うつろな生活
母との記憶はよく分からない。
暴力が日常茶飯事。会話らしい会話も思い出せません。一体何が最初の記憶なのか…、ただ恐怖しかなく、断片的に思い出します。
母は私を私有物として扱いました。
幼稚園や小学校にも通わせませんでした。おかげで濃密な時間を母と過ごすことになりました。他の環境に触れる時間が少しでもあれば、私はもう少し生きやすい性格に育ったかもしれません。
母は市役所で様々な申請をする時に、必ず私を連れて行きました。そして、なぜか私を一階のトイレの個室に入れて一,二時間待たせました。いつもマンガを読んで時間をつぶします。途中、「ドンドンドンッ」とドアを叩かれて、「お母さん早く来てよ」と心細く涙が出る時もありました。それでも母と離れられる時間だったので、無心にマンガや童話をむさぼり読み、私の充実した時間でした。
六歳の頃、砂利道を自転車で転んで左足を骨折しました。
それでも母の通っている病院へ、二時間の道のりを歩きました。お金がなかったからです。雨が降ろうと、坂があろうと、私を連れて行きました。私は松葉杖をつき、泣きながら坂道を下ったのを覚えています。
私が泣くと必ず母は怒ります。
「いい加減にしてよ!泣くんじゃない!!」
とヒステリックに怒鳴ります。私は涙を噛み殺し、どんなに左足が痛もうと、無心になって歩き続けるしかありませんでした。下り坂から見える切なげな夕日。民家に咲いている紫の花が風に揺れ、やさしくなびいている。空き地に生えた黄金色のススキ。駅の近くの緑色のコンビニの横にあった細い通り道。全てが懐かしい滲んだ私の思い出です。
毎晩家に着くと、近所の家を見渡し、カーテンが少し開いていたり、電気がついていたりすると、
「あそこの家はいつも私たちを監視している」
「何時に帰ってきたのか見ている」
と言いました。鍵を開ける時も、
「あやちゃん、周り見張っといて。誰が隠れて、待ち伏せしているか分からないから」
と言い付けられました。ドアもほとんど開けず、身を滑らせるようにして部屋に入りました。自分の家に帰ってきただけなのに、まるで泥棒のようで、いったい何に怯えているのかわからず、幼い私には可笑しくてたまりません。時に私は母の不安を煽るために、
「なんか、今カーテンの所に人影があったよ。」
なんて脅かしてみると、
「やっぱり見ているんだわ!!」
と母は恐ろしくてたまらない様子になりました。
そして毎日私に下着を穿かせてくれませんでした。母は性欲が異常な女です。私は「おぞましい」と思いながらも、はけ口にされるのに耐えなければなりませんでした。その辛さは言葉にできない。今も心の奥に黒ずんだトラウマとして私を虫食んでいます。この感情があるからこそ、私は母を気持ちが悪いと憎み続けるのかもしれません。
でも遊ぶ時はいつも一人。そこには母は付いてきませんでした。
私は近所にある小川が大好きだった。水の穏やかな流れ、さらさらとした音、周りの草花を感じ、一日中小石をひっくり返してヒル探した。石の裏に黒いヌルっとした物体がいると、嬉しくてまた見つけようとやみつきになるのです。公園の噴水がある溜り水の中を泳いだり、雑草が生えている場所に行き、さやえんどうに似た植物を探したり、アリの巣を見つけると、穴の中にじょうろで水を注いだりして遊びました。この時間だけが母から解放される、唯一の時間だったのです。私は太陽の中を一人、はしゃぎ回っていました。
母は精神疾患で働けなかったので、生活保護を受けて暮らしていました。
お金の使い方がまるで分っていない人だった。
いただくお金は一週間でほぼ消えていきます。それは大盤振る舞い。子どもの「あれが欲しい」と何の違いもありません。
でも私は気づいていました。母に内緒の銀行口座があり、毎月お金が振り込まれてくることを。それが私の養育費なのか、誰かの預金口座なのか…。全ては闇の中です。
日中、家にいることはありません。ただ寝るだけの場所。なにせ、ゴミ屋敷だったので、汚い、悪臭、足の踏み場がないのでいられなかったのです。だから朝から晩まで外をほっつき歩きました。そのせいで余計にお金を使ったのでしょう。
