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密室

登場人物紹介⑧

クローディア 怪人。ミーハーなネズミ型怪人。進一郎のファン

 書類まみれで収集のつかなくなっている机に両肘を突き、組んだ指にあごを乗せると、進一郎は真理恵の報告に耳を傾けた。


「結論から申し上げますと、左反さまの部屋から怪しい人物の指紋は発見されませんでした」


 真理恵の部下に任せておいた鑑識の結果が早くも出たのだ。

 なかなかに仕事が早いと進一郎は感心する。


「鑑識官を呼んでくれ。現場で直接話がしたい」

「はい。しかし、わざわざご自身でご確認される必要があるのでしょうか」


 普段はアホの子な真理恵だが、ああみえて仕事に関しては真面目にこなすし、上司に報告するときはちゃんと敬語を使おうと努力はする。

 非常に結構なことではあるのだが、まるで慣れていない敬語は違和感がありありで、進一郎は思わず苦笑してしまう。


「左反さまを除けば室内に残った指紋は我ら幹部のものだけです」

「念のためだ。室内も、もう一度確認しておきたいしな」


 テープのラベル偽装の一件もある。すべての事柄を自らの目で確かめなければ納得できない。

 そう決めると進一郎は、真理恵を連れて左反の部屋へと赴いた。


                 ※


 布留火の許可を取り封鎖されていた左反の部屋へと入る。葬儀のために遺体は撤去したが、それ以外の状況は一昨日とまったく変わっていない。あの日と同じく閑散とした、生活臭の感じられない部屋のままだ。


「左反さん……」


 遺体のあった位置に引かれたマーキングを見て進一郎はつぶやく。


「非日常に生きる身ではあるが、テレビドラマ以外でこのような場面に遭遇することになるとは、露ほども思わなかったな」


 それは進一郎が犯した、生まれて初めてと言っていいほどの大失態の証だった。

 なんという不覚か。なんという無念か。この借りは、犯人の生命程度では到底あがなえない。


「あの、進一郎さま。少しだけご意見をおよろしいでしょうか」

「……もういい。いつもどおりに話せ」


 進一郎自身、敬語は得意でもなければ好きでもない。おかしな敬語をろれつの回らないしゃべりで聞き続けてもいらつくだけなので敬語の禁止を命令する。

 さすがの真理恵も仕事中の上司へのため口は抵抗があるらしく、少しだけ逡巡するが、すぐに意を決して普段の口調で話し始めた。


「あのね、進ちゃん。私ずっと考えてたんだけど、今回の事件ってもしかしたら自殺なんじゃないかな」


 それは、あの場に居合わせた誰しもが一度は考え、しかし誰も口にはできなかった死因だった。


「興味深い意見だな。どうしてそう思う?」

「だって私が見たときには、この部屋には内側からロックがかかっていたもの。神様がやったんじゃないなら自殺以外考えられないじゃない」

「監視カメラの映像をねつ造してか?」

「それは、ミヤコちゃんが事件当日のテープを誤って紛失しちゃって、誤魔化すために先週のテープをダビングしたんだよ」


 可能性としてはありえない話ではない。

 しかしあくまで他殺を本命とする進一郎は真理恵の意見を却下した。


「俺には左反さんが自殺するような人には思えない。それにな、そこを見てみろ」


 進一郎が指さす先には、いつも左反が座っていた木製のテーブルがある。

 テーブルの上には左反が室内に居たことを示すIDカードと陶器製の白いティーポット、そして同じ材質のカップが二つ置いてあった。


「整然としたこの部屋を見ればわかるとおり、左反さんは元天使らしい潔癖性だ。そんな人が、カップを二つも出しっぱなしにして放置しておくか?」


 質問に口ごもる真理恵を前に進一郎は断言する。


「居たんだよ、この部屋には二人の人物がな。そいつは左反さんを殺すとカードも使わずにこの部屋から出て、誰にも見つからずにこの基地から脱出した」


 ――もっとも、脱出したとは限らないがな。

 左反在籍の情報を持ち、監視カメラのテープを盗難できる人物となると内部犯、それもごく限られた人物に絞られてくる。

 候補はすでに何人かあたりをつけているが、とにもかくにもこの密室の謎を解かなくては始まらない。


「それにしてもやけに眩しいな」


 進一郎は手でひさしを作って目を細める。

 眩しいというのはこの部屋の照明である。団内の照明はすべて光量の調整が可能なのだが、左反の部屋は進一郎の執務室よりずっと明るく設定してあった。部屋全体の白さと合わさってそうとう目にくるものがある。


