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第三章

「う~んっ……」

 上々の目覚めだった。昨日は十一時には床に就いたから当然だろう。寝起きの気怠さなどどこにも存在していない。お気に入りの、水玉のカーテンから差し込む朝日。やわらかな空気が顔を包み込む。

「いよしッ!」

 威勢良く両頬をぴしゃん、と弾く。布団から飛び出し、バスルームへと急ぐ。決してまだ眠気が残っている訳ではない。隅から隅まで身体を清めなければならない理由が今日という日に存在していた。

「ふうぅ……」

 熱を帯びた水滴が、肌の上を滑ってゆく。身体の芯から熱い何かが迸るような感覚。決して高過ぎる温度のシャワーを浴びているからではない。ある決意こそ、この身体を熱くしていた。

「ぷはぁ~、いいお湯だった……」

 ふわふわのバスタオルで身体を拭き上げ、昨日のうちに用意をしておいた下着を身に付ける。活発な気性には似合わないフリルの付いた可愛らしい下着だ。だが、本人は至って真面目、とびっきりの勝負下着のつもりであるようだ。

「うんうん、良く似あってるよ。制服を着るのがもったいないくらいだ」

 鏡に映った姿を見て自画自賛。確かに、幼さを残した目鼻立ち、それとは対照的にメリハリのある胸。男ならば誰もが眼を奪われてしまうだろう。だが、誰もに見せて良い訳ではない。そう、見せたい相手はただ一人……。

「さ、ぐずぐずしてらんないよっ!」

 慣れた手付きで制服を身に着けてゆく。紺のブレザーにピンクのリボン、チェックの柄が入ったスカート。如何にも女子高生といった女子高生だ。その立ち姿から若さが、はち切れんばかりの若さが溢れ出す。

「腹が減っては戦は出来ぬ、ってねッ!」

すっかり身支度を整え終わると、一目散にリビングへと駆け込む。テーブルの上には何時も通りの朝食。パンにサラダに目玉焼き。スープがなみなみと注がれたカップがほかほかと湯気を立てる。

「あら、お寝坊さんが珍しい」

「男子、三日会わざれば刮目して見よ、ってねっ!」

「あなた、女の子じゃない」

「あー、そうだったねっ!」

 けらけらと笑い合う二人。毎朝のように交わされる母との他愛の無い言葉。だが、今日だけはそんな心地良い時間に浸っている訳にはいかない。並べられた朝食を綺麗に平らげ、忙しなくリビングを飛び出す。

「まったく、せっかくの早起きだってのに、いつもと変わらないわねぇ……」

 呆れ果てる母の声も耳に届くことなど無かった。疾風迅雷とでも言えばいいだろうか。脱兎の如く駆け出したその脚は、走り慣れた通学路を抜け大通りへと辿り着く。そこには、見知った親友の姿があった。

「おはよう、琉歌」

 艶やかな長いお下げ。理知的な顔立ちに良く似合ったフチ無しの眼鏡。身体付きはさすがに琉歌に負けるが、その健康的な肌は朝日を反射してほのかに輝く。

「挨拶なんかしてる場合じゃないッ! トッコッ! 急ぐよッ!」

「あわわっ! ひっぱんないでよ~っ!」

 琉歌は走る。とにかく走る。息が切れようとも、髪が乱れようともスカートが捲れ下着が露わになろうとも、その速度が落ちることは無い。想いが琉歌を走らせていた。目的は、唯一つ。あの人に、誰よりも早く会う為に……。

「やっぱり、いた……」

 琉歌の眼に映るのは、自分が通う学び舎ではない。楕円のトラックを軽やかに走り抜ける一陣の風。短く切り揃えられたさらさらの黒髪。意思の漲る熱い瞳。走るために特化した靭やかな四肢。こんなにも距離があるというのに、まるで息遣いまで聞こえてくるようだった。

「木場先輩、今日も頑張ってるねぇ」

「うん、かっこいい……」

「かっこいいとか、聞いてないし」

 トッコの苦笑も琉歌の耳には届いていなかった。木場、と呼ばれた男子生徒を見て琉歌の瞳が潤む。そう、今日早起きしたのはこの為だ。誰にも邪魔されること無く、想いを木場に告げたい。その為には、一人で練習をしているこの時間を狙うしか無い。