まず料理が出来ないので、朝から晩まで外食三昧。高級料理店にも何度も通いました。アイスクリームの天ぷら、ピータンの不味さは今でも忘れられません。
病院の最寄り駅のファミレスに連続十回以上行き、店員に失笑されたり(これは私たちが乞食みたいだったからでしょう)、とんかつチェーン店のお替りサービスで、キャベツとお味噌汁を何十回も頼んで失笑されたり・・・。
おかげで私の舌が肥えたことだけは感謝の限りです。
母は一般的な常識が大きく欠けていました。私は周りの人の目がいつも気になって、母が“恥”であるといつも感じていました。一方で私も、ファミレスのドリンクバーコーナーに置いてあるミルクが大好きで、いつも手掴みで十個ほど取っては、その場でチューチュー舐めていました。たまにガムシロップにも挑戦しましたが、いかんせん甘すぎて、せいぜい一個半が限界でした。それらを散らかし放題にして席に戻るのです。暇なときは三,四時間もいるから、店員もいい迷惑だったでしょう。“汚い親子”というレッテルを貼られて生きてきたのです。
母にとっての友達は洋服屋の店員さんでした。おなじみの店員がいる店や、感じのよさそうな店員を見つけるとせっせと通い、無駄な雑談をしてはお友達気分を味わいました。もちろん私も常に同行します。
ウエストがきつくて着られないスカート、相撲取りのような体型をしているのに、ノースリーブのワンピース、ゾウガメのような足をしているからパンパンなサンダル…。店員の「うわぁ~!!すごいお似合いですぅ!!」という嘘がまる分かりな、おべっかにも気づかずに洋服を買っては、満足げでした。哀れな人間の姿だ。
私は恥ずかしくて居てもたってもいられず、この場からすぐにでも逃げ出したいと、いつも思いました。
家では見せることのない気味が悪い母の笑顔、口からあふれ出す悪臭、のど元から出てくる、思ってもいないおべっかの応酬、店員の馬鹿にしきった笑い、私たち親子の乞食みたいな風貌。自分の醜態、人間の醜い姿、完璧なマニュアル対応…。「みじめ」この一言でした。
お金がなくなると、生活は一変しました。一週間で残額が二千円ほどになります。生活保護が受給される十日前には五百円しかない生活が毎月続く。
私たちは物乞いと同じ生活をします。いや、乞食よりもひどい、ありとあらゆる手段を使って生き抜きました。
ドン・キホーテで買ったカップラーメン、西八王子駅にあった百円ラーメン、あとはマクドナルドのハンバーガーが食生活のメインでした。
お気づきの通り、私の成長期はジャンクフードによって支えられてきました。
「食」は身体を作る源。おかげ様で太りやすく、病気もしやすい、骨もすぐ折れる、貧弱な身体に育った。これも母の賢明な子育てがあってこそ。
そしてバス代もないので最寄り駅まで歩きます。片道一時間。
その間にある神社を巡り、賽銭箱の周りにお金が落ちていないか、お地蔵様のおひざ元にある五円玉や十円玉を拾い集めました。
自動販売機にお釣りの拾い忘れがないか、子どもの私が下にかがんで、お金が転がってないか見ました。ごくたまに、五百円玉の拾い忘れがあると、私たち親子は手を取り合って喜びました。何と汚らしい光景でしょうか。
最寄り駅のスーパーにつくと、万引きをします。
醤油、カップラーメン、レトルト食品、日用品雑貨、ありとあらゆるものを、盗みます。季節によっては、私がかわいいといったピンクの浴衣も盗みました。帰るときにはいつもはバッグがパンパンになっています。私たちは感覚が麻痺していたのです。タダで貰えるものだから、本当に欲しいものか分からないけど、とりあえず貰っておこう、と。「盗む」ではなく「貰う」に近い感覚だったと思います。
「幼いからばれても大丈夫だから」
と、私にも万引きするよう言いつけました。
