善悪の彼岸
進一郎から左反の遺書を受け取ったブラックシネマは、その内容をじっくりと吟味してから懐にしまい込んだ。
「念のために鑑定には出すが……左反本人の筆跡と思って間違いあるまい」
進一郎は頭を下げたまま、ブラックシネマに気付かれぬよう唇を噛む。
長年苦楽を共にした親友の筆跡をカメラのように精密かつ正確なブラックシネマの魔眼で確認したのだ。この世の誰であろうと欺くことはできまい。
これにより、筆跡鑑定を待つまでもなく左反の自決は確定したのだ。あまりの無念に進一郎は言葉もない。
「正直、この遺書は助かる。私の魔眼に記録された映像は、ねつ造を疑われて当然だったからな。これで納得してくれる者もいくらか増えることだろう」
お手柄だとブラックシネマは誉めるが、進一郎の頭は下がったままだった。
進一郎たちが呑気に犯人捜索に明け暮れている間、ブラックシネマは地獄に赴き魔王死亡の責を一身に受けていたのだ。その心労がいかほどか考えると、とてもではないが頭を上げる気にはなれなかった。
「君がどれだけ頭を下げようが一ドルの利益も生みはしない。そのやつれた顔を見れば君の尽力は十分皆に伝わるさ。午後からは出かけるのだ、頭を上げて支度しなさい」
ブラックシネマの温情を受けて、進一郎はようやく頭を上げる。
たとえ左反の死亡が自決とわかり、怒りのぶつけどころがなくなろうとも、進一郎にはまだブラックシネマがいる。
この偉大なる頭領に仕えている限り、進一郎の心が陰ることはない。前を向いて闘えるのだ。いつまでも、どこまでも。
※
進一郎の運転するオープンキャデラックでブラックシネマパークを離れること約一時間。二人は湾岸沿いに建てられた小さな教会に到着していた。
その教会は、週末に行われる予定である左反の葬儀のためにブラックシネマが買収した物件であり、本日はその下見に来たのだ。
「なかなかいい場所だろう。海の見える教会なんて探してもなかなか見つかるものじゃない。この物件が見つからなければ一から建てるつもりでいたぐらいだ」
「現在収録中の映画のワンシーンにも使えそうですね。今度監督と相談してみます」
元天使である左反のために、ブラックシネマはあえて天国に近い地上での葬儀を決断した。遺族の了解もすでに取り、受肉のための準備も済ませてある。
これにより天使側に魔王の死亡を悟られることになるだろうが、遅かれ早かれいずれは露見することであり、二人とも仕方のないことだと割り切っていた。
これで本当に良かったんですか――左反さん。
教会の屋根の上に付けられた厳かな十字架を見上げて進一郎は想う。
ラウムも、ブラックシネマも、左反の関係者はみな口を揃えてこう言う。
「終わることができて良かった」と。
まるで、今まで生きていたことが神から与えられた罰であったと言わんばかりの口調で。
果たしてそれは真実なのだろうか。
人の生命に価値などないが、そこに宿る意志には大いなる値打ちがあると言ったのは他ならぬブラックシネマその人だ。莫大な価値を持つ魔王の精神は、ここで終わることを本当に善しとしたのだろうか。
天使にあらざる進一郎には伺い知ることもできない。それが何よりも無念だった。
「……すべてを知っていたラウムが <天使の核> で、左反さんを殺害した可能性はありませんかね」
「ラウムくんもまた元天使だ。起爆させるのは不可能だよ」
くだらないことを訊いた。
自分でも女々しいとは思っていたが、進一郎はまだ他殺の線を消し切れていなかった。
「進一郎くん、君は実に優しい男だ」
ブラックシネマは言った。
頭領のほうがよほど優しい御方だと進一郎は思った。
「私がスカウトに赴いたとき、君は両親のために入団すると答えた。入団してからは私のために身を粉にして働いた。今回の事件についてあくまで殺人に拘るのは、自らの手で左反さんの仇を討ちたかったからだ」
