005
「お迎えが来たか」
開口一番、おじいさんが言った言葉はそれだった。
いやいや待ってほしい、確かに神父様は神職に就いておられるが別に天使や死神の類ではない。間違ってもおじいさんをおばあさんと同じところへ誘う役割は背負っていない。
おじいさんはベッドの上にいた。ここは寝室なのだろう、二つ並んだベットの手前の方、俺と神父様を目が捉えるとゆっくり体を起こして壁に寄りかかる。
「小僧、久しぶりだな」
「え、あ、はい」
最初の発言はまるで無かったかのように、俺の言葉に返事が返って来てしどろもどろにしか返事を返せなかったが、これに関して俺は多分悪くないはずだ。神父様もそうだが、気になる発言の後急に話を替えるのはやめてほしい。
「マリアンヌの事は聞いたか」
「はい、さっき神父様から」
「そうか、じゃあそういうことだ」
「……はい」
淡々と言葉を重ねるおじいさんの姿は、痛々しい。それこそ、淡々としか語れないのだろうし、間違っても死に纏わる言葉をおばあさんの名前の後に続けることも出来ないのだろう。
おばあさんが亡くなったのは三年前でも、その十倍以上もの間一緒にいた人の死は、そう軽いものじゃない筈だ、それこそそれで立ち上がれなくなる人が居る程に。
「店をやりたいそうだな」
「はい」
「ここを好きに使っていい。精々頑張れ」
神父様との話し合いで殆ど決まってると言わんばかりだった、いや、実際そうなのだろうな。
「ありがとうございます、頑張ります」
「あぁ。……………………まだ何か用か?」
「えぇ!?」
次の言葉を待っていたら、もう用事は済んだだろうと言わんばかりに訝し気な顔を向けられてしまった、あれ、おかしいな。確かこの店を使わせて貰える代わりに何かしなきゃいけない事があった筈なんだけど。
「ダン、昨日言っていた条件の話がまだじゃないかな?」
「……話してないのか?」
「話してないね。これはダンから言うべき事だ」
「チッ、面倒な」
おじいさんは再度俺に向きなおると、少し考える素振りを見せた後、こう言った。
「この場所を使う条件は別に難しいことじゃない。……この店を、『マリアンヌ』を消す事だ」
「……消す?」
「建物を壊せという事ではなく、この店らしいところをそぎ落としてから使えって事だ。看板を下ろすのは言うまでもないが、服屋も避けろ。外観も面影が無い位が好ましい。店内もな」
「……何故、ですか?」
「『マリアンヌ』が役目を終えたからだ」
その言葉の意味は、何となく分かった。
けれど、普通は逆じゃぁないのか? 消したいんじゃなくて、残したいものなんじゃぁないのか? それこそ、神父様に頼んだのは、いや頼みたかったのは店の保管であっても全然おかしくない、間違っているとも思わない。なのにおじいさんは言う、『マリアンヌ』を文字通り消してくれと。
「すいません、使わせて頂く身でこういうのも何ですが……納得出来ねぇ、一体どういうことだよ」
「おぉ、そんな喋り方もできたのか、なら煩わしいからそっちの喋り方で頼む」
「その方が良いってんならそうするけどよ、それよか質問に答えてくれねぇか?」
「何故、という話だったか」
「あぁ」
俺も『マリアンヌ』が好きだった。
無口なおばあさんの隣で洋服が出来ていく様を見ているのが好きだった。
偶に顔を覗かせて『飽きねぇのか』なんて尋ねてくるおじいさんも好きだった。
此処に来て、俺が商人になりたいと思った理由がおやっさんとの出店だけでないと思い出させられた、おばあさんが丹精込めて仕立てた服を直ぐ近くに居るおじいさんが店に並べる光景が暖かくて、何時かこういう空間を作りたいと子供ながらに心の何処かで思ってたんだ。
如何せんあの頃はまだガキで、それを心の中でさえ言語化できなかった、だから今の今迄忘れてた。
けど俺は思い出してしまったから、他人事のようにはい分かりましたと頷けない、だって俺が好きだったあの空間を、俺よりも好きだったのは目の前に居るこの人だろうから。