「私も最初にこの部屋の電気をつけたときは、あまりの眩しさにちょっと目がくらみましたよ。左反さまもお歳ですから、目が弱っていたのかもしれませんね」

「老眼っていうのは、明るくすればどうにかなるものなのか? 若い俺にはよくわからんが……」


 言いかけて、進一郎はある可能性に気付き、真理恵の顔をじっと見つめる。


「もしかして、消えてたのか? 事件当日、この部屋の照明は」


 真理恵は顔を真っ赤にして、進一郎の視線を避けるようにそっぽを向くと、


「う……うん」


 どもりがちに言った。


「おまえ、利き腕は?」

「私が生まれつき左利きだって、進ちゃんも知ってるでしょ」


 真理恵の利き腕は誰もが知っていることだったが確認のためにあえて訊いた。進一郎は電子ドアを凝視しながら考え込む。


「少し確かめたいことがある。事件当日のおまえの行動を忠実に再現してみてくれないか」

「それって何か意味あるの?」

「あるかもしれないし、ないかもしれない。ちょっとした実験だ」


 指紋付着防止用のゴム手袋を投げ渡して進一郎は言う。その声には興奮の色が見え隠れしていた。


「特別なことなんて何もしてないんだけどなあ」


 手袋をつけた真理恵は、ぶつぶつと文句を言いながらも当時の状況を再現するべく部屋を出た。

 長い廊下をもう一度歩き直し、左反の部屋の前で止まる。

 電子ドアのロックランプがレッドになっていることを確認してから、スペアのキーカードを挿入口に差し込んでロック解除のグリーンへと変える。後はドア上部にあるセンサーで物体を感知し自動で開くような仕組みになっていた。


「左反さま、ご就寝のところ失礼します」


 部屋の中は事件当初と同じく真っ暗になっており、就寝していると考えた真理恵は左反を起こすべく、部屋に入るとすぐに身を翻し、右手にあった照明のスイッチを左の指で押した。

 予想以上に眩しい照明の光で一瞬目がくらみ、真理恵は手で目を軽く覆った。そして、すぐにテーブルの下にある灰と化した遺体に気付き、急いで走り寄ったのだ。


「どうだ真理恵。気付いたか?」


 真理恵が遺体のあった位置に駆け寄ると同時に背後から声をかけられる。


「どうだ? って聞かれても……」


 真理恵が振り向くと、進一郎はすでに部屋から出ており、開け放たれたドアの前で少し得意げな笑みを浮かべて立っていた。


「灰になった御遺体が、もしかしたら左反さまのものなんじゃないかってすぐに気付いたよ。だから慌てて駆け寄ったの」

「そうじゃなくて、俺が部屋の外に出たことに気付いたかと聞いているんだ」


 真理恵は腕を組んで、少し考え込む素振りを見せると、


「もう一度チャンスを」


 どうやらまったく気付いていなかったようだ。


「犯人は左反さんを殺した後に電気を消して部屋に潜み、おまえが照明をつけるためにドアから離れた瞬間を狙って外に出た。おまえの注意は最初は照明に向かうから犯人が部屋から脱出したことに気付かない。その後は左反さんの遺体を発見して動揺していただろうから、逃げる犯人の気配にも気付けない」

「今のはちょっと油断しただけ! 事前に教えてくれてたら私ちゃんと対応した!」

「事前に教えたら意味がないだろうが」


 進一郎は再挑戦を望む真理恵の声をあっさり一蹴した。

 事件当日も今日と同じか、もしくはそれ以上に油断していたのはまず間違いないだろう。


「これじゃあ、まるで私が不覚を取ったみたいじゃないですか」

「事実取ったのだから仕方あるまい。俺は息を殺してスイッチの反対側の壁に張りついていただけだが、もっと上手くやれる奴もいるだろうな」


 あくまで可能性の一つにすぎないが、これでこの部屋の密室は崩れた。

 進一郎は実験の結果に満足して再び室内へと戻った。


「でもこれって左利きの私にしか通用しない脱出方法だよね」

「夜中にスペアカードを使ってまで左反さんの安否を確認しに来る者は、警護担当のおまえぐらいしかいないからな。クローゼット等に隠れて好機を伺うという手段も考えられる。いずれにせよ、本職ならばおまえを欺くぐらい簡単だろう」