「頭領、それは……」
「君は冷血に見えて実は情が深く、君の周囲にいる者たちにあまりに優しい。優しすぎると言ってもいいかもしれない。それは君の大いなる美点ではあるが『悪』を名乗る者としては欠点でもある」
認めたくない事実だった。
悪の組織の幹部として、これまで非情に徹してきたつもりだった。容赦のない行動を取り続けてきたつもりだった。
おかげで周囲には <死神> と呼ばれるほどのアウトローだと思わせることができたが、真実を映し出すブラックシネマの魔眼はやはり誤魔化せない。
「だが同時に、君の中には確かな『悪』が巣食っているのもまた事実だ。そいつは自らの怒りを目に見える形に変えたがる、極めて粗野で乱暴で危険な恐るべき魔物だ。だからこそ私は君を我が団にスカウトしたのだ」
ブラックシネマは身に纏っていた紅蓮の外套をはぎ取ると、進一郎の鼻先に突きつける。
「己が魔物を飼い慣らしなさい。そのとき君は善悪を超越した超人へと至ることだろう」
進一郎はブラックシネマの行為の真意が汲み取れず、ただただ呆然とその場に立ちつくしていた。
そしてブラックシネマは高らかに宣言する。
「本日付けで我が団のすべての資産を君に譲渡する。進一郎くん、君が二代目ブラックシネマだ」
――えっ?
自分でも呆れるほど間抜けな声が口から漏れた。
「あの……言葉の意味がよく……」
「私は葬儀を終えた後、肉体を返上してすぐに地獄に還らなければならない。左反――いや、ルシフェルの遺言に従い、彼の子孫の後見になるつもりだ」
遺書には確かに地獄の未来を子孫に託すと書かれていた。
しかしブラックシネマに後見になってくれとは一言も書かれてはいない。
「なぜ、わざわざ頭領が? 地獄にいる左反さんの配下たちに任せればいいではないですか」
「彼らにルシフェル亡き後の地獄をまとめあげられるとはとても思えない。それに地獄の四大勢力の一角である私が後見となれば、ルシフェルの子孫たちも心強いであろう」
「おやめください! 遺書があるとはいえ左反さんが死んだのは頭領の縄張りです。他の悪魔たちから権力欲しさに左反さんを謀殺したと疑われます!」
「私に限ってはそうはならない。なぜなら本来、魔王になるべきは私だったのだから」
ブラックシネマが言うには、神に対抗する地獄の軍団を結成した際、誰がリーダーになるか皆で話し合ったことがあるという。その結果、実力神格共に妥当であると選ばれたのはバエル――現ブラックシネマだったとのことだ。
しかしルシフェルと神の確執を知っていたバエルは指揮権を彼に譲渡し、その後周囲の反対を押し切り地獄の統治をも任せると、自身は魔王城から出奔し放浪の旅に出たという。
実にブラックシネマらしい逸話だと進一郎は思った。
「あの頃の私は若かった。他の悪魔どものお守りなんぞまっぴら御免でな。出奔した先で東方の王に任命された時も令状を破り捨ててやろうかと思ったぐらいだ。あの時は渋々ながらもルシフェルの顔を立てたがね」
「その後、地上にお出でになられたということは、地獄になんら未練なしということではありませんか。そのような場所にわざわざお戻りになる必要はございません!」
進一郎の必死の説得に、しかしブラックシネマは何度も首を横に振る。
「地上に出て組織を持ってさんざん苦労して運営して、私はようやく昔の私の愚かさに気付いたよ。生前ルシフェルには迷惑をかけた。今度は私が恩を返す番さ」
「それでは組織はッ! あなたが一代で築きあげた、このブラックシネマ団はどうするのですか! このまま無責任に放り投げるおつもりですか!?」
――このままでは頭領が地獄に還ってしまう!