私は母に言われた通り、防犯カメラの四角になる所を探し、隅のほうで、手の袖口を引っ張ってその中にこしょうの瓶を握り隠し、スカートのゴムに砂糖をはさみ、しっかりと上着で隠しました。何事もなかったような顔で店を出て、近くで待っている母のもとへ駆け寄り、バッグに盗んだものを入れました。今思い出しても、五,六歳の子どもができる事ではなかったな、と驚きます。母の逆鱗に触れないように、生きていく術だったのです。
私たち親子の一番の収入源は、万引きした本を古本屋に売ることでした。
片っ端から新刊を盗み、売りさばきました。特に女性のグラビアの写真集が高値で売れたので、当時発売したばかりの叶姉妹の写真集を、何度も売りに行ったのを今でも鮮明に覚えています。
三回だけ警察に捕まりました。不思議なことに、「今日は捕まる」という予感がするのです。今でも思い出すのは、三回目に捕まった八王子駅の本屋です。その時もエスカレーターで本屋に足を踏み入れた時、「やばいな」と感じ、身体がぞわぞわしました。でも心はいたって平静です。警察に捕まるなんて事は、どうだって良かったのです。むしろ母が痛い目を見る事に、嬉しさを感じました。いつも鬼のような顔でいる母が一瞬だけでも恐れるのが、警察と市役所の職員と近所の目でした。
案の定見つかりました。本屋のおばさんが、
「あんたこんな小さな子供にこんなことさせて!それでも母親なのか!!」と、泣きながら怒っていて、私を抱きかかえるようにして「もう大丈夫だよ」と言ってくれました。やさしい大人がいる事を、この時初めて知りました。
警察に行くと、
「子どものことはチェックしないから」
と言い、私にキャッシュカードなどを身体に隠しておくように言いつけました。「なんて狡賢い女だ」と私は苦々しく思いながらも、
「うん。分かった」
と笑顔でポケットの奥にしまい込みました。
バスに乗れば、財布を落としたと言う。電車に乗れば切符もなくして、財布もないと言う。無賃乗車の常習犯でした。私はまだ体が小さかったので、改札口を這いつくばって通り抜け、周りの人たちに好奇の目で見られました。
また「財布を無くした」と言って、交番に行くのもお得意でした。
お巡りさんは親族に連絡すると言い、祖母に電話を掛けると、
「いつものことですから。私は知りません。その人たちと関わりがありません!」
と言って電話を切られる。毎日毎日、そんなことの繰り返しでした。
私の世界は真っ黒なグレー
どこまでも続く空洞の空
赤い道筋をたどって歩いても、また同じ場所にたどり着く
風も音も星もない、物悲しい場所でした
私はその頃からマンガや童話にのめり込みます。
きっかけは母がいつも通っていた子供服のお店です。私のために洋服を買うはずなのに、母はいつも通り長々と、店員と世間話を楽しんでいました。私は暇なのでキッズコーナーに置いてあった、積み木や絵本を読んで時間をつぶしていました。いつ字が読めるようになったかは分かりません。いつの間にか、だれの教えもなく身についていたのです。私は童話に熱中しました。ヘンゼルとグレーテルやブレーメンの町楽隊、みにくいアヒルの子、三匹の子ブタ…。特に赤ずきんが大好きで、スラスラと暗唱できるほど読み込みました。
五,六歳になると少女マンガの熱中し、カードキャプターさくら、動物のお医者さん、ピクピク仙太郎、神風怪盗ジャンヌ、こどものおもちゃなどを、外出する時も肌身離さず持ち歩き、毎晩一人夜更けまで読み続けました。
現実の世界から離れて、自分をマンガの中に投影する。マンガの中では悩みを打ち明けられる友達がいる。不思議な魔法が使えて、毎日ドタバタと楽しく暮らしている。幸せな世界。“現実逃避”私の唯一の処世術でした。マンガの主人公たちを現実に作り出し、それらと会話をして楽しんでいました。私の隣にはいつもマンガのキャラクターがいたのです。
私は夜中に家を抜け出して、家の裏側にある公園に行き、滑り台の上でいつも月を眺めていました。二、三本の街灯があるだけの暗闇の中、月と星の光に包まれながら、
「かぐや姫のように早く誰か迎えに来てください」
とお願いをしたこともあります。