「何、何てことの無い話だ、面白みも無く、きっと小僧は男らしくないというだろうが……『マリアンヌ』には、儂と一緒に終わって欲しいんだよ」
「……どういう意味だ?」
「……儂は役目を終えた、『マリアンヌ』もだ、そして儂はこいつに同じ思いをさせたくない」
役目を終えた、なんてまるでこれから……縁起でもない、まだ朝と呼べる時間とは言え人が訪ねて来てもベッドから降りないその姿はまるで病人じゃないか、顔色も良いしそんな事も無かろうに、何故死に急ぐのか。
いや、何故、ではないのは分かっている。けれどそれでも俺は何故と問いかけるべきだと思う。
「小僧がこの店を好いてくれているのはな、分かるよ。お前の言葉一つ一つから有り余る程伝わってくる、しかしな、儂はアイツに置いてかれた事が悲しかったんだ。色々終わってしまった気がした。もう立ち上がれる気がしなかった」
「けどおじいさんは立ち上がったじゃねぇか」
「そう、儂は立ち上がった。習慣になっちまってたんだろうな、アイツが死んだ次の日、いつの間にか寝ちまってて起きた儂が一番最初にしようとしたのは店内の掃除だ。モップとバケツを持って店内に足を運んだところで漸く目が覚めた。そして見たのだ。アイツが手掛けた作品の数々を」
「……」
「これ等を全て世に出さなきゃならない、そう思った。そのお陰て立つことが出来た。進むことも、まあ出来たんじゃないか? で、やり切ってみたらストンと何かが抜け落ちた。達成感なんてものはまるでなかったよ、最後の一着が売れた時なんて儂は『あぁ、売れちまう』なんて商人に有るまじき事を思った」
おじいさんの言葉が、突き刺さる。
彼は気づいていないだろう、自分がどんな表情をしているのか。
たった四年だ、少なくとも俺にとってはあっという間だった、形振りなんて構わなかったから気付いたら四年も経っていて、ついうっかり四年も冒険者を辞め損ねてた。
けれどそんな四年の間に俺の知っていた人が、その人を取り巻く環境が、こんなにも変わってしまっている、お前は何をしていたんだと言われているようだ。立ち止まりこそしていなかった、けど寄り道には違いない、なにせ四年かけて行き着いた先は袋小路の行き止まり、スタート地点に戻って初めからだ。
「あぁ、話が逸れたな。つまりだ。……俺は置いて逝きたくないんだよ。俺がやられて嫌だったから、『マリアンヌ』に同じ事をしたくない」
「…………あぁ、そういう……」
「取り壊すことも考えた、だがその時によくマリアンヌの横に居た小僧の事を思い出した。顔を見れば怖いと泣かれる儂に笑顔で『俺もここみたいな優しいお店を作りたい』と言う酔狂な小僧だ」
はは、言葉にしてたのか、全然覚えてないや。
「世の中に他にもそういう奴が居るなら、そいつに手を貸してやろう。『マリアンヌ』は連れて行くがこの場所は今後も人に求められる空間のままでいられるなら悪くない。そう思った」
「それで私に話を持ってこようとしてた訳か」
「あぁ、誰でも良かった訳じゃない。だからお前の目を頼ろうと思った。お前が押す奴なら信頼出来る、儂の目よりずっとな」
「そうかい? そんなこともないと思うよ」
「何言を言っている、儂が考えうる限り最上の人材を連れて来ておいて」
「はは、じゃあやっぱり私は何も出来ていない。ダンとマリアンヌさん、そしてソリッシュが紡いだ縁の齎した結果だ」
きっと神父様の中で『マリアンヌ』に近しい者といえば俺だったから一番最初にこの店を訪ねたのだろうし、俺と二人の間に目視することの出来ない確かな繋がりが有ったからおじいさんは取り壊すのを辞めて後任に譲り渡そうと思った。様々な偶然が重なって現状があるとはいえ、その下地は確かに当人同士、俺と、おばあさんと、おじいさんの三人で結んだ縁。
人はそれを奇跡と呼ぶだろう、偶に間違えて運命とも。
神様ってやつが少しだけ後押ししてくれた結果なのだろうと、少なくとも俺は思えてしまった。
「儂も本人が来るとは思っていなかった。冒険者になったと聞いていたからな」
「それは日々冒険者を辞めるように言ってきた私の成果だね」
「おいおい……」