「トッコ、見ててよ……」

「はいはい。しっかし、普段の威勢はどこ行ったのよ」

「そんなこと言ったってさ……」

「はいはい、いいからとっとと行くっ!」

「はいぃっ!」

 煮え切らない態度に痺れを切らしたトッコは思いっ切り琉歌の尻を引っ叩く。バランスを崩し、よたよたとトラックの中に入ってしまう琉歌。走ることに集中していた木場もさすがに闖入者に気付いてしまった。

「やぁ琉歌君、おはよう。素敵な朝だね」

「ひゃ、ひゃいっ! ほんとうに……すてきです……」

 だが琉歌が素敵だと言ったのは、この雲一つ無い青空ではない。この青過ぎるほど青い空が映り込んだ木場の瞳。今の琉歌にとっては百万カラットのダイヤモンドよりも価値のある宝石だった。

「せ、先輩……今日はお話があって……」

「ん、なんだい? お金以外の相談ならなんでも乗るけど」

「い、いえ、お金なんてとんでもないっ!」

「そうだよね。琉歌君のご両親って有名な学者さんだしね。お金に困るってことは無いか。それじゃあ、なにかな?」

「あ、あ、あ、あの、そのっ……」

 琉歌はごくり、と唾を飲み込んだ。その百万カラットのダイヤモンドがじっ、と琉歌を見据える。言葉が、出ない。身体が、震える。だが、言わなければならない。何の為にここまで来たのか。

「どうしたの?」

「あたあたあたしッ……!」

「あたし?」

「あたし、先輩のことが好きなんですっ! 付き合ってくださいっ!」

 琉歌はそれ以上何も言うことが出来なかった。その、ダイヤモンドの瞳が琉歌を見据える。まるで、造り物のような濁りの無い瞳が……。

「僕もだよ、琉歌君……」

「せ、先輩っ……!」

 琉歌は動くことが出来無い。純水に濡れたような肌。何の臭いも無い吐息。顔が、いや、唇が近付く。後、一センチ……後、一ミリ……。けれど、その想いが叶うことは無かった。その甘美な時間を拒絶したのは、他でもない琉歌自身だった。

「が、ふッ……!」

 肺腑の奥底から放り出したような呻き。だが、その口からは一筋の血液すら流れていない。平和な朝には全く持って似つかわしくない光景。木場の背中には琉歌の腕が生える。だが、そこから一滴の血が噴き出すこともない。

「りゅ、か……くん……なん、で……」

「先輩はさ、あたしのこと龍ケ崎、って呼んでたんだよ」

「くふふ……くはははッ! そうか、そうだったかッ! すっかり忘れていたよッ!」

 苦悶に歪んでいたハズの、木場の顔が今度は気が違ったような笑みへと変わる。声質は木場のモノだが、その口調は明らかに男のそれではない。録音した自分の声を聴いているような、不愉快な声。

「久し振りにいい夢見させてもらったよ。でもね、先輩も、トッコも、母さんも死んだッ! もういないんだッ!」

「そうか、リュカ……私は貴女を見くびっていたよ」

 木場の姿をした何かは苦も無く身体から琉歌の腕を引き抜く。そのまま人間離れした跳躍で数十メートル離れ、低く、敵意を剥き出しにした構えを取る。

「ずっと、この世界にいてくれると思ったんだけどね」

「先輩……!」

 琉歌の瞳から負の感情が滲む。それは、涙という形で零れ落ちていた。偽物だということはとうに解っている。だが、かつて恋焦がれた木場が自分に牙を剥く。その非常な現実は際限無く琉歌の心を苛む。

「あんた、あたしの想い出を踏み躙って、どういうつもりだッ!」

「知りたければ、力づくで聞き出すことだなッ!」

「言われなくても、そうするつもりだッ!」

 次の瞬間、二人は一迅の風となった。甲高い金属音だけがグラウンドを支配する。鋼鉄の腕と腕が交差するたびに火花が飛び散る。その、幾度かの交錯で琉歌は完全に理解することとなる。