進一郎は本気で焦った。
入団して初めて真剣に頭領に楯突いた。
なりふり構ってなどいられなかった。
たとえこの場で八つ裂きにされて殺されようとも、ブラックシネマをバエルに戻すことをなんとしてでも防ぎたかった。
しかしどれだけ怒ろうと、どれほど訴えかけようと、ブラックシネマは自らの意志を変えることはなかった。
進一郎はこの時初めて、神に天に戻ってくれと懇願し続けた左反の気持ちが心から理解できたような気がした。
「もしも君がいなければ、私はなんとしてでも地上に残ろうとしたかもしれないな」
私が心置きなく地獄に還れるのは、全幅の信頼をおける右腕がいるからだ。
力強いその言葉に、しかし進一郎は大きく顔を歪ませる。
「我が地上での夢を――世界征服の野望を、君に託す」
全身が情けないほど震えた。涙腺から熱いものがこみ上げてくるのを、どうしても止められなかった。
進一郎は泣いた。
どうにか声だけは抑えたが、物心ついてから初めての大泣きだった。茫漠の涙は頬を伝い、滴となって大地へとこぼれ落ちる。
「おっ、俺は……いえ私は、人の上に立つような器ではございません。どうか、いま一度お考え直しを……ッ!」
なんのために生きてきた。誰のために働いてきた。
すべては魔人ブラックシネマのために。本当にただそれだけ、他には何もない。
頭領のいない団を継いでどうするというのか。富も権力も仲間も野望すらも、何もかもがただただ虚しいだけではないか。
進一郎にとってブラックシネマのいない世界は虚無に等しかった。そんな世界を征服したところで、いったいなんの意味があるというのか。
悲しみに暮れ、膝を折ろうとした進一郎を、しかしブラックシネマは許さない。
「この私を失望させるな! 我が右腕は、そのような見苦しい泣き言を抜かすような男では断じてない!」
ブラックシネマは進一郎を激しく叱りつけた。
進一郎がブラックシネマに本気で叱責されたのは、これが初めてのことだった。
この二年間、一度も大きな感情を表に出すことをしなかったブラックシネマが、左反が死んだときすらもお咎めひとつ出さなかった頭領が初めて――そう、初めて叱ってくれたのだ。
自分を奮い立たせるために。
「かつて私の敬愛する思想家はこう言った。善悪を超越し祈るべき神を持たぬ者こそが、人を超えた人、すなわち超人であると!」
――……俺は、
折れかけた心を奮い立たせ、ゆっくりと頭を上げる。
「君は私のことを神だと思っているのだろうが、それは大きな間違いだ。私はすでに神ではないし、君も神を持ってはならない! 超人になれ進一郎。人も魔も神をも超えて、唯一無二の存在となるのだ!」
――俺は魔人だ! 天使ではないッ!
進一郎は涙を拭うと、ブラックシネマの外套を奪い取るように掴み取り、そのまま背中に羽織った。
「頭領の命、確かに承りました。若輩者でございますが、全身全霊をもってあなたの跡を継がせていただきます」
後悔するのは構わない。しかしいつまでも悔やみ続けるのは愚か者のすることだ。
すでに進一郎の瞳には涙はなく、代わりに強き意志の焔が燃えていた。
――俺は、左反さんのような天使ではない。
天使のように、神に依存するようには創られていない、純粋な人間だ。特別な力など何ひとつ持たないちっぽけな存在だが、その心はまったくの自由。
ならば自らの足で立たずしてどうする。志半ばで地上を去ることになった頭領の無念を果たさずして何が頭領の右腕だ。
頭領が望むような超人に自らがなれるかどうかはわからない。
しかしその意志だけは必ず継ごう。
たとえこの先の世界が虚無であったとしても、それがどうしたと笑い飛ばして生きよう。たとえすべてを失ったとしても前を向いて進もう。
それが進一郎の決めた道であり、自らを認めてくれたブラックシネマに対する最後の恩返しだった。
「これから道は別れますが、私はいつでも頭領の無事をお祈りしています」
「私もだよ。君の険しい人生の旅路に、どうか一握の幸あらんことを」
差し出されたブラックシネマ――否、バエルの手を進一郎は力強く握った。
この日、二神進一郎は魔人ブラックシネマとなった。
悪の組織には似つかわしくない、よく晴れた穏やかな昼下がりの出来事だった。
神を信ずるものが善人。邪神を信ずるものを悪人とするならば、そのどちらも持たぬ者は善悪を超越した超人である。
二神進一郎の目指すべき彼岸はそこにある。