「本職って……」


 どういう意味と真理恵が言いかけた、ちょうどその時だった。

 電子ドアが小さな音を立てて開き、思わず耳を塞ぎたくなるほどの大声が室内に響いた。


「鑑識担当のクローディアです。ご連絡を受けて説明に参りました!」


 声に似合わぬ小柄な体躯のネズミ型怪人の少女だった。

 進一郎は直接的な面識はないが、怪人の中でも珍しく頭が回り、団内唯一の鑑識官を任されているそうだ。

 クローディアは上司である真理恵に敬礼すると、小さな歩幅でトコトコと進一郎の前までやってきて、胸に抱えていた色紙を差しだして興奮した面持ちで言う。


「 <死神> シンにお会いできて光栄です。もしよろしければサインをいただけないでしょうか!」


 進一郎は無言で色紙を受け取ると、膝でへし折りゴミ箱に放り込んだ。

 魔人ブエルを暗殺して以来この手の輩が多くて困る。悪の組織はアイドルグループではないのだ。


「ちょっと進ちゃん、サインぐらいあげたっていいじゃない」

「勤務中だ。慎め真理恵」


 仕事と言えば真理恵は黙ることを進一郎は知っている。

 ショックを受けていたクローディアもそれで納得したようで、すぐに気を取り直して鑑識官の顔に戻った。双方共に根は真面目なようで扱いやすくてとても助かる。


「血痕等の殺人の匂わせる痕跡は?」

「一切ありません。争った形跡さえ見あたりません」


 すでに真理恵から聞いていたことではあるが、改めて聞かされるといらだちが抑えきれない。

 密室のアリバイは崩れたが、肝心の殺害方法がわからなければ、事件は迷宮入りを免れないのだ。


「現場に残った指紋から特定できた人数は?」

「四名です。被害者を除けば指紋はすべて幹部のものです」


 盟友であるブラックシネマの指紋がないのが少し意外だが、おそらく話すときは左反が直接出向いていたのだろう。


「内訳が知りたいな。誰の指紋がどこについていた?」

「この部屋ですと照明のスイッチに布留火さまと真理恵さまの指紋が。犯行のあったテーブルに進一郎さまの指紋が付着していました」

「そこに置いてある二つのカップから検出された指紋は?」

「左反さまとラウムさまのお二人です」


 ――俺の指紋はついていないか。

 クローディアから他から採取された指紋の位置をこと細かく訊きながら、進一郎は事件当日の状況を思い起こす。

 自分が来る前に左反とお茶をしていたのはおそらくラウムだ。しかし、その時の指紋がカップに残ったままというのはありえない。忠告を無視してその後も左反の部屋を出入りしていたと考えるべきだろう。


「どうやらラウムさんには直接、事情聴取をする必要がありそうだな」


 進一郎の言葉に驚いたのは真理恵たちだ。血相を変えて進一郎に詰め寄る。


「進ちゃん考え直して。ラウムさまを疑うなんてどうかしてるよ!」


 やれやれまたか。進一郎はうんざりした顔で頭をかく。

 ブエルの時も真理恵はソロモンの悪魔に手を出すのは恐れ多いことだと主張してなかなか譲らなかったのだ。一度こちら側が襲撃を受けているにも関わらずにだ。


「真理恵さまの仰るとおりです。今でこそ配下に加わっていますが、ラウムさまは頭領と同格のソロモン七十二柱の一柱に数えられる偉大な悪魔なのですよ。そのような御方をなんの確証もなく疑うなど、あまりにも恐れ多いことです」


 事件現場に残されたカップに指紋がついていれば、疑うには十分すぎる根拠だろう。

 クローディアの的外れな忠告を進一郎は鼻で笑う。


「俺はソロモンの悪魔であるブエルを殺したわけだが、おまえ的にそれはいいのか?」

「ブエルさまは敵対組織の頭領ですから。しかし味方となれば話は別ですよ!」


 進一郎から言わせれば、ブラックシネマの正体であるバエルとラウムは同格などでは断じてない。

 アマイモン・バエルはソロモン七十二柱の筆頭にして地獄の東方を統べし偉大なる王。

 一方ラウムは今でこそ伯爵の爵位を持ち、三十の軍団を支配していると言われるが、元は卑しい一介の盗賊にすぎない。

 ソロモン王に召喚されて共に神の神殿を建てたというだけで同格扱いするのは、頭領に対していささか失礼というものだろう。

 もっとも、それ以前に進一郎からすれば、組織に不利益をもたらす者はすべてが平等にただの敵なのだ。ブエルであろうとラウムであろうとルシフェルであろうと神であろうともだ。進一郎の主は他の誰でもないブラックシネマただ一柱だけなのだから。