神父様と話している内に興が乗ったのだろう、おじいさんは思い出すように目を細め、懐かしむように言葉を紡いだ。
「儂とマリアンヌには子供が出来なかった。だからなんだろうな、よく小僧が遊びに来てた時のアイツが儂の記憶の中で一番嬉しそうだった、何時も小僧が帰った後儂に『頭を撫でても嫌がられないだろうか』なんて相談して来たよ」
「ほほう? それでダンはなんて答えたんだい?」
「『知らん、儂に聞くな』だ。当たり前だろう、顔を見れば泣かれる男だぞ、子供の扱いなぞ分かる訳もない」
「ダンらしいね、それで最終的にはどうしたんだい?」
「そいつは恐る恐る手を伸ばすマリアンヌの手を自分から取って頭に乗せたらしい。その日の夜アイツは随分テンションが高かった」
「テンションの高いマリアンヌさんというのがあまり想像出来ないな」
「あぁ、儂も驚いた」
そんな事、したっけか。
俺はおばあさんの作業を見ていられればそれだけで楽しかったから、その邪魔になるような事をしようとは思わなかったし、そんな甘えるような行動は覚えが無い、シスター・ロロのせいでその手のスキンシップは当たり前すぎて色あせた記憶の中には生憎と見当たらない。
「小僧が来てくれたお陰で、マリアンヌは楽しそうだったよ。その事を本人に言う日が来るとは思わなかったがな」
「それは……よかった。本当に、嬉しい事だ」
おばあさんが楽しかったなら、俺の楽しいが一方通行じゃなかったって事だ。
人付き合いをする中でそれはとても大切なことだ、それを損なうと歪みが生まれる。
「なぁ小僧、名前を教えてくれないか」
「え?」
「頼む」
多分、俺の名前を知らないとか、そういう事じゃないんだろう。
神父様がおじいさんの前で俺の名前を呼ぶ事は普通にあったし、話を聞く限りおばあさんから俺の名前を何回も聞いているだろうから。
「ソリッシュ。ソリッシュ・クラウゼビッツだ」
「あぁ、ソリッシュ。良い名だ」
「当然だ、神父様が下さった名前だからな」
「……ソリッシュ。マリアンヌと儂に、温もりをありがとう」
「――――……そんなのはこちらこそだ。アンタが礼をいう事じゃねぇ。俺はこの店で同じ位それを貰ってるんだから」
「はは。それは、嬉しいなぁ」
何となく、おじいさんの気持ちが分かってしまった。
多分これは勘違いなんかじゃない、少なくとも今この人が何を思って言葉を紡いでくれているのかは分からなきゃ嘘だ。そして、俺なんかの感傷でおじいさんの望みを否定してはいけないのだというのも理解した。今初めて聞いて感情的になっている俺の何倍も長い時間考えて出した結論なのだ、覆らないしもし覆らせるとしてもそれは俺であってはならない。
「話は、分かった、分かったよ。条件を呑む」
「ありがとう、よろしく頼む」
「大切に使わせて貰うから」
「あぁ」
店名を、考えなくちゃならねぇな。
「それで、何時からやれば良い?」
「出来るだけ早く」
「わかった、今から始めりゃいいんだな? 騒がしくなると思うが大丈夫か?」
「儂は残りの人生をお前の住む教会で世話になる。出来る限りマリアンヌの近くに居たいといったらそこの神父が『じゃあ教会なんてどうだろ』というから乗ることにした」
最初に言ったお迎えってそういう事か。
ビックリさせられる。
「じゃあまず引っ越しの荷物を纏めるところからか」
「いや、必要な物はもう纏めた、後は処分してくれて構わない」
……もう纏め終わった?
辺りを見回してみても、とてもそんな風には見えない。見覚えのない部屋でも、引っ越すとなれば物寂しさがどこかしらに見当たるものだ、けど店内の商品もそうだったがそれらしい痕跡は殆ど無いように見える。
「……面影を無くすんだから、文字通りすべて処分することになるだろうけど、本当にいいのか?」
「あぁ、よろしく頼む」
「分かった、じゃあ早速取り掛かろう」
服屋『マリアンヌ』は終わる。
けれどこの場所は未だ名前も決まっていないがお店として今後も人に必要とされる場所で有り続ける。そうなるように努力する。
おじいさんの望んだ通りに。