第二章
第二章 子供たち
あれからどれくらい歩いただろうか。一日か、一ヶ月か、それとも一年か。元々ボロボロだった外套はもはや僅かにその破片を残すだけ。どれだけの月日が経過したかを物語っている。
「うぅ……」
琉歌の瞳に屋敷を飛び出たときの活力はもはや存在していなかった。体力的な消耗ではない、琉歌の身体は空から無限に降り注ぐ太陽エネルギーの変換により食料を必要としない。
「誰、か……」
もう、どれだけ人と話していないだろうか。廃墟の群れで見るのは朽ち果てた死体ばかり。人が生きるのに必要なのは食料だけではない。心の栄養とも言うべきコミュニケーション、今の琉歌にとって完全に欠乏しているモノだった。何でも良い、誰かの声を聞きたい。そして、その願いは叶うこととなる。
「うわあああッ!」
三キロ先の針が落ちた音ですら聴き分けることの出来る琉歌の聴覚。それは、会話とは程遠い叫び声だった。しかし、原始の鼓動とも言うべきその悲鳴は琉歌の、本能のスイッチを確実にオンにしていた。
「待ってろよッ! 生きてろよッ!」
百メートルを五秒で駆け抜ける琉歌の俊足が砂塵を捲き上げる。音速の壁を超え、その声の主へと急ぐ。この壊れた世界でようやく見付けた生命を守りたい、救いたい、ただただその一心だった。
「おおおおおおおおおッ!」
琉歌の瞳孔が激しく収縮を繰り返す。生身では考えられない機械音。超高性能カメラに置き換えられたその瞳は数キロ先のゴマ粒ですら見分けることが可能だ。そのカメラが、二つの影を捕捉していた。
「くるな、くるなぁッ!」
『ぐおおおおおッ!』
全身ボロボロになった衣服に身を包んだ、その顔形から察するに男の子だろう、地面に尻餅を付いたまま何か棒切れを振り回している。だが、眼の前の怪物に対抗するには余りに頼り無い。全長は少年の三倍ほどだろうか、全身をささくれ立った石片に覆われた巨人。ぐっ、とその腕を少年へと伸ばす。
「やらせるかぁッ!」
砂漠の荒野に耳の裂けるような轟音が響いた。爆走するその勢いのままに跳んだ琉歌の爪先が怪物の横っ面を蹴り飛ばしていた。思わぬ闖入者の一撃に、怪物は平衡感覚を失い、片膝を付く。
「怪物めッ! あたしが相手だぁッ!」
この程度で倒せるなどと、琉歌も思ってはいない。怪物は獲物を奪われた苛立ちを紛らわせるかのように、その巨大な拳を琉歌へと叩き付けようとする。拳が大気を巻き込み、竜巻を起こしているかのような錯覚さえ感じさせる。喰らえば、ナノマシンで構成された琉歌の身体だろうと一溜りも無い。
「動きが遅すぎるね、当たるもんかッ!」
だが、琉歌は軽口を叩く余裕すら持ち合わせていた。とりあえず右、次左と荒れ地の上とは思えないほど軽やかなステップ。怪物は琉歌の身体にかすり傷一つ付けることが出来ていなかった。
『ごおおおおおおおおおッ!』
岩に囲まれた怪物の眼が紅く光る。ちょこまかと逃げ回る獲物に痺れを切らしたのか、頭上に組んだ両の拳を琉歌目掛けて振り下ろす。ひりつくほどに感じる熱、例え当たらなくとも、その衝撃波は琉歌の身体に十二分な破壊をもたらすだろう。だが、この一瞬を狙っていたのは怪物だけではない。
「この瞬間、待っていたッ!」
突き出した掌にはレンズのようなモノが太陽を浴びて万華鏡さながらに光を乱反射させる。だが、この物体はカメラレンズなどではない。父と母が琉歌に残した最高のプレゼント、それがこれだ。
「陽電子砲、発射ッ!」
それは、太陽のコロナよりも眩い閃光だった。光が収束し、一本の直線となって大気を灼き尽くす。その先端は到達する前に岩石で構成された皮膚を溶かしていた。まさに、一撃必殺、と言っていい威力だ。
「ぐおおおおおおおおおッ!」
真っ赤に焼け爛れた皮膚と岩石のコントラストが痛々しかった。まるで、地獄に落ちたかと見紛うような光景。怪物は全身を苛む激痛に耐えかね狂ったように雄叫びを上げる。好機だ、この隙を逃す琉歌ではない。
「逃げるぞ、おいッ!」
