキの部屋(病院の最上階の小部屋)で、洗顔と朝食の準備を整えていく。
「今日は軍学校に行かれると聞いていたので、軍の馬車を用意してあります。いつ頃出られますか?」
コポコポと熱い飲み物をカップに注ぎながら質問する。イツキの好きなハーブティーの香りが部屋中に広がり、イツキはゆっくりと体を起こす。
まるで執事のように世話をやいてくれるフィリップに、イツキはフゥッと短く息を吐き、用意された洗面用具で顔を洗う。
「フィリップさん、その敬語を止めてください。それに世話し過ぎです」
「いいえ、これは私の仕事ですし、私の生き甲斐なので止められません。もしもイツキさ……イツキ君が、僕をフィリップと呼んでくださるなら、私は敬語を止めます」
全く聞く耳を持たない様子のフィリップは、朝食をどうぞと言って部屋を出ていった。イツキの上級学校の制服を受け取りに、教会の管理人室に向かう為に。
昨日の内に綺麗に洗濯されていた制服は、きちんとアイロンがけしてあった。
1人で朝食を摂りながら、どうしたものかとイツキは考える。このままでは、秘書官補佐という高位の役職者に、敬語で話し掛けられる学生になってしまう……う~ん……仕方がないかぁとイツキは諦めることに決めた。
「フィリップ、ジューダ様に挨拶をしたら出掛ける。馬車を頼む」
嬉しそうに制服を持って部屋に入って来たフィリップに、イツキは声を掛ける。
「・・・!・・・了解イツキ君。教会の前に馬車を回しておくよ」
「でも、人前ではフィリップさんと呼ぶからな!」
「それでいいです」
なんて嬉しそうな顔をするんだろう……イツキは相棒のラール(イツキの愛犬)を思い出し、可笑しくなって笑ってしまう。ラールは今頃、本教会で元気よく番犬をしているだろと思いながら、窓の向こうのハキ神国に想いを馳せ、やっぱりラールみたいだとフィリップを見てクスリと笑う。
久し振りの軍学校が近付いてきた。
「ああぁ……気が重い。皆に心配させたから、きっと怒ってるだろうなぁ」
「イツキ君、そんなことないよ。僕だってアルダスだって、もう1度会えて喜んだだろう?まあレポル教官(ヤンの父親)くらいは文句を言うかも知れないが、昨日から息子が帰宅してるから、家に帰っているだろう。むしろ、留守の時に来たことを怒るかもしれない。気にすることはない」
心配しているイツキを見て、こういう所はまだ子どもだなぁと思うフィリップである。
馬車は軍学校の正門を通り、懐かしい武道場前広場に到着した。
イツキは9歳の時から12歳までの間、ここで軍用犬とハヤマ(通信鳥)の育成をする研究者として働き、イツキ先生と呼ばれていた。
時刻は午前9時、休日を楽しむため学生たちは町に繰り出そうとしていた。そこへ軍の馬車が到着したので、何事だろうか?誰が来たのだろうか?と、学生たちは足を止める。
学生たちの視線が集まる中、馬車を降りてきたのは、グレーの長い髪を緩く後ろで結び、特徴のある金色の瞳、整い過ぎる顔立ちに背はスラリと伸び、バランスの良い体つきをした男だった。服装は軍服ではないが上等な服を着ているので、貴族か上官だろう……とにかく只者ではない大人の雰囲気を漂わせている。
学生たちは興奮気味に、いったい誰だろうとヒソヒソと噂し合う。
先に馬車を降りたフィリップは「教官室へ行ってきます。ゆっくりどうぞ」と言って、さっさと歩いて行ってしまった。
イツキは馬車を降りると、懐かしい軍学校の空気を胸一杯に吸い込む。
そして自分の方を睨むように見ている学生たちに気付く。
『そう言えば、上級学校の制服を着ていたんだ。この視線は、お坊っちゃんが何の用だオリャァ!みたいな感じかな……やっぱり上級学校とは雰囲気が違う』
イツキはそんな学生たちの態度が懐かしくなり、フッと笑ってしまった。
上級学校の制服を着て、黒い瞳に黒い髪、一見女の子の様な美少年で、身長は低く、なんだかひ弱そうなガキが、自分たちの方を見てフッと笑った。
「おい、あいつ今笑ったよな!」
「なんだ、あの笑いは?バカにされたのか俺ら?」
「まあ待て、軍の馬車に乗って来たんだ。迂闊に手を出さない方がいい」
血の気の多い軍学校の学生たちは、数人を除いて平民である。なので、澄ました感じの貴族のお坊っちゃんは好きではない。
「やあ君たち、ハヤマ育成士のポールと軍用犬訓練士のカジャクは居るかなぁ?」
イツキは自分の教え子であり、訓練士として育てた2人に会おうと思い、学生たちに笑顔で声を掛けた。
「はあ?呼び捨てかよ!寮監の2人なら寮に居るが、いったい何の用だ?」
学生たちの中でも体格の良い、腕に自信がありそうな強面の学生が答えて、イツキに睨みを利かす。14・15くらいのガキの生意気な物言いが、どうやら気に入らなかったようである。