「あたしと、同じ身体……!?」

 刃を交えて初めて解る。この質感、この衝撃。自分と同じ機械……いや、それ以上の攻撃力を持っていることは、上がってしまった息からも明白だ。

「だけど、先輩や、みんなが生き残ってあたしと同じ身体になったなんて、そんな馬鹿なことが……」

「くく……同じ身体なんてとんだご謙遜を……ナノマシンで構成されたその身体……ただ戦闘力を強化しただけの木偶人形なんぞ、脚元にも及ばない……」

「先輩を、木偶なんて呼ぶなぁッ!」

 その存在が木場の姿を騙っていることも、木偶などと蔑むことも、全てを許すことが出来無かった。激情のままに飛び出す琉歌。どうすればいいのか、本能だけが理解していた。そう、不愉快なモノは眼の前から消してしまえばいい。

「ここからいなくなれぇぇぇッ!」

 超人的な加速。極限にまで捻りを蓄えた廻し蹴りが、ダイヤの瞳を消し去る。余りにも滑稽な、軽すぎる音。その瞬間、木場の顔はこの世界から消え去っていた。

「さすが、さすがね。その身体、どうしても欲しい……」

「なッ!?」

 その声は意外なところから発せられていた。琉歌の、すぐ後ろ。声は違う。だが、口調は全く同じ。鼓膜に虫が這うような不快感。頭が混乱する。感覚が理解していても、感情が追いついていない。

「……トッコッ!」

 気配も無く後ろに立っていたのはトッコだった。だが、あの聡い視線はもう存在していない。無機質な、いや明確な敵意だけがそこにはあった。

「どう? 想い人が、親友が自分に牙を剥く気分は」

「最高に最悪な気分だよ……!」

 だが、本当に最悪なのはそこではない。大切な想い出の中にだけ存在していた二人を、姿を模しているだけとはいえ大事な二人を、この世から消してしまわないといけないことが何よりも辛かった。

「絶対に、許さないからッ……!」

 トッコの頭を無造作に捕らえ、そのまま圧倒的な膂力で押し潰す。残されたのは僅かな頭髪と制服だけ。へしゃげた肉体はグラウンドにめり込み完全に消えていた。

「どこにいるんだッ! 出てこいッ!」

 だが、どれだけ声を張り上げ叫ぼうとも返事は無い。代わりに返って来たのは人々のざわめき。不気味な、骨身が凍り付くようなざわめきだった。

「そんな……みんな……」

 担任の教師、クラスメイト、同じ部活の仲間……それだけではない、琉歌の知る限り全ての人々が行く手を阻む。かつて、テレビのニュースで見た人間の鎖。まさにそのものだった。

『貴女に、コレを抜けることが出来るかしら?』

 それは今までとはまるで違って直接頭に響くような声だった。不愉快にも程があるこの声をどうにか消してしまいたい。だが、その為には元凶を葬り去る他に手段は無いだろう。この声が言う通り、この鎖を断ち斬ってその場所へ征かねばならない。

「あ、な……」

 だが、琉歌は通ることが出来無い。この鎖を斬ることが出来無い。歯向かってくるのなら、倒すことも出来るだろう。だが、誰一人として向かってこない。ただ、生前の声で、姿で、行くな、行くなと言うだけだ。

「そんな……なんで……」

 琉歌は手を上げることすら出来無い。教師が、クラスメイトが、部活の仲間が、その腕に、その身体に纏わり付く。今までに琉歌が倒してきた岩石や機械の怪物たちは明らかに敵意を持って向かってきた。それならば容易く討ち果たすことが出来る。だが、ただ縋る者をどうして跳ね除けることが出来るだろうか。

「やめて……やめて……」

 琉歌は毛筋ほども動くことが出来無い。纏わり付く……覆い被さる……その光景、琉歌にある記憶を蘇らせていた。そう、眠ったまま、自分に何が起こったのか解らぬまま陵辱の限りを尽くされたあの少女を……。

「うおおおああああああッ!」

 飛び散る。腕が、脚が、頭が。原型を留めずにバラバラと砕け散る。常人が見たならば吐き気を堪えることなど出来無いだろう。だが、琉歌は違う。累々とした死屍を乗り越え進む。もはや、その瞳に迷いは無い。

「よくも、よくも思い出させてくれたなぁッ!」

 その歩み、まさに鬼神。寄るモノ全てを破壊する。女であろうが、子供であろうが関係無い。敵だ。コイツらはみんな敵だ。眼の前が真っ赤に染まる。悲鳴に近い咆哮が、がらんどうの街を震わせていた。