傍らに倒れている少年に声を掛ける。だが、反応は無い。こんな怪物に襲われたのだ、失神していても仕方の無いことだろう。琉歌は少年の首根っこを掴み、そのまま一目散に走り去る。戦おうと思えば戦えただろうが、目的はそれではない。
「おいッ! 大丈夫かッ!?」
琉歌は少年の頭を前後に揺さぶる。数キロは走っただろうか、巨大な岩の影でようやく琉歌は脚を止めた。ここならばもう怪物が追い駆けてくることもないだろう。
「うぅ……うん……」
「あ、良かった……」
琉歌はほっ、と安堵の息を漏らす。外傷も、どこが骨の折れたところも無いようだ。間に合った……この荒野に芽吹いた若い生命を救うことが出来た……そんな暖かい想いでいっぱいになる。しかし、少年の口から出た言葉は、琉歌にとって意外なものだった。
「あ……天使さま……? てことはやっぱオイラ死んじゃったのかよ……」
「何が天使だよ。せっかく救けてやったってのに。勝手に死んでんじゃねーよ」
「あうっあうっ」
まだ目の開き切らない少年の頬をぺちぺちと叩く。ぼんやりとしていた瞳に力が戻る。淡い痛みに、なんとか少年は現実へと戻ることが出来たようだ。その白目が目立つ瞳に琉歌が映り込む。
「ねーちゃんがあんまり美人だったから、天使さまと間違えちゃったのさ」
「まぁ、お上手」
「へへ……」
真っ直ぐな瞳、とてもお世辞を言っているとは思えない。歳の頃は琉歌よりも二つ、三つ下だろうか。纏っているのはボロボロの、粗末な衣服だが、その瞳は輝きを失うことのないダイヤモンドそのもの。薄汚れてはいるが目鼻立ちは整っている。美少年と言っても過言では無いだろう。
「ねーちゃん、いったいナニモノなんだい? オイラが生きてるってことはアイツ、やっつけたってことだろ?」
「少年、人に名前を聞くときはまず自分で名乗ってからだぜ」
「あ、オイラはヒビキってんだっ!」
その笑顔は琉歌の胸をときめかせるのに十二分な効果を発揮していた。この世界で目覚めてから初めて見る生命、初めて交わす会話。興奮に心臓は早鐘のように鼓動をかき鳴らす。ああ、生きているというのはこういうことだ。溢れる感動に琉歌は二の句を継ぐことすら忘れてしまっていた。
「あ……あたしは琉歌。そんなことよりも、ヒビキはこんなとこでなにしてたのさ」
「ああっ! そうだったっ! オイラ、早いとこコイツを届けなきゃなんねえんだっ!」
「コイツ?」
ヒビキが後生大事に抱えていたモノ。それは衣服と同様にくたびれた頭陀袋だった。何かがぎゅうぎゅうに押し込められ、袋は形をでこぼこに変え悲鳴を上げているようにさえ見える。ヒビキは得意そうに一つ取り出して、琉歌の前に差し出す。
「ナニ、コレ?」
「なんだ、リュカ知らねーのかよ。これはカンヅメって言ってなすげー美味えんだぞっ!」
「いや、缶詰は知ってるけどさ……」
琉歌は手に持った缶詰をしげしげと眺める。ラベルこそ剥げかけて読めないものの、確かに慣れ親しんだ形だった。口いっぱいに、甘酸っぱいシロップの味が蘇る。
「そんでコイツをもってかないといけないんだけど……あ、リュカ、ちょうど良いとこに連れてきてくれたんだなっ!」
「ちょうどいいとこ?」
「ここさ、ここっ!」
ヒビキは琉歌の言葉を聞き終わる前に、しゃがみ込んで足元の砂を払い除ける。出て来たのは金属製の円形、いわゆるマンホールというやつだった。
「リュカには救けてもらったからな、招待するぜっ!」
「うん、ああ……」
言われるままにヒビキの後を着いてマンホールへと入る琉歌。錆びた梯子がギチギチを嫌な音を立てる。こんな些細なことですら、自分が生きていた時代との断絶を感じさせる。だが、そんなことを考える暇は無かった。琉歌のセンサーに幾つかの生命反応。そして、僅かに薫る硝煙の臭い……。
「動かないでッ!」
薄暗い地下道に凛然とした声が響いた。琉歌の眉間を狙って銃口が鈍く光る。だが、明確な殺意がある訳ではない。いや、その声色はむしろ弱々しいくすらある。読み取れる感情は、怯えの方が強い。
「レイ、オイラだって」
「ヒビキッ! 良かった、無事で……」