「ありがとう。会いに来たんだ。寮に居るんだな……よし、行ってみよう!」
イツキは教官室の方へチラリと視線を向けたが、誰かが出てくる前に、先に寮へ行ってみることにした。勝手知ったる校内の、目の前にある学生宿舎に向かって歩き始める。
その様子を見ていた数人の学生が、イツキの後ろを付いてくる。
寮は自分たちのテリトリーである。他人がズカズカと足を踏み入れて良い場所ではないと、憤りを感じて臨戦態勢に入っていく。
そんな学生たちの様子は百も承知のイツキであったが、軽く無視して寮の扉を開けて入っていく。
「おい!お前、何を勝手に寮に入ってるんだ?誰の許しを得た?」
リーダーらしき体格の良い学生が大声で叫ぶ。すると、まだ寮の中にいた学生たちが、何事だろうかと数人部屋から出てきた。その中の2人は、いかにも悪そうな面構えの学生で、イツキを見るや顔をしかめた。
叫んだ学生は仲間を得てニヤリと笑い、獲物を追い詰め満足そうにイツキを見た。
「あーはっはっ!なんだあれは・・・やめてくれよ本当に」
イツキは寮の談話室に掲げてあった寮訓を指差し、お腹を抱えて笑い出した。
「なんだぁこいつは?上級学校の学生が何の用だ?何が可笑しい?」
悪そうな面構えの学生が、イツキの襟元を掴もうと手を伸ばしてくる。イツキはさらりと身をかわし、しゃがんで笑いながら談話室の机を掌でバンバン叩く。
「何事だ!誰が騒いでいる!」
大声で怒りの声を上げているのは、寮監であり軍用犬訓練士のカジャクだった。
カジャクが近付くと、怒りの形相と憎々しい表情の学生たちが、ある男を取り囲んでいた。よく見ると、囲まれている男は少年のようで、上級学校の制服を着ている。
そして何故か寮訓の方を指差して笑っている。不穏な空気の中、堂々と笑っていられる学生の顔を確かめようと顔を覗き込む・・・?・・・!
「あーッ!!イツキ先生!」
「カ、カジャク……あ、あれはなんだ?あの……イツキ先生の笑顔を守れって!」
イツキは笑いのツボに入ったようで、苦しそうにお腹を抱えて笑っている・・・
「どうした!何の騒ぎだ?」
今度は同じ寮監でハヤマ育成士のポールがやって来た。そして、大笑いしている大恩人であり師であるイツキが目に留まると、走り出してイツキに飛び付いた。
「イツキ先生ー!何してたんですか?心配したんですよー」
抱き付きながらポール21歳は、珍しい紫の瞳を濡らして泣きだした。
「おいポール、俺の方が先に会ったのに、なんでお前が先に抱き付いてるんだ!」
そう言いながら、カジャク23歳も泣きながらイツキに抱き付いた。
「いやー、心配かけてごめん」
イツキは自分より大きな教え子の、背中をポンポンと優しく叩きながら謝る。
その様子を見ていた学生たちは、ポカンと口を開けて、普段あんなに恐い寮監が、嬉し泣き?している姿を眺めていた。
「イツキ先生・・・?今、イツキ先生って言ったよな?」
学生たちはその名前を思い出し、寮訓を見上げた。
1、規則を守り自分のことは自分でする
2、時間を守れぬ者は、レガート軍に必要なし
3、喧嘩や騒ぎは厳しく罰する
立派な寮訓の額の下には、手書きの紙が貼ってあり
4、イツキ先生を怒らすな(1093年卒業生・1094年卒業生)
5、イツキ先生の笑顔を守れ(1095年卒業生)と書いてあった。
学生たちは困惑する・・・歴代寮長の引き継ぎノートには、1093年の先輩以降3年間、後輩たちへ警告するという見出しの文章が記されていたのだ。
《 イツキ先生の見た目に騙されるな!怒らせると必ず痛い目に遭うぞ 》
《 イツキ先生から、笑顔が消えた時、恐怖が訪れるだろう 》
学生たちは想像していた。どんな強面の先生だったのだろうかと。きっと30代くらいの体術の指導員かなんかで、見た目が痩せ型で背は低かったのだろうと。
教官や寮監も、誰も答えを教えてくれなかったのだ……
まさか……この年下の上級学校の学生が……?いやいや、そんな筈はないと自問自答するが、目の前の現実に戸惑い、誰か早く真実を教えてくれとイツキと寮監に視線を向ける。
「イツキせんせーい!お帰りなさい。し、心配したんですよー」(マハト教官)
「イツキ先生。お帰り。大きくなったね」(ハイデン教官)
「イツキ先生……な、なんで上級学校の制服を?」(コーズ教官)
軍用犬訓練教官のマハトは2人の寮監を引き剥がし、半泣きでイツキに抱き付く。長身のハイデン教官はイツキの頭を撫でて、【奇跡の世代】の一員であるコーズ教官は、イツキの制服姿に驚きながら握手する。
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