「止めるッ! 止める止める止める止めるッ! 止めてやるぅぅぅッ!」

 止める、アイツの声を。この狂った世界そのものを止める。その為には走るしかない。ヤツの元まで走るしか無い。琉歌を止められるモノなど、もはやこの街には存在していなかった。

「ここだ……絶対にここだッ……!」

 琉歌は走った。兎に角走った。導かれるままに走った。肉屋のオヤジを、盆栽が趣味のご隠居を、あどけない幼稚園児を蹴散らして走った。そして、辿り着いたのはつい一時間前に目覚めたこの場所だった。

「琉歌……」

「母さん……!」

 それは当然のことだった。この家には当然この人が、母が、いや、母の姿をした何かがいる。それが今までに潰してきた操り人形と同じように琉歌を遮る。

「……どけよッ!」

「琉歌……」

 それは紛れも無く感傷だったのだろう。もはやこの世に母が存在していないことなどとうに理解している。だが、他と同じようにぶっ潰すことが出来無い。たとえ姿を写しているだけとはいえ、生まれてから一番長く刻を過ごした母をどうして消し去ることが出来るだろうか。

「頼むッ……どいてくれッ……!」

「琉歌、あなたはいつもそうだった……気に入らないことがあると、怒鳴って、喚き散らして、地団駄を踏んで駄々を捏ねて……小さいころからずっとそうだった……」

「あ、あ……かあさん……」

 抱擁。それは原始より母から与えられる最大の財産だ。か弱き幼子が抗えるハズも無い。そのやわらかな指先、ふんわりとした髪の毛を掻き分ける。体温が直に伝わる。このまま、穏やかな眠りに着いてしまいたいほどに……。

「いいのよ、琉歌……」

「あ……駄目……」

 それは気付きようの無い、緩やかな攻撃だった。殺意すら存在していなかったのかもしれない。穏やかに、しかし確実に母の腕は琉歌の身体を締め上げていく。その軋む音すら琉歌の耳には届かない。

「くくく……このままお眠りなさい……」

「ごめんね、それは出来ないや」

「なにッ……!?」

 なすがままだった琉歌の身体に渾身の力が漲る。腕が母の身体にめり込み、背骨が耳障りな音を立てる。生々しい感触。例え、仮初めの存在であったとしても肉親の肉体というものは、こうも他人と違うものか。

「どう……して……」

「母さん、あたしが小さい頃から忙しくてさ、抱かれた記憶なんかこれっぽっちも無いんだよ」

「くく……そうか……すっかり忘れていたわね……」

「でも、ありがと。礼を言うよ。こんな時代で母さんに抱いてもらえるなんて思いもしなかった」

「礼なんかいらないわ。私が欲しいのはその身体だけ……」

「身体、だと……?」

 だが、もはや母が口を開くことは無い。何も答えは返ってこない。モノ言わぬ躯と化したその残骸は虚ろな瞳で琉歌を見つめる。残ったのは後味の悪さだけ。何も解らない。この街を造ったのが誰なのか。いや、一つだけ解ったことがある。この街の主は、この忌まわしい身体を欲しがっているということ。

「許さない……それだけのためにあたしの想い出を踏み躙ってッ……!」

 琉歌は、その全力を宿した下段突きをフローリングの床へと突き入れる。一般的な建材がこの剛力に耐え切れる訳が無い。想い出の詰まった家は地面からヒビ割れ、その大穴へと崩れ込む。

「やっぱり、ここか……」

 そう、ここは琉歌が目覚めた場所。このクソッタレた世界で初めて光を眼にした場所。安楽なゆりかごから放り出されたこの場所。無機質な白一面の世界。琉歌は、この場所で二度目の生を得た。

「出て来たらどうだッ! あたしは逃げも隠れもしないッ!」

 叫ぶ。ありったけの声で。喉が引き千切れそうなほどの怒声で。そうでもしないと、憤怒という感情の赴くままにこの空間を全てぶち壊してしまいそうだった。いや、そうしたいのはやまやまだったが、それは出来無い。自分に、ここまでの苦しみを与えたヤツの顔を拝んで、ぶっ飛ばすまでは。