地下道がぱあっ、と明るくなったようだった。レイと呼ばれた少女は脇目も振らずにヒビキへと駆け寄る。ヒビキと変わらない古びた衣服を着ているが、後ろに束ねた髪はその色艶を失ってはいない。その身長から察するに、ヒビキよりも僅かに歳上なようだ。
「ヒビキ、こっちの人は……?」
「ああ、リュカってんだ。ヤツらに襲われてるとこを救けてもらった」
「まったく、いきなり拳銃突き付けられるなんてね」
「あ、ごめんなさい……」
だが、琉歌の表情は咎めるそれではない。ここは彼らのテリトリーだ。見知らぬ侵入者に過敏になっても仕様の無いことだった。まだ一体しか見ていないが、地上ではあんな怪物がうろうろしているのなら尚更だ。
「レイ、リュカ、話はあとだぜっ! チビどもが腹空かせてらっ!」
「あ、うんっ!」
「……チビ?」
走り出すヒビキとレイ。琉歌はそれを不思議な暖かい気持ちで追い掛ける。初めて胸の中に生まれた感情。妹も弟もいなかった琉歌にとってはくすぐったいような、でも心地良い感覚だった。
「ようこそ、オイラたちの家へっ!」
そこは、家と言うには余りに粗末な窪みだった。だが、テーブルに、ベッドに、散らばった衣類。明らかに生活の痕跡がある。そして何よりも、そこに座っていたのは二人の子供だった。
「ヒビキにーちゃんっ!」
「おかえりっ!」
二人の子供はヒビキの顔を見るなりその足元へと纏わり付いた。心の底から安心しきっている顔だ。ヒビキやレイよりもずっと小さい。
「ごはんはっ!?」
「いっぱいとれたっ!?」
「おっと、メシより前に挨拶が先だぜ。リュカ、カブにデンだ。俺たちの弟と妹みたいなもんだ」
「よろしくね、カブちゃんにデンちゃん」
琉歌はカブとデン、二人の位置まで視線を落とす。両手で二人の頭をくしゃくしゃと撫でてみる。健康的な感触が指の股をくすぐりなんとも心地良い。はちきれんばかりの、生命の脈動。これこそが、琉歌の求め続けていたそのモノだった。
「ごはんの用意、出来たよ」
レイの声に琉歌は、はっと我に返る。言われなければそのままカブとデンの頭を撫で続けていただろう。テーブルの上には五つの缶詰が並べられていた。
『いただきま~すっ!』
カブとデンは飛び付くように缶詰へとがっついた。まだ、育ち盛りの少年少女だ。これっぽちの缶詰ではとても足りはしないだろう。琉歌は目の前の缶詰に手を付けることに躊躇いがあった。
「どうした、リュカ? 食わねえのか?」
「うん……」
「遠慮は要らねえぜ、リュカはオイラを救けてくれた。仕事したモンは食って当然なんだぜ?」
「そう……? じゃ、頂きます……」
琉歌はカブとデンのいじましい視線を振り切って、フォークを缶詰へと向ける。中身は、期待したフルーツなんかではない、何か魚の缶詰だった。だが、琉歌にとっては目覚めてから初めて口にする食べ物だ。
「美味いっ……美味いっ……!」
全身をナノマシンで構成する琉歌の身体は食事というものを必要としない。太陽の光を浴びるだけで活動に十分なエネルギーを得ることが可能だ。だが、モノを噛む、味わう、飲み込むという喜びは確実に琉歌の身体に活力を復活せしめていた。
「それで、ここではあんたたちだけで暮らしてるのかい? 他の大人は?」
そう長い時間は掛からなかったが、琉歌が口を開いたのは缶詰を空にしてからだった。空きっ腹が落ち着いたのか、疑問は幾らでも口から飛び出してゆく。
「大人は、いない……父ちゃんも、母ちゃんも……あの怪物に……!」
僅かな沈黙の後、答えたのはヒビキだった。それまでの快活さは嘘のように失われ、俯いた顔には深い影が刺す。琉歌は、その顔を直視することが出来無かった。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと、深い後悔が胸を突き刺す。
「あの……言いたくなけりゃ言わなくても……」
「いや、言わなかったら父ちゃんと母ちゃんが戻ってくるわけじゃない……コイツらの父ちゃんと母ちゃんもそうだ……」
「それで、ヒビキがご飯探してた、って訳か……」