「もちろん確信もなしに疑いはしない。踏み込むのは十分な証拠が揃ってからさ」


 とはいえ、階級社会で育った悪魔と生まれて間もない怪人に、進一郎の気持ちを理解しろというのは酷な話だろう。この件に関しては真理恵たちには何も期待していない。


「まあいい、しばらくは様子を見よう。クローディアは引き続き事件現場の保存と鑑識を、真理恵にはドクター國生の身辺調査を任せたい」


 ――だから、ぜんぶ俺がってやるよ。

 慎重を期する言葉とは裏腹に、進一郎の身の内に巣喰う『悪』は、すでに手段を問わず速やかにラウムを追いつめ破滅させるための方法を模索し始めていた。


「ところでシンさま、勤務外であればサインは受け付けてもらえるのでしょうか」

「寝言は寝て言え。この阿呆が」


 ――もちろん。いくらでも書いてあげるよ。

 悪魔の思考に囚われていた進一郎は、想定していたクローディアの質問に対する建て前の返答を失念し、うっかり本音を漏らしていたことに、真理恵に殴られるまで気付かなかった。


                 ※


 夜の帳が降りようとも悪の組織は眠らない。

 進一郎はたったの二年で自分でも驚くほど見事にちらかした執務室で、こぶの出来た頭を氷のうで冷やしながら、布留火の用意した資料に目を通していた。


「やはり天使側に動きはなしか」


 左反殺害の動機をもっとも強く持っている容疑者は、当然ながら敵対する天使の誰かである。

 神が堕天した原因を作り、天界を裏切り二度にわたる大戦を引き起こした張本人だ。どれだけ恨んでも恨みきれないことだろう。

 とはいえ神がいなければ何もできない、天使が如き無能者どもに左反が遅れを取るなどとは進一郎は露ほども思ってはいなかった。

 念のために布留火に動向を調査させていたが案の定、天使たちは自らの手で受肉させたにも関わらず、左反の正体がルシフェルであるという事実にすら気付いていないとのことだ。念のため自ら直接出向いて天使イチゾウに接触もしてみたが、こちらもまったく同じ感想だ。


「あまり敵を侮っていますと足下をすくわれるかと……」

「正当な評価を下しているだけだ。もっとも私は羽虫相手でも決して手は抜かない」


 持っていた書類を無造作に放り投げると、進一郎は引き続き天使の動向を探るよう布留火に命じた。


「さてと……これからどうするかな」


 布留火の報告により、進一郎の中で左反殺害の最有力候補がラウムであることが、ほぼ確定した。

 まだまだ不明瞭な部分も多いが、進一郎は探偵でもなければ警察でもない。疑惑さえあればそれで十分。たとえ著名な悪魔だろうと高貴な身分であろうとも、機会があれば私刑を強行する腹積もりだった。

 今回の件で失墜した団の名誉はラウムの生命程度ではとうてい回復しない。しかし何もないよりかは幾分マシだろう。最低でも怪人製造の材料の一部ぐらいにはなる。


「進一郎さま、軽率な行動はなりませんよ」


 進一郎の暗い感情を察したのか、布留火は強い口調で彼を諫めた。


「君もラウムの排除には反対なのか?」

「いえ、現場に置いてあったカップに指紋がついていた以上、あの御方を疑うのは至極当然のことだと思います」


 意外な返答に進一郎は軽く驚く。どうやら真理恵よりは頭が柔らかいらしい。


「しかし、仮にラウムさまが犯人だったとしても、安易に始末なされてはいけません」

「心配するな。死神は私ひとりで十分だ。君たちの手は汚させない」

「そうではありません。この犯行はラウムさまだけの手で行うには、あまりに重すぎるということです」


 布留火の言葉に進一郎は、当然考慮しなければならない可能性を失念していたことにようやく気付く。


「ソロモン七十二柱の一柱にこそ数えられてはいますが、失礼ながらラウムさまは大物と呼べるほどの悪魔ではございません。魔王殺しなどという大それたことに手を染められるほどの度胸があるとも思えません。裏で糸を引く者がいると考えるほうが自然かと思われます」