肉体(ボディ)……来たか……」

「んなッ……!?」

 噴火するような怒気すら掻き消えてしまうほどの衝撃だった。そこにいたのは自分と全く同じ存在。崩れ落ちてしまいそうなほどの目眩を覚える。背丈も、顔も、全てが同じ。だが、驚くべきところはそこではない。その自分と同じ存在が抱えているモノ。無色透明なガラスケースに浮かんでいたのは――――。

「あたしの、顔ッ!?」

 そう、ガラスケースに満たされた緑色の液体の中で頼り無さ気に浮かぶのは琉歌の顔そのものだった。いや、その髪の色と瞳の色だけが違う。闇すらも吸い込んでしまいそうな漆黒。

「そう、リュカ。貴女の顔……いえ、私の顔ね」

「お前の……?」

 琉歌はオウム返しをすることで精一杯だった。混乱が渦を巻き、脳味噌を掻き回す。自分と同じ顔をした生首が、この顔は自分のモノだと言っている。 なら、あたしの顔はいったい誰の顔なんだ……。

「ふふ……貴女は私……でも、私は貴女じゃない……」

「どういうことだッ! 説明しろッ!」

「それが、貴女にとって絶望だとしても?」

「望む……ところだッ……!」

 琉歌に一も二も無かった。直感が告げている。自分が何者で、何処から来たのか。コイツなら知っていると。

「良い覚悟ね……教えてあげるわ……」

「勿体付けてんじゃねえよッ!」

「うふふ、焦らないの……そう……この世界がどうやって終わったか、それは知っているわね」

「ああ、知っている。隕石の衝突から始まった天変地異……人類は種の保存の為に自ら眠りに就くことを選んだ。それが絶望症候群だ」

「そう、その眠りを覚ますためにはこの地球を元に戻すしかない……貴女は素晴らしかったわ……貴女が通った後には緑が甦っていった……そう、まるで土星の輪のようにね」

「それが、どうかしたってのかッ!」

「気付かない? 貴女は、目覚めてからちょうど一周したってことよ。この地球をね」

「な……それじゃ……」

「そう、そのとおり。この街は私が造ったの。貴女のためにね」

 琉歌の背筋に慄然とした何かが走った。それは決して生首が喋っているという現実離れした現実によるモノではない。この生首の、瞳の奥に宿る狂気。ただこんな悪趣味な嫌がらせをするためだけにこの街を造ったというのか。

「親友にも、想い人にも、愛するママにも会えたのよ、私のおかげでね。だから、もういいでしょう? そろそろ返してもらえないかしら」

「……何をだ」

「その、身体よ」

「そうだろうな。だが、はいそうですかと素直に渡せるものかよッ!」

 そう、大方の予想は付いていた。自分にあって、他の人間に無いモノ。それはこの身体そのものだ。父と母から授かった二度目の生、そして死ぬことすら叶わない忌まわしき宿命。すぐにだって投げ出したいくらいだ。コイツ以外になら。

「うおおおりゃああああああッ!」

 駆ける。その全力を持って駆ける。一足ごとに、真っ平らな地面が砕けクレーターが出来上がる。その比類無き怪力を秘めた上段蹴りがガラスケースを狙う。渾身の手応え、いや、脚応え。次の瞬間には、この憎たらしい顔はこの世から消え去っているはずだった。だが、しかし。

「んなッ!?」

「せっかちねぇ。話は最後まで聞くものよ」

 琉歌は驚愕の色を隠すことが出来無かった。今まで岩石の怪物や鋼鉄の巨人、ありとあらゆる敵をぶち抜いてきた蹴りが、いとも容易く止められていた。それも、自分と全く同じ姿をした、モノ言わぬ人形に。

「あたしよりもッ……強いッ……!」

「うふふ、ご謙遜を。この子は戦闘力に特化しただけのお人形さんよ。貴女の身体には到底叶わないわ。私のための、その身体はね……」

「何度も言わせるなッ! これはあたしの身体だッ!」

「そう思うのも無理はないわね。そういうふうにプログラムされているのだから」

「プログラム、だと……」

 そう、それは琉歌が再び目覚めてからずっと胸に巣食っていた不安だった。ずっと、見て見ぬ振りをしていた。誰だってそうだ。自分の頭の中を覗くことなんて出来無い。だが、もし自分の脳味噌が身体と同じ鉄の塊で出来ていたなら……。