「ああ……生き残った俺たちが、コイツらの親代わりさ。でも、アイツらがいるんじゃ、このままじゃ餓え死にだッ……!」
「ヒビキ……」
ヒビキの眼に悔しさが滲む。食い縛る口元、握り込む拳。自分の力ではどうしようもない絶望的な暴力。ただ耐え忍ぶしかないのか、このまま、薄暗い地下道で朽ち果てるしかないのか、そんな想いが溢れ出していることを琉歌は敏感に感じ取っていた。
「ヒビキ、疲れてるときは良いアイデアは出ないもんだよ」
「じゃあ、どうすればいいってんだよッ……!」
「あたしに良い考えがあるっ!」
琉歌の母性は知っていた。泣いている子供にどういう顔をすれば良いのか。琉歌はにっこりとした満面の笑顔でヒビキの頭を撫でる。見る者全てを安らぎへと導くような、そんな顔だった。
「でも、何を……?」
「だから、良い考えがあるんだって」
琉歌は笑顔、というか腹に一物ある表情でヒビキたちが暮らしている区画よりも少し奥へと進む。枯れ果てた地下下水道に見えたが琉歌のセンサーは僅かなその反応を察知していた。
「ふむ、このへんだね」
琉歌が手を付いたのは何の変哲も無いコンクリートの壁だった。付いて来たヒビキたちはただ訝しげに顔を見合わせるだけ。だが、琉歌の耳はその僅かなせせらぎを確実に聞き取っていた。
「う、んッ……!」
それは、震動だった。琉歌の掌から生み出される震動は壁だけでなく空気すら震わせる。異変はそれだけに留まらなかった。頑強なコンクリートで出来ていたハズの壁はまるで砂糖菓子のようにボロボロと崩れてゆく。
「ど、どうなってんだ、こりゃあ……」
呆気に取られたヒビキがそう漏らした頃には、壁には正方形の大穴が開いていた。琉歌に与えられた特殊装備の一つ、超震動破砕装置。掌から発生された超高震動マイクロ波により原子レベルでの破壊をもたらす。
「ふふん、大したもんでしょ?」
得意気に鼻を鳴らす琉歌。断面からは僅かずつ水が染み出している。琉歌のセンサーが察知したのはこれだった。染み出した水は、出来上がった窪みへとみるみるうちに溜まってゆく。
「よしっ、最後の仕上げっ!」
溜まった水へと手を突っ込む琉歌。たちまちのうちに熱を帯びた湯気が立ち昇る。破砕装置を極小の威力に留め、湯を沸かしているのだ。琉歌の言う良いアイデア、そうそれは紛れも無く風呂のことだった。
「おおおッ! すげえッ! 風呂なんて何年振りだッ!?」
「なんだなんだ、汚ったねえなぁ」
「へっへへ」
歓喜の声を上げたのはヒビキだった。雨に打たれたり、僅かな地下水で身体を洗ったことくらいはあるが、こんなに広々とした湯船など見るのも初めてだ。浮かれポンチ丸出しで大事な部分を丸出しにしようとする。
「おいこらっ! 何脱いでんだっ! こういうのは女が先だろっ! レディーファーストって知らんのかっ!」
「ヒビキッ! ナニやってんのッ! みっともないッ!」
「えー……」
琉歌とレイの剣幕に圧されヒビキはぶつくさと言いながら渋々と後ろの部屋へと下がる。少しばかり名残惜しそうにしていたが、睨み付ける二人の乙女には叶わなかったようだ。
「ひゃほぉぉぉうっ! いっちばん風呂だだぁっ!」
端なくも着ていたモノ全てを脱ぎ捨てた琉歌は勢い良く湯船へと飛び込む。ざっぱん、という大音量と共に水、いやお湯飛沫が上がる。うっとりと蕩けた顔をゴシゴシとお湯で擦る。
「ひゃーっ、気持ちいいねぇ~っ!」
ナノスキンで構成された身体を持つ琉歌に入浴など必要無いかに思われたが、湯気の香り、お湯の温度、感触。その全てが人間だった頃の記憶を呼び覚ましていた。これもまた、自分が自分であることを確かめる為の行為だった。
『うっわ~いっ!』
次いで、ぴったりと息を合わせて湯船へ飛び込んだのはカブとデンだった。幼い身体が宙を舞う。生命の躍動そのものがそこにはあった。
「こらっ! もう少しお行儀良く出来ないのっ!」
『えへへへへっ!』
二人を咎めるレイの表情は、まさに母親そのものだった。その微笑ましい光景に湯船に寄り掛かった琉歌の顔は思わず綻んでしまう。このやわらかく優し感覚。永い間忘れていた感情だった。