 ――そのとおりだ。進一郎は己の浅慮を恥じる。

 経緯は不明だがブラックシネマの手下に甘んじているラウムが、個人の意志でこのような大犯罪に手を染めるとは考えにくい。この事件は彼女を粛正すれば解決するなどという単純な話ではないのだ。


「慎重に参りましょう。焦れば大魚を逃すかもしれませんので、独断での行動は極力お控えください。布留火で良ければいつでも進一郎さまのお傍におりますので」


 氷のうでも冷えなかった頭が、布留火の忠告でようやく冷えた。

 進一郎は悪の誘惑を振り払い方針の転換を決定した。


「明日からラウムの身辺を徹底的に調査する。決定的な証拠が発見され次第、身柄を拘束して事情を訊く。その際、独断では決して行動しないことを約束する」


 その言葉を聞くと、布留火は優しく微笑み深々と頭を下げた。


「進言を聞き入れていただき、誠にありがとうございます」

「感謝するのは私のほうだ。これからもどんどん私を諫めてくれ」

「それではもう一つだけ。布留火から進一郎さまに具申したいことがあります」


 布留火は調査書類を入れていた手提げかばんから一枚の色紙を取り出して一言。


「進一郎さまのサインをいただけないでしょうか」


 ――ま た か 。

 あれだけこっ酷く断ったのにまだ懲りていないのかあのネズミ娘は。呆れてものも言えないとはまさにこのことだ。


「真理恵さまから話を聞いて、布留火のほうからお願いするよう頼まれました。何か書けない事情がおありでなければ是非ともお願いします」

「あるに決まっているだろ! 俺はサインの書き方なんぞ知らん!」


 アイドルでも芸能人でもない進一郎からすれば、サインを拒否する理由としては十分すぎてお釣りが来る。


「それならご安心ください」


 しかし布留火は引き下がらない。そうは問屋が卸さないと言わんばかりに満面の笑みを浮かべながら、バッグからもう一枚の色紙を取り出す。


「布留火考案の進一郎さまのサインです。これを参考にお書きください」


 そこにはアルファベットで『SIN』と書かれた、あまりの恥ずかしさに目を覆いたくなるようなサインがあった。

 準備万端なのは結構なことだが、自らの手でこのようなものを書いて万が一にも衆目に晒されるような事になれば、二神家末代までの恥となる。濯ぐ方法は、その場で自らの頭を撃ち抜き自決するか、さもなくば目撃者を全員始末するかのどちらかだろう。


「なんで俺のサインなんか欲しがるんだ。俺はソロモンの悪魔殺しの大罪人だぞ」

「女の子って男の人のそういうアウトローなところに憧れるものなんですよ」


 ただの人間が著名な悪魔を殺したとあらばそういうこともありうるのか。

 ブラックシネマの生き様に憧れを抱いた進一郎からすれば、まったく理解できない話というわけではなかったが、それでも納得はできずに大きくうなだれた。


「どうしても、書かなければ駄目か?」


 布留火は朗らかな笑みを浮かべて何度もうなずく。

 そこには「絶対に書いてもらう」という無言の圧力があった。


「……それを渡せ」


 馬鹿馬鹿しくてこれ以上つきあっていられない。進一郎は立ち上がり布留火の手から二枚の色紙を奪い取ると、問答無用で膝でへし折りゴミ箱にぶち込もうとした。

 しかし、進一郎の行動を予期していた布留火がそれを許さない。

 素早く間合いを詰め、抱きつくように身体を密着させて進一郎の非情な行為を阻止すると、その小さな口を耳元に寄せて甘く囁く。


「現在地獄におられる頭領から伝言が来ています。『淑女レディには優しく。それが紳士の心得だ』そうです」


 進一郎は顎が外れんばかりに驚愕した。

 そう、布留火は予めブラックシネマに事情を説明し、進一郎のサインの了承を取っていたのだ。


 ――頭領の命令には逆らえない。


 布留火の前に完全敗北を喫したことを悟った進一郎は、奥歯がへし折れかねないほどに歯ぎしりしながらも、最後には観念して彼女の指示通りにサインを書いた。

 初めて書いたサインはとても拙く、まるでミミズが這いずり回ったような文字だったという。

 しかしクローディアはいたく喜び、自宅の入り口に大切に飾られることになるのだが、それはもう少し後の話となる。

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