「違うッ! 違う違う違う違うッ! あたしは龍ケ崎琉歌ッ! この心もッ! 身体もッ! あたしだけのものだッ!」

「そう、違うの。想い出も、身体も私のもの」

「なんで、そんなことする必要があるんだよッ!」

「地球の再生を待つ間の眠り、絶望症候群。例に漏れず、私も羅患したわ。ただ、完全に身体が眠ってしまう前に切り離してね、ごらんの有様よ」

 言葉だけは自嘲のそれだが、その眼に悔恨の色は一切見られない。まるで、こうなることを望んでいるような表情。琉歌にはそれが理解出来無かった。望んで、機械の身体を得るということが。

「でも、絶望的な状況の中で父も、母も、絶望することはなかったわ。私の為に、その身体を造ってくれたの」

 ガラスと液体に阻まれて尚、そのうっとりとした瞳が曇ることは無かった。まるで、想い人を見つめる乙女そのもの。いや、それよりも遥かに粘着質な、纏わり付くような視線。それを振り払うかのように、琉歌はありったけの叫びを上げる。

「ならッ……! すぐにお前の身体にひっつけりゃよかっただろッ! なんであたしなんかを造ったんだッ!」

「ナノマシンも全知全能ではないわ。人間の身体に合わせるには永い永い時間が必要だったの。この私の脳に適合する為に進化する時間がね……」

「それで、あたしを造ったっていうのかッ! 身体が、ナノマシンが人間に適合するための時間稼ぎにッ!」

「そう、察しの良い子は嫌いじゃないわ。ナノマシンに組み込まれた自己進化プログラム。この壊れた世界での時間が、貴方をナノマシンを成長させた……そして、今こそその時ッ!」

 それは正しく狂気そのものだった。瞳から放たれる鋭い眼光。射竦められたかのように琉歌は身動ぎすらすることが出来無い。その、一瞬の躊躇いが致命的なモノであることは明白だった。

「ぐうぅッ!」

 三十六層チタン合金の骨格すらも軋ませる戒めが琉歌を襲う。眼の前の人形は一切動いていない。生首も当然、抱えられたまま。動くことなど叶わない。琉歌を襲ったモノ。それは眼の前の人形と同じ形をした、二つの存在だった。

「くそッ! 離せッ!」

 如何に比類無き強靭な膂力を持つ琉歌とはいえ、左右から抑え付けられては身動き一つ取ることが出来無い。だが、それ以上に自分と同じ顔が、それも二つも鼻息すら感じられる場所にあるという脳味噌がかき混ぜられるような違和感が琉歌の精神を苛んでいた。

「自ら前に進むことの出来無い、ただのお人形さんとはいえ貴女を動けなくするくらいのことは出来るのよねぇ」

「ぐッ……このッ……!」

「私もこのザマ、動くことは出来無い。貴女も一緒。これでようやく同じね……」

「何が同じなもんかッ!」

 吠える琉歌。だが、無慈悲で無機質な力で雁字搦めにされてはどうすることも出来無い。動くのは口だけ。ならば、今はその口を動かすしか無い。それが、例え無駄な抵抗だとしても。

「宇宙に行くことだって出来無い、魔法だって使うことが出来無い……こんな身体がそんなに欲しいってのかよッ!」

「ええ、欲しいわ。その欲望の為に、私は生きてきたんだもの」

 あくまで冷淡な色を瞳に浮かべたまま言い放つ生首。もう、既に琉歌の身体を自分のモノにしてしまったかのような口振り。その顔から歓喜の色が滲み出る。だが、事はそう簡単に済まなかった。

「くッ……ぐおおおおおおおおおおおおおおおッ!」

「な、なんですってッ!?」

 それは、琉歌の絶望そのものだった。行き場の無い感情がナノマシンを急激に活性化させていた。人間の細胞は、約三ヶ月で入れ替わる。琉歌のナノマシンはそれをたったの三秒でやってのけていた。

「うおおりゃぁぁぁッ!」

 それは正しく力の爆発だった。強引に、捩じ伏せるように二体の人形を引き剥がす琉歌。その身体に流れる新しい血は、他に比べるモノが無いほどに強力。人形など最早敵ではなかった。

「まさか……まだ進化が終わっていなかったとでもいうの……!」

 これまで高圧的ですらあった生首の表情に、初めて焦り、いや驚愕の色が浮かんでいた。琉歌から放たれたナノマシンが淡い光を放つ。神々しささえ感じさせるその姿。いや、神そのものと言っても過言では無いかも知れない。