「ほら、レイちゃんも入んなよ」
「あ、はい……」
琉歌よりも恥じらいを持って衣服を脱ぐレイ。その仕草が女である琉歌にさえ、何かグッとしたモノを感じさせる。年齢に似合った健康的な裸体は、同姓の琉歌が見惚れるほどだった。
「いやあ、レイちゃん良い身体してんねぇ……あたしが男だったら我慢出来無いとこだったよ」
「我慢て、なんの我慢ですか……てゆーか、私なんかよりもリュカさんの方が……」
「あ、コレ?」
レイの視線はある一点に注がれていた。お湯に浮かび、呼吸の度にぷかぷかと揺れる巨大な肉の塊。今のレイは持ち合わせていない、母性そのものとも言うべき存在だ。
「レイちゃんももうちょっと大きくなればそっちも大きくなるって」
「おっきく、なるでしょうか……」
「なるなるっ! 知ってた? おっぱいって揉まれるとおっきくなるってっ!」
「えっ……ひゃあんっ!」
琉歌の容赦無い愛撫がレイのしどけないふくらみを襲う。未知の刺激にレイの身体は自分の意思とは関係無く淫らに反応してしまう。紅潮する頬は、決して湯の温度のせいだけでは無いだろう。
「おらっ! おらっ! ここがええのんか、ここがええのんかっ!」
「やっ……はぁんっ……!」
えげつない琉歌の指先により、奏でられるのは脳髄まで痺れるようなレイの嬌声。皆が済む部屋にまでその声は届いていた。一人、座して待つヒビキは悶々とした気持ちと戦い続けていた。
「あいつら、なにやってんだよ、まったく……」
何故顔に血が昇るのか解らなかった。ヒビキはまだそういうことを全く知らない。熱くなる身体、そして男の部分……どうやって鎮めれば良いのかすら解らない。それは、ヒビキにとって拷問以外のナニモノでもない。この、地獄のような時間も琉歌が満足するまでは終わらなかった。
「ふーっ……人心地付いたとこで……この辺のこと、聞いてもいいかな……?」
「はい……」
今迄の緩みきっただらしない顔とは打って変わって、琉歌の表情は厳しいモノへとなっていた。今から聞くことは、確実にレイの心の傷に踏み込むことになるだろう。
「あの、岩で出来た怪物……あれは一体なんなの?」
「大人たちは、あの怪物をゴーリアンと呼んでいました……でもそれだけしか……大人たちも、みんなアイツらに食べられて……!」
「うん……」
「私たちは、こんな地下道に追いやられて……食べ物だって、もう底を付いて……」
「それで、ヒビキが上に出てた、って訳か……」
「生き残った男は俺だけだからって……」
琉歌はヒビキと出会ったときのことを思い出していた。まだ知り合ってから数時間しか経っていないが、あの顔を見れば解る。無鉄砲で短絡的で、でも仲間思い……。
「ほんとうに、ヒビキを救けてもらって、ありがとうございました……」
「あらぁ?」
琉歌は気付いていた。レイの安堵の表情に、同胞に対する思いやり以外の感情があることを。そんなとき、どうすればいいのかも女子校のノリで解っていた。
「レイちゃんって、ヒビキのこと好きなんだぁっ☆」
「ひいえっ! ちちち、違いますっ! ヒビキは歳下だし、生意気だし、目付きは悪いしっ! でもでもっ! 子供の面倒見は良いし、いざという時は頼りになるし、ちょっと格好良いかなーとも思うし……」
「うんうん、青春だねぇ」
琉歌はニヨニヨしながら真っ赤になり右往左往するレイを眺めていた。思い出す、自分にもこんな時期があったことを。クラスの窓際で、何時も物憂げに外を見詰めていた少年。その横顔に恋をしていたこともある。
「だから、ちがいますっ! 好きとか嫌いとかじゃなくて……もう、私たちしかいないから……家族を、仲間を増やすには私たちが……」
レイは真っ赤になったまま、ぶくぶくとお湯へと沈んでしまう。それが、何を意味するのか琉歌にも明白なことだった。男と、女の交わり……琉歌はこの二人のことを少し羨ましく思う。まだ試してはいないが、この身体では男を迎える痛みすら知ることも出来無いだろう。
