「やる気は売り切れました」
久しぶりに短編を投稿します。
がっくりと肩を落とす。
近場のドラッグストアでは、目的の薬が運悪く完売していた。自動ドアの所ですれ違った妊婦が買っていったそうである。それなら仕方がない。そう言い残し、少年はその店を出た。
「まあ、赤ちゃんの為なんだ」
大きな看板を照らすライトが夕闇を払う。日は既に落ちようとしていた。寒気が背中を伝う。気力の底がついた心は凍える様だった。やる気が与える温度を少年は恋しく思った。
刻一刻と迫る期限。
《やる気》の購入を諦めるという選択肢が脳裏をよぎった。それが人気商品であり、売り切れは必須だと分かっていた。どの家庭も普通は大量に買い置きしていく。だが、少年の家では今日に限って計算違いが起こった。常備していた筈の薬箱には一錠も残っていなかったのだ。
やるべき事を始めようとしたが、《やる気》が無ければ頑張れない。そう悟った五分後には乗り込んだ自転車を漕いでいた。しかし、結果は売り切れである。
「駅前の店なら…………」
少年がここから距離のある大型スーパーに狙いを定めた。そこで駄目だったら家へ帰ろう。そう決心して、サドルに腰を落ち着ける。
走り出す前に見上げた空の雲行きは、何だか怪しい。
「降るかな?」
ごろごろと雲の唸りが鼓膜を揺さぶる。暗闇に紛れた雨雲の見分けは難しい。後どれくらいで降り始めるのだろうか。少年は不安になった。自転車に乗っているので傘も差せず、少年の事情が急げと騒ぎ立てていたのだ。募った心配は頭を振って消し飛ばす。両足に力を込め、駅へと続く道路を少年が駆け抜けていった。
到着した駅の駐輪場。そこには数多くの自転車がひしめいていた。少年が駐輪出来たのも隅にある狭い空間だった。左右の自転車とぶつかり、無機質な音が壁に囲まれた駐輪場を満たす。少年が鍵をかけた。がちゃん、と仕上げの金属音が続けざまに鳴った。
少年は駐輪場を出て、駅に面した幅広い通路へと踏み入った。バス停を兼ねたロータリーは帰宅途中のサラリーマンが敷地を占めている。スーツ服の合間を縫うのは大変だった。疲れた顔を浮かべた彼等は道を譲ってくれない。数人が先程の駐輪場に向かって歩いている。少年はくたびれた心中を推し量りながら、顔を前に留めた。
通路を抜けるとスーパーの入口が正面に飛び込んできた。自動ドアが開くのももどかしい。少年は早足で明るい店内を突っ切った。途中のエスカレーターも危ないと知りながら駆け上がる。薬局のある三階では大きなケースを背負った人とぶつかりそうになった。
すいません。
そう叫びながら、少年は白色が目立つ一角へと走り寄る。《やる気》とその他の名称を書かれた小さな棚はレジの近くに立っていた。食らいつく様な勢いで少年が《やる気》の箇所を見入る。
「…………」
黙り込んだ目線の先には、何の商品も置かれていなかった。寂しい程の空白を少年は凝視する。《悲しみ》や《憎しみ》等の需要が不明な商品は売れ残っていた。しかし、少年が欲しがっている《やる気》は何処にも見当たらない。
「あの、すいません」
《やる気》のスペースを指で差し示し、少年は近くの店員に尋ねた。応じてくれたのはパートらしき女性だった。随分と年季が入っている。何しろ、少年が要件を口にする前に宣告してくれたのだ。
売り切れ。
その言葉が少年を執拗に叩きのめした。頭の中でがんがんと跳ね返り、失意に汚れた思考を痛めつけていく。《やる気》はここでも売り切れていた。店員の話によると、数分前には最後の一個が余っていたらしい。それが無いという事は、考えるまでもなく誰かが買っていってしまったのだ。
「そうですか…………」
消沈した面持ちで少年は売り場から離れた。店員が購入者についての話をしていたが、もう興味は無い。声が耳を素通りしてゆく。脱力しきった少年の姿はやがてエスカレーターに乗って下層へと降りていった。
素早く走り抜けた店内をゆっくりと戻る。自動ドアを潜り抜けると、大量の雨が少年の感覚を刺激した。ざあざあと耳を塞ぐ。ひんやりと肌を冷やす。湿気の籠った匂いを吸わせる。
「くそ」
悪態を吐き、定まらない足取りで駐輪場へ歩いていった。重たい空気が少年の周りに漂っていく。降り始めた雨のせいで気分は最悪だった。《やる気》は見つからず、帰り道でずぶ濡れが確定している。厄日だ、という言葉が口からこぼれた。
ロータリーを再び通過する。ふと、少年はある変化に気付いて立ち止った。バスが並んでいる道路の反対側で数人が群れていた。壁に面して半円を描いている。まるで何かを囲んでいる様だ。
「ああ……」