「明らかにオーバースペック……私の器でしかないというのに……このままでは……!」

 もう、生首に余裕など微塵も見ることは出来無い。ただただ圧倒的な琉歌のプレッシャーに気圧されるだけだ。ガラスケースに満たされた液体に歯軋りが響く。そう、琉歌の急激な進化は、人間の器であることを遥かに超えようとしていた。

「やらせるものですかッ! 人形たち、行きなさいッ!」

 二体の人形の瞳に感情無き光が灯る。縦横無尽という表現が最も適当だろうか。人間なら有り得ない関節を無視した動きで琉歌を囲む。並みの人間なら1ヶ月はベッドから起きることが出来ないだろう。だが、彼女らは人間ではない。そう、琉歌も含めて。

「邪魔ぁするとぶっ潰すぞぉぉぉッ!」

 だが、その言葉、その絶叫は抑止の為の言葉ではない。叫び終わる前に、琉歌を抑えようとする二体の人形は完膚無きまでに叩き潰されていた。四肢があらぬ方向へとひん曲がり、そのガラス玉のような瞳からは完全に光が消える。その、無残な姿、決して見ていて気持ちの良いものではない。

「先輩を潰させたのも、トッコを潰させたのも、母さんを潰させたのも腹が立ったッ! でも、自分を潰させるのが一番腹が立つッ!」

 その表情にある感情はもはや怒りの一色しか存在しない。ただこの苛立ちをあの生首にぶつける、ただそれだけだ。あれが本当の龍ケ崎琉歌であろうと、自分が器でしか、機械の塊でしかなかろうと、そんなことは、関係無いッ!

「引き摺り出して、ぶっ潰してやるぞッ!」

 もはや、その眼に映るのは自分と同じ顔をした生首のみ。標的まで一直線に最短距離を迷うこと無く選択する。その足が地に付くことすらない。一足で、人形に抱えられた生首の前へと降り立つ。

「くッ……やらせるもんですかッ……!」

 その声と同時だった。主を守護するはずの人形は、護るべきその対象を宙高く放り投げる。緑色の液体が泡立つが、生首はその行為を叱責するでもない。主の命令を忠実に守る、それが人形だからだ。そう、これこそが命令なのだ。

「やってしまいなさいッ……!」

 ガラスケースを響かせて檄が走る。人形が身を震わせる。流石に、戦闘能力に特化しているだけのことはある。人形は生首を追おうとした琉歌の肩を押さえ付けた。行く手を、阻まれた。琉歌の顔に露骨な不快感が走る。

「ちッ……離しやがれッ!」

 だが、人形は動こうともしない。現実離れした、馬鹿げた力を押さえているのだ、関節からはミシミシと嫌な音が鳴る。だが、忠実な人形は皮膚が破れ、筋肉が爆ぜようともその手を離そうとはしない。

「こん……のッ……!」

 琉歌の膝先が瞬いた。文字通り、赤く熱く燃え上がる。その速度は空気すらも燃やし尽くし、圧倒的な破壊力を生み出す。

 滑稽な破裂音が響く。膝頭が人形のみぞおちにめり込んでいた。いや、それだけに留まらない。その衝撃は身体を突き抜け大穴を開ける。だが、そんな無残な姿に成り果てようとも、人形はその動きを止めることは無い。ただ一途にただひたすらにその命を守るためだけに動き続ける。

「なんでッ……どうしてそこまでッ……!」

 それは、人形だからだ。そんなことは百も承知だ。だからこそ、それが許せなかった。琉歌には人形から流れ落ちるナノマシンの死骸が涙に見えていた。こいつも、自分と同じだ。あの生首の道具にされているだけだ。この人形を使命から解き放つには、手段はひとつしか無い。

「……陽電子砲」

 それは、まるで戦いなど無縁の世界であるような静かな言葉だった。だが、その威力は激烈そのもの。時間にすれば刹那にも満たない。琉歌の掌から放たれた光の粒は人形を包み込み、跡に塵一つ残すことは無かった。

