86.ユーリアンの帰宅
雪がちらつき始めた頃、アリアの兄ユーリアンが帰って来た。学園が冬季休みに入ったのだ。
王都から真っすぐ帰れば、10日程でメルヴィル領に着くが、乗り合い馬車を乗り継ぐと、王都からここまで半月はかかる。
ユーリアンが疲れた顔をしているのも頷ける。
ユーリアンにも従者はいるが、王都に居残っている。従者の家族が王都に移住しており、新年を家族と過ごさせてやりたかったのだと言う。──表向きは。
実は、乗合馬車の料金節約が主な理由だ。1人増えれば料金は倍になる。
伯爵家の嫡子が1人旅なんて危険だと言われているが、ユーリアンの腕ならば多少の事は切り抜けられる。だから仲の良い友人と家族は誰も反対しない。
帰宅すると手紙が届いてから、アリアはずっとそわそわしていた。
ようやく帰ったユーリアンに、アリアは飛びついた。
「お帰りなさいませ! お兄様!」
「ただいま、アリア」
飛びつかれたユーリアンは、嬉しそうにアリアを抱きしめた。
「──アリアは刺繍を頑張っているんだってね。はい、お土産」
ユーリアンが差し出したのは、薄く図案が書かれた布だった。
「王都で刺繍を始める子供が、これに刺して練習するらしいよ。アリアにどうかと思ってね」
「…ありがとう、お兄様…。綺麗で細かい図案ですわね…。これが初心者用……」
稜真の助言から少しずつ上達し始め、多少は自信もついて来たアリアだが、この図案は無理だと暗い顔になる。
「あらあら、ユーリったら。まだアリアには早いわね。これに綺麗に刺せるように、今日も練習しましょうか?」
「え!? お母様。今日はお休みしてもいいと、仰っていたじゃありませんか!」
「ふふ、冗談ですよ。でも、せっかくユーリからのお土産だもの。明日から頑張りましょうね」
クラウディアはおっとり、にこにこと微笑む。お土産に綺麗に刺繍できるのは、いつになるのだろうか。アリアは恨めしそうにユーリアンを見た。
「…お兄様の馬鹿ぁ…」
大切な妹に感謝されるどころか、恨みがましく睨まれたユーリアンは目をそらし、後ろに控えていた稜真に手合わせを申し込んだ。
「私は構わないのですが、ユーリアン様の後ろでふくれている方がいらっしゃいますよ?」
稜真としては体調も回復したし、自分がどれだけ動けるかの確認も出来るので、手合わせは大歓迎だ。
「お兄様…。帰ってすぐに稜真に手合わせなんて、せっかくお帰りになったのに、私には構って下さらないのですか? 私よりも、稜真がいいのですか?」
「アリアが1番に決まっているじゃないか。でも、それとこれとは違うと…」
「駄目です!」
「リョウマとは、手合わせの約束をしているんだよ。どれだけ腕を上げたか、確認してやらないといけないだろう? お前と共にいる奴の力量を確認するのは、兄として当然だ。だから──」
「稜真は回復したばかりで、まだ体を本格的に動かしてないのですよ」
稜真の怪我は、ユーリアンも手紙で知っている。
「元気そうに見えるぞ? リョウマ、鍛錬は始めているのか?」
「徐々にではありますが、始めております」
「それなら──」
「駄目です! スタンリーと違って、お兄様は手加減して下さらない気がするもの!」
「僕にだって手加減位出来る。…リョウマが相手だと、少し微妙だけど」
「無理強いしたら、お兄様の事を嫌いになるかも知れません」
「ぐっ……。今は、止めておく……」
(ユーリアン様が負けたか。どちらかと言うと、アリアは俺の体の事よりも、お兄さんに構って貰いたい気持ちが大きい気がするな)
稜真はくすっと笑った。
稜真とスタンリーは体術の鍛練をしている。外は雪が降り始めた。地下の練習場に暖房はないが、動けば暖かくなる。
その様子をユーリアンが見学していた。
「リョウマ。それだけ動けるなら、少しくらい僕の相手をして貰っても…」
「……お兄様?」
「ア、アリア!? お前はここに立ち入り禁止だったろう?」
「先日、お父様に許可を頂きましたの。うふふ。そんなに手合わせをお望みなら、私がお相手いたします」
「なっ!? ア、アリアは僕じゃ、物足りないだろう?」
「遠慮なさらないで。私、刺繍のおかげで鬱憤が貯まっているのです。お兄様、助けて下さるわよね?」
悲しそうに上目づかいをする可愛い妹の願いを、ユーリアンが断れる筈がない。
(鬱憤が溜まりまくっているアリアの相手をさせられるとは、ユーリアン様も気の毒に……)