屋内の駅前で軽快な音色が響き渡る。少年は誰かが路上演奏しているのだと知った。人の隙間から絶え間なく弾かれているクラシックギターが読み取れる。横には大きなギターケースも置かれている。それには見覚えがあった。薬剤売り場に向かう際、少年がぶつかりそうになった男性が背負っていた物だ。顔を良く思い出せないが、彼があの中で演奏しているのだろう。
随分と速いリズムだった。それでいて心を揺さぶる様な力強さが音色に籠っている。六本ある弦を一心不乱に弾いていった。指先を目で追う事さえ難しい。曲調を維持したまま引き終える腕前に少年は感嘆した。
弾き終えるまでに相当疲れるだろうな。少年がそう思った矢先に演奏は絶頂を迎え、余韻を残しながら終幕を降ろした。
最後の弦が静かに振動を途絶える。そして、青年の周囲で拍手が沸き起こった。賞賛を示す五、六対の手。二桁にも及ばない人数だったが、青年は息を切らしつつも満足そうな笑顔を浮かべた。
「…………あ」
若干離れた位置で聞いていた少年は拍手の機会に乗り遅れた。うっかりしていた。しかし、口を無意識にあけて呟いたのはそれが原因ではない。少年が探し求めていた物が、思わぬ所で目撃されたからだ。
青年がロゴの描かれたビニール袋から小さな薬箱を取り出した。あのマークを用いているのは少年が出てきたばかりの薬剤売り場だ。そして、青年が飲み込んだ錠剤はまさに《やる気》そのものである。
「あの人が買っていたのか」
少年と青年は薬剤売り場にてほぼ入れ違いだった。もっと早く来ていれば《やる気》を買えたのかもしれない。サラリーマンの集団を強引にでも突っ走っていたら目的は果たせていた、と少年は認識する。
その時、《やる気》を補充した青年がギターの演奏を再開した。前曲とは違う曲を弾いていた。ゆったりとしながら優しい響きが小うるさい雨音さえも飲み込んでいく。
少年は無言で背後を顧みた。前のめりになって、身体を素早く進めていく。駐輪場は目と鼻の先だった。
不思議と後悔はしていない。ただ、少年はこれから全身が濡れてしまう事を嫌がった。
自転車に乗り、雨の中へと走り出す。身体中に冷たい雫が流れ落ちたが、クラシックギターの暖かな音響はいつまでも耳に残ってくれていた。
「やっぱ無理」
少年はコンビニにて雨宿りをしていた。自宅までは近いが身体が冷えてしまった。店内に入って時間を稼ぐ事にする。服が水気を帯びているので漫画の立ち読みは気が引けた。少年に対して発せられた歓迎の挨拶も何処か嫌味を帯びている。迷惑にならないよう、少年は縮こまりながら奥へと進んでいった。
色々な商品が目に付く。人が少ない角周辺へと少年は退避同然に釣られていった。日用生活用品のコーナーらしい。種類豊富な雑貨が棚に並んでいた。
「は?」
ある商品を目撃し、少年は絶句した。
散々探し求めても手に入らなかった《やる気》。それが新商品と派手に銘打って売られているのだ。端にちょこんと立っており、棚の奥に背をくっつけている。個数は一個だけだ。しかし、確かに目の前にある。
少年は歓喜し、片手でガッツポーズを取りながら《やる気》の箱を持ってレジへと走った。通常よりも少し割高な金額を払う。打って変わって笑顔になった店員が優しくレジ袋を持たせてくれた。
早速、少年はコンビニを出る。雨が未だに降り続いていたが、その勢いは落ちている様だった。あと少しで晴れるだろう。そう思った直後、少年は横に並んだ一人の女性に気が付いた。
「あれ?」
彼女も隣に現れた少年に首を傾げた。彼女は傘を手に持っていたが、髪は濡れてべったりとしている。最初は少年も誰だか分からなかった。しかし、彼女の声と顔を間近にして正体を察する。
訝しげに、少年が彼女へと話しかけた。
「…………先輩?」
「ああ、やっぱり君か」
彼女は少年が在籍している部活動の先輩だった。いつもの制服とは違う簡易的な私服を着込んでいる。先輩だと感付くまで時間がかかってしまった。髪から水滴が落ちている所を見ると、彼女の住所はコンビニから少しだけ離れているらしい。
「奇遇だね。こんな夜遅くに」
先輩がはにかみ、濡れた髪の毛先を指先でいじくった。水を絞る様に強く揉んでいる。手元に近い顔の肌が少年には何だか荒れている様に見えた。
「君もぐっしょりしてるね。もしかして自転車で来たの?」
少年は首を縦に振った。
「それじゃあ、当たり前だ。風邪には気を付けてね。締め切りはもうすぐ何だから」
戒める口調に少年が肩を竦める。彼女の言う事に反論は出来なかった。雨が降ると予想した時点で家に帰るという選択肢は有ったのだ。それを意固地になって蹴ってしまった。言われてみると全身に微かな寒気が広がっている。くしゃみの様なくすぐる感覚も鼻元に昇って来ていた。
「君の方はどう? 締め切りに間に合いそう?」
「多分、大丈夫だと思います」
《やる気》が入ったビニール袋を少年は強く握り締めた。がさり、と音が鳴る。