「大事にしてやんなよ。あと二、三年もすればイイ男になるからさ」
「……はい」
こうして、ガールズトークの夜は更けてゆく。湯に当たれず、身体の冷えたヒビキのくしゃみが地下道に響いていた。
・
「ん……?」
夜も、もう随分と更けてしまっている。隣のベッドではレイとカブが、琉歌の胸元ではデンがすやすやと安らかな寝息を立てている。だが、琉歌の聴覚が察知したのはそれとは明確に違う物音だった。
「靴音が、一つか」
その主が誰であるかは解っている。琉歌は警戒することも無くベットから降りるとそのまま出口へと向かう。予想通り、マンホールは外れ僅かな月明かりが地下道へと入り込んでいた。
「あ、リュカ。起こしちゃったか?」
そこにいたのは、身の丈ほどもあるライフルを抱いて岩に寄り掛かるヒビキだった。淡い灯りに照らされるその表情を見て、琉歌の胸は何故かずきん、と痛む。
「こんな時間に、どしたの?」
「ん、見回りさ。見つかるとも思わないけど、用心するに越したことは無いと思ってね」
「そっか……」
痛みの原因は、このヒビキの表情だった。下でじゃれあっていたときとは全く違う、仲間を守るという決意に固められた戦士の顔だ。まだ、両親の愛情を存分に受けるべき年齢だろう。それが、生き残る為とはいえ、こんな顔を……。
「だっこ、してあげよっか?」
「えっ?」
「だから、だっこ」
ヒビキの横に座った琉歌から飛び出した言葉、それは女だけが持ちうる母性によって紡がれていた。今、この少年に必要なのは怪物を撃ち倒す武器でもない、腹を満たす食料でもない、心を暖める愛情なのだと本能がそう告げていた。
「いいよ、別に……」
「良いから良いから、恥ずかしがんなってっ!」
「わぷっ!」
そっぽを向くヒビキを琉歌は強引に頭から抱き締める。伝わるお互いの体温、お互いの脈動。人間に安らぎを与える生の証がそこにはあった。
「ちょ、リュカ……! おっぱいが……!」
顔いっぱいに広がるとける程にやわらかな感触、肺いっぱいに広がる洋菓子を百万倍甘くしたような匂い。頭一つ分も身長差があるものだからヒビキの顔は琉歌の胸に押し潰される形となってしまう。
「いーじゃん、おっぱいくらい。ほれ、吸うか?」
年下、という油断もあるのだろう、琉歌は何の躊躇いも見せず上着をたくし上げその豊かなふくらみをまろびだす。ヒビキだって男としてのプライドくらいある。子供扱いなんてまっぴらだ。だが、男の本能がおっぱいという誘惑に逆らえる訳が無いのだ。
「い、い、い、いただきますっ!」
「あんっ☆」
思わず琉歌の口から甘やかな声が漏れる。まだ手順も知らない子供だ。荒々しく乳を握られ、たどたどしい口遣いで乳首をがむしゃらに吸われる。だが、その乳幼児にも等しい仕草に琉歌の母性は完全にスイッチが入ってしまう。
「ヒビキ……」
「んぐ……」
しまった、と琉歌は後悔する。火照る頬、疼く子宮。母性だけではない、確実に女としてのスイッチが押されてしまっていた。欲しい……ヒビキの男自身が欲しい……だが、レイの顔がちらつく。幼い恋する二人を引き裂くような真似をしてはいけないハズだ。理性と本能のせめぎ合い。だが、それを止めたのは意外な怒声だった。
「ごぉぉぉらぁぁぁッ! ナニやってんだッ! ヒビキィィィッ!」
「ひぃッ! 違うッ! これは違うんだレイッ!」
乳繰り合う二人の前に立ちはだかったのは般若の形相を顔に塗り固めたレイだった。その圧倒的な威圧感に琉歌とヒビキはただ震えることしか出来無い。
「何が違うのよッ! 私というものがありながらなんてことしてんのよッ!」
「だからッ! 違うッ! 違うと思うッ! ごめんッ! 許してぇッ!」
「絶対に許さないからねッ!」
血みどろの修羅場を繰り広げる二人を他所に、巻き込まれてたまるものかと琉歌はこっそりと腹這いに抜け出そうとする。だが、怒れる乙女の目敏い視線がそれを許すハズが無かった。
「リュカさんもッ! いったいナニさせてんですかぁぁぁッ!」
「ひぃぃッ! ごめんなさぁ~いッ!」