本来ならその被害者は稜真だった。稜真はユーリアンの悲鳴を聞きながら、練習場を後にする。
きさらが獲って来た魔獣肉を、今日から燻製にするのだ。大物なので、稜真は手伝いを頼まれていた。
燻製小屋の番をするスタンリーに、差し入れも頼まれていた。気の毒なユーリアンが好きそうな料理も、作ろうと決めた。
今日は厨房の手伝いだが、最近の稜真は伯爵の書類仕事も手伝うようになっていた。書類仕事も、最初の頃よりは要領よく出来ているのではないかと思う。
さて、厩生活にも慣れたきさらだが、どちらかと言うと馬達が慣れてくれたと言う方が正しい。
懐っこいきさらは外から戻ると必ず、1頭1頭に嘴を合わせ挨拶して回る。初日に稜真が挨拶させた事を覚えているのだろう。
馬達も満更ではない様子で、きさらが挨拶に来るのを待っている。
そんなきさらがやる事だから、と馬達が諦めている、とある行動があった。
きさらは自分が選んだ食器のたらいが気に入り、食事が終わるとたらいを咥えて、厩舎の床にぶつけ始めるのだ。稜真が叱っても次の日には忘れ、またぶつけ始める。
『きさら、だめー! あるじ、こまるでしょ!』
そらが注意しても、翌日には同じ行動を繰り返す。
きさらの行動に寛容な馬達も、騒音は迷惑そうだ。
馬達がきさらを見る目は、しょうがない妹分だと諦めたような目である。稜真は申し訳なくなって、時々人参を差し入れている。
そして、とうとうたらいに穴が開いてしまい、仕方なくきさらを連れて町に買いに来た。
何事もなくたらいを購入し、ついでに馬具屋できさら用にブラシを買った。帰ったらブラッシングをしてやろうと思う。
屋敷に向かって歩いていると、目の前にキャベツが転がって来た。前を走る荷車から転がり落ちて来たのだ。きさらは無造作に、嬉しそうにそれを咥えた。
「……きさら。まさかそれ…食べようとしてないよ…ね?」
稜真が手綱を引く手に力をこめて言うと、きさらはダラダラと冷や汗を流す。
「前に言ったよね? 食べていいよと言われるまでは、口をつけちゃ駄目だって」
『はい、主。これ拾ったの』
きさらは首を傾けながら、稜真にキャベツを渡した。稜真が受け取ったキャベツを見ると、しっかりと嘴の痕がある。
「……食べる寸前じゃないか」
急いで荷車の後を追うと、八百屋の店先で止まった。
「すみません。キャベツが落ちて来ましたよ」
「おお! こりゃ、すまなかったな」
「この子が拾ったんですが、噛み痕がついてしまったので、買い取らせて下さい」
男は八百屋の店主だった。店主は怖がる事なくきさらを見る。
「白いグリフォン! あんたはアリア様の従者か。そのグリフォン、キャベツを食べるのかい?」
「はい。野菜が好物なんですよ」
「変わったグリフォンだなぁ。食べる所を見せても貰っていいかい?」
「構いませんよ」
稜真はアイテムボックスから、きさら用の小さなたらいを取りだしてキャベツを入れた。
「きさら、食べていいよ」
「クォン!」
「ほほう。うまそうに食うなぁ」
きさらが食べる様子を見て、面白がった店主が色々な野菜を食べさせてくれた。町の人達が、これまた面白がって集まって来る。
そしてグリフォンが食べている野菜が欲しいと、次から次へと野菜が売れた。
以来、きさらは野菜好きのグリフォンとして有名になり、稜真が町に出ると差し入れを貰うようになる。
稜真ときさらは距離に関係なく、念話で話が出来る。そらはルクレーシアのお陰で会話が出来るが、未だに念話は出来ない。
同じ従魔でも特殊なテイム法だったからだろうか。
例え念話が出来なくても、そらは賢い。他の人の言う事も、きちんと理解している。きさらはそらよりも年上の筈だが、どうしてこう、なんというか間が抜けているのだろう。
愛嬌のある性格で、屋敷の者や町の人にも愛され始めてはいるが、稜真はどうにも不安を感じずにはいられない。
そんな事を考えながら、稜真はきさらが夕食を食べるのを眺めていた。食べ終わったきさらが、たらいを咥えて構えるのを見て、深々と溜め息をついた。
「…きさら?」
ビクッとしたきさらは、たらいを咥えたまま、オロオロと歩き回る。稜真はたらいを取り上げると、きさらの顔を押さえ込み、何も言わずにじっと目を合わせる。
『……ごめんなさい』
「もうやらない?」
『我慢する…。我慢するから、きさらは主に遊んで欲しい』
環境が変わって、きさらも寂しいのだろう。
「分かったよ」と約束し、今日は購入したブラシで、たっぷりブラッシングしてやった。