先輩は少年の方へと顔を向けた。そして、その奥にある自動ドアに焦点を当てながら喋っていく。
「私の方はちょっと危ないかな」
水色の傘を畳みつつ、彼女は落胆を嘆いた。
「今まで頑張ってきたんだけど、ついに気力が切れちゃって。それで《やる気》を飲もうとしていたら箱も空でさ。……あ、知ってる? ここに新しく《やる気》が入荷されたんだよ」
どき、と心臓が波打った。少年は表情を硬直させつつ、隣を見入る。売り切れているとも思わない様な笑顔で先輩が会話を継続していた。
「少し高いせいからなのかな。二、三個売れ残っている事が多いんだよね。私はそれを買いに来たんだ」
「は、はあ……」
曖昧な返事しか言えなかった。胸の鼓動が彼女に聞こえないか心配になる。少年がかなり動揺していると知れば、先輩は自ずと《やる気》の完売に気づく筈だった。今から少年が持っているビニール袋を隠す事は不可能である。いや、既に目撃されているだろう。
身体の内側から鳴り響く緊張を、雨の細やかな合唱が和らげてくれた。無数の透き通った線は適度な落ち着きへと導く。先輩は未だに気楽な日常話を一方的に持ち掛けていた。彼女に対する相槌はかなり適当となっている。良心が痛むが、まずは《やる気》の売り切れをどう伝えるかが問題だった。
「あの、先輩」
彼女に投げかけた声は裏返っていた。失敗した、と少年は顔を赤らめる。
「どうしたの? あ、もしかして風邪、本当にひいちゃったの? 駄目だなあ」
あははは、と彼女が笑い飛ばす。幸運にも少年の手違いを察した様子は無かった。放課後の際に見かけている先輩なら感付かれていただろう。先輩の気分が高揚している事は少年を命拾いさせていた。
言葉に詰まりながら、再度の伝達を試みた少年。
「いえ、その、《やる気》なんですが…………」
大事な話の直前で、口が止まる。
他の事に注目していたのだ。少年はまじまじと先輩の顔を睨んでいる。その双眸の下には黒い隈が浮かんでいた。とても濃い色合いをしている。相当な時間を起きていなければ、こうはならないだろう。
「《やる気》が、何?」
黙ってしまった少年に先輩が訊ね返している。しかし、そこに続いたのは雨音だけだった。
少年は数時間前の行動を思い返していた。やるべき事は《やる気》を飲んでからと決めていた。《やる気》探しに時間をかけていた。それらの行動は大きな恥となって少年を照り返す。
目の前に立つ先輩はそんな少年とは異なり、奮起が枯れるまで努力していたのだと言う。少年は大いに自分を責めた。何をしている、と。
身体が温まった。
気温と雨のせいで冷えていた事さえも忘れてしまう程だ。
「先輩!」
居ても立ってもいられなくなった少年が、《やる気》の入った袋を彼女へ突き出した。
「これ《やる気》です。要らなくなったんで、先輩が使ってください」
「へっ?」
少年はビニール袋を押し付け、一目散に雨空の下へと全身を晒す。水飛沫を跳ねさせる勢いで駐車場を駆けていった。コンビニの脇に留めてあった自転車はすっかり濡れている。少年自身も、重くなった服のままで飛び乗った。
背中に困惑した先輩の声が届く。
「ちょ、ちょっと、いきなり言われても」
振り返ると、両手で袋を抱える彼女が目に映った。先輩は珍しくも戸惑っていた。水色の傘が倒れて横になっている。コンビニの点灯が逆光となって彼女を照らしていた。雨粒のせいか、一段と輝いている様にも思える。
「お金は学校で貰います!」
既に自転車で走り出していた為、少年は大声で言い残す。先輩に聞こえたかどうかは不明だった。構わない。明日には部活で会うんだ、と少年は漕ぎながらその様に考えていた。
登り坂や信号といった障害は確かに有った。だが、気づいた時には自宅に着いていた。自転車をいつもの場所へと置く。家の扉を潜り抜ける。廊下に面した玄関では母親と遭遇した。少年の全身を見回し、家の奥へと姿を消してしまう。現れた時には厳めしい表情で白いタオルを手にしていた。
雨に浸かり過ぎた事を詰りながら、母親が少年にタオルを投げる。ふかふかな布に顔を埋めた。温度は自分の方が高かった。
「それで? 《やる気》は見つかったの?」
母親が少年へと尋ねた。全体の水分を拭き取った顔面がもたげられる。少年は真っ直ぐ母親を見つめ返し、短く微笑を浮かべた。
ドラッグストア、大型スーパー、コンビニ。少年が寄った店は最終的には全て売り切れていた。最後は微妙な所だが、あらゆる《やる気》が必要とされている人の手に渡った。それを見届けてきた買物だった。
だからこそ、少年はこう返す。
「うん。《やる気》は見つかった」
英気がみなぎる精神と肉体を携えて、少年は自分の部屋へと戻っていった。
――完――
このお話を呼んだ人が、まさに《やる気》を出して下さったら幸いです。