琉歌の断末魔が響き渡る。琉歌とヒビキが口にするのもおぞましい折檻を受けたことなど、もはや記するまでもないだろう。
・
あれから、一週間が経っていた。始めのうちこそ、ヒビキとレイ、それにカブとデンに囲まれまるで家族を得たような生活に琉歌は満ち足りた感情を得ていた。だが、生きるということは腹が減るということだ。ヒビキが持ち出した缶詰ももう底を付いている。飢餓こそ、人に訪れる困難の中で一番の苦しみと言っても過言では無い。
「だからよッ! オイラが取りに行かないとこのままじゃみんな飢え死にだろッ!」
「だからってッ! リュカさんがいなかったらヒビキ死んでたのよッ!」
まさに、喧々諤々というに相応しかった。ヒビキが吠えればレイが怒鳴る。カブとデンなど、テーブルの下で小さくうずくまってしまっていた。
「ならどうすんだよッ! ここにいたらどっかから食いもんが沸いてくんのかよッ!」
「それは……」
「なら、行くしかねえだろッ……!」
ここで飢え死にするか、怪物に喰われるか、二つに一つの選択肢しか残されていないという絶望。ならば、戦う。戦っれ、死ぬ。ヒビキの、男としての矜持はそれを選ぼうとしていた。
「あの、あたしが行くよ」
おずおずと手を上げたのは琉歌だった。鋼の身体と、天をも斬り裂く巨砲を持った琉歌にとっても戦いは慣れるものではない。それでも自分から戦う意思を示したのは、この愛すべき子供たちに生き永らえてほしかったからだ。
「そうだよッ! リュカがいりゃああんなヤツらッ!」
「ダメよっ! リュカさんだって、ガサツで言葉遣い悪いけど、一応女の人なのよっ!」
「なんか引っかかる言い方だね……けど、気にすんなよ、あたしの身体は特別製さ。ちょっとやそっとじゃやられはしないよ」
「でも……」
レイは言い淀むしかなかった。強気なことを言われようと、やはり琉歌は自分と同じ女にしか見えない。こんな細身の身体であの怪物に挑むなどと、正気の沙汰には思えなかった。
「なら、私も行く……!」
言い放つその言葉、爛と輝くその瞳には動かしようの無い決意が宿っていた。この人を死なせたくない、その想いはレイも同じだ。姉のように慕っていた琉歌だけを死地に赴かせる訳にはいかない。
「何言ってんだよッ! レイはここでカブとデンを守らなきゃダメだろッ!」
「どっちみち、アイツらに勝たないと私たちは死ぬだけだわ。私がいることで勝つ確率が高くなるなら……私は戦うッ!」
「レイ……」
姉弟のように育った仲だ、ヒビキにも解っていた。これは、死ぬ為に征くという後ろ向きな決意ではない。ヒビキと、カブとデンと共に行きてゆくという、清々しいまでに前向きな決意。
「わかった……でも約束してくれ」
「うん……」
「絶対に、死なないでくれ」
「うんっ!」
交錯する視線。重なる手と手。それだけではない、想いもだ。必ず生きて帰るという誓い。二人の間にある、絆と呼ぶのが生易しく思えるほどの繋がり。だが、それを心良く思わない鋼鉄の乙女が一人。
「あらあら、ずいぶんと仲良しさんねぇ」
『うひょおっ!』
その声に思わず背筋が伸びきってしまう。ヒビキとレイは重ねていた手を大慌てで離した。後ろには、じとっとした目付きの琉歌。別に、ヒビキに対して恋愛感情を抱いている訳では無い。だが、色恋を知らない琉歌にとって、今の二人は眩し過ぎた。
「ち、ち、ち、違うのリュカさんッ! これはこれはッ!」
「いいのいいの、仲良き事は美しき哉、ってね」
「んもぅ……」
茶化す琉歌の言葉に、レイは満更では無い様子だった。対称的なのはヒビキだ。茹で蛸さながらに真っ赤になって俯いたまま一言も発することは無い。思春期の少年にとって、恋愛沙汰で晒し者になることは苦行と言っても過言ではないだろう。
「どしたのかな~ヒビキくん~今度はレイちゃんのおっぱいでも吸ってみるかな~」
「う、う、う、うるさいうるさいッ! そんなことよりも作戦考えないとダメだッ! 勝つためにッ!」
苦し紛れの一言だったが、この一言は琉歌を厳しい現実へと引き戻した。そう、琉歌はまだ、あの怪物のことをこれっぽっちも知りはしないのだ。