「まさかッ……まさかまさかッ……!」

 生首は、ただ砂を噛むような呪詛を吐き続けるしかなかった。人形を失っては、もはや手足をもがれたも同然。いや、初めからその手足など存在してはいない。

「こんな、こんなことがッ……!」

 陽電子砲の衝撃は、生首を守っていた分厚いガラスケースすらも溶かし尽くしていた。瞬時に中の液体すら蒸発させてしまう。最後に外気に触れたのはどれくらい前だっただろうか。だが、今の生首にそんなことを考える余裕は無かった。

「くッ……」

 生首は為す術無く琉歌の腕の中へと落ちる。まるで、親の仇でも眼の前に存在しているかのような鋭い眼差しで琉歌を見据える。だが、当の琉歌は違った。これまでの怒気は消え失せ、赤子でも抱いているかのような穏やかな表情へと変わっていた。

「そっか……そうだったんだな……」

 琉歌の口から漏れたのは、怒りでも憎しみでも無かった。直にその肌に触れて、琉歌の身体に、脳髄に電流が走る。言葉よりも何よりもそのぬくもりで、その鼓動で何もかもが解ってしまった。

「あんな街を造ったのは、あたしを懐柔するためじゃない、ましてや嫌がらせのためなんかじゃない、あの街は、あんたの慰めだったんだ……」

 琉歌は生首の頬を慈しむように指でなぞる。その手付きにもはや憎しみは存在しない。あるのはただ純粋な哀れみ、それだけだった。

「器風情が、情けを掛けるかッ……!」

「情けなんかじゃないさ、解っちゃったのさ、全部ね」

「全部、だと……」

「そう、全部さ」

 オーバーロードしたナノマシンは生首の脳内にすら侵入し、その思考の、記憶の全てを電子パルスへと換え、余すところ無く琉歌へと伝えていた。その想い、その心を。

「あんたが生きたいって気持ちも解ったよ。ああ、今解った。あたしは器だ。あんたがこの世界で生きるためのね」

「ならば、その身体私に返せッ! 私が生きるための、その身体をッ!」

「そりゃ無理な相談だ。あたしはあたし。あの日、もうどんだけ昔か解らないあの日目覚めてから、器じゃない、あたしの人生を生きてきたんだ」

「ぐッ……!」

「だからさ、一緒になろう、琉歌」

「一緒だと……なにッ!?」

「そう、一緒にさ……」

 琉歌の身体が一層強い光に包まれた。その光、粒子の、ナノマシンの塊は巨大な柱へと変わり、天井を貫き、天へ天へと昇ってゆく。もしも、この場に琉歌以外に人がいたならこう言っただろう。神よ、と。

「これは、なんだッ……! ナノマシンが、何をしようと……!?」

 全ては理解の範疇を超えてしまっていた。ナノマシンの一粒一粒が肌に染み込む。いや、融け合っていると言った方が正しいかも知れない。だが、そこに痛みは無い。そして、恐怖すらも。

「いったい、どういうことなの……」

 その感覚、その感触、そのぬくもり。そう、確かに覚えがある。幼かったあの日、母に父に抱かれたあの感覚。見返りを求めない無償の愛。それが、たかが器から与えられているというのか。

「そんなッ、そんなことッ……!」

 だが、抗うのは言葉だけ。その心は優しさに包まれていた。決して不愉快ではない。しかし、その不愉快でないという感覚が怖かった。このまま融けてしまうということが怖かった。

「大丈夫、怖がらないで……」

「え……」

 琉歌の身体もまた、融けかけて、光の粒子に変わりつつあった。琉歌の粒子と生首の粒子が融け合い、混ざる。

「そうか、そうだったんだ……お母さんと、お父さん……動くことが出来ない私に、外の世界を見せるために……」

「そう、あたしを造ったんだ」

「ああ……貴女の記憶が……私に交じる……子供だけの村……愛しい人……そして、絶望……」

「ああ、あんたの代わりに見てきた、あたしの記憶だ」

「こんなに大切なもの、私にくれるというの……?」

「あげるんじゃない、分け合おうぜ」

「うん……」

 琉歌の顔に、もう憎しみの色は存在していなかった。暖かな光はその身体を包み込み、もはやその姿を見ることすら、感じることすら叶わない。いや、今この場所には琉歌と琉歌、二人だけしかいないのだからそれで良いのだろう。

 光が、消える。大気に融け、太陽の光と混じり合う。二人の姿は、もはや無い。後に残されたのは空虚を満たす為に造られた街、それだけだった。

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