「何か良い案があるのかい?」
「今まで上に出て、昼にヤツらと出くわしたことは無いんだ、つまり……」
「夜行性、ってことね」
「ああ。太陽の出ている間にヤツらの巣に突っ込んで一網打尽にする」
「巣はわかってんの?」
「ここから南に何キロか歩いた先に、オイラたちが城、って呼んでる場所がある。そこに集まってるみたいだ」
「なるほどね……」
兵法など学んだことの無い琉歌でも解る、作戦とも呼べない稚拙な作戦だった。だが、それ以外にどんな策があるというのか。突っ込んでぶっ倒す。直情的な気性を持つ琉歌にとっては何よりも相応しかった。
「武器は?」
「武器庫に色々あるよ。好きなのを、ってリュカには必要ないか」
「いやあ、そうでもないかもよ?」
不謹慎なことだが、琉歌の口角がにやり、と歪む。死地に向かうという絶望、それは琉歌にとっては死を迎える希望と同義だ。輝くような生に囲まれて暮らしていても尚、死という甘美な結末を忘れることは出来ていなかった。
・
『リュカねーちゃん、これ』
「あ、これ……」
戦場へと赴く直前、カブとデンが琉歌に渡したのはしっかりとした繊維で編み込まれた上下の衣服だった。確かに、今琉歌が着ている服は嘗ての色彩を失い、あちこち穴さえ空いている有り様だった。
「ありがとう……」
嬉しかった。こんな小さな子供たちが自分の為にこんな素敵なモノを用意してくれたことが。琉歌は噛み締めるように渡された服を身に着けてゆく。
「わぁ、ぴったりだっ!」
意図した訳ではないだろうが、胸元のぱっくりと開いた上着。その上着に付けられていた二本のレザーバンドは胸の上下をしっかりと固定し、ぴっちりとしたズボンはやや寸足らずだったが、ブーツが脛までをすっぽりと覆っている。これならば砂漠の上だって自由自在に動き回れるだろう。
「リュカねーちゃん、ぜったいかえってきてねッ!」
「しんじゃ、ダメだよッ!」
「カブ……デン……」
カブとデン、二人の言葉は、琉歌の心の、隅々にまで染み渡っていた。二人は琉歌の自殺願望なんか知る由も無い。あどけない、純粋な、心からのお願いだ。ただ琉歌に生きて帰ってきてほしいとそう想っているのだ。
「約束するよ、必ず生き残る」
『リュカねーちゃんっ!』
琉歌はニカっ、と白い歯を見せる。子供を安心させるにはこれが一番だと知っていた。その裏表の無い笑顔に、連れられるようにしてカブとデンの顔も綻ぶ。琉歌の両腕は、自然と二人を抱き締めていた。今、この時だけは後ろ向きな感情は春の淡雪のように消える。
「さ、そろそろ時間だね……」
琉歌は名残惜しそうにその腕を離した。残ったこの幼いぬくもりが生きる力をくれる。これだけのモノを与えてくれたのだ、この、尊い約束を破るわけにはいかないだろう。
「リュカさん、ありったけの武器、持ってきました」
「ん、あんがとっ!」
物々しい音を立てて、物騒な格好で出て来たのはレイだった。両手いっぱいに抱えるのは、マシンガン、バズーカ砲、グレネードランチャーと、町の一つくらいなら焦土と化せるほどの銃火器だった。
「あたしは、コレとコレだな」
琉歌が手に取ったのは、大砲と言っても差し支え無いほど巨大な二丁の拳銃だった。極太の銃口がぎらり、と黒光りする。
「リボルバー・グレネード……大丈夫ですか? それ、威力はものすごいけど、反動も……」
「あはっ、だいじょぶだいじょぶ。あたしの身体は特別製だからねっ!」
不敵な笑みを湛えて二丁のリボルバー・グレネードを構える琉歌。ずっしりとした重み、ざらりとした手触り。殺戮と破壊をもたらすだけの道具が、どうしてこうも頼もしく思えるのだろうか。
「お、リュカもレイも準備できたみたいだなっ!」
マシンガンを携え、胸の辺りで連なったベルトリンクを交差させているヒビキだった。格好だけは一丁前に戦士の様相だったが、どうしてもその顔は少年のまま。それがどうしようも無く琉歌の心を痛め付けた。
「さ、行こうか……!」
この哀しい現実から子供たちを解き放つにはあの怪物たちを倒す他に道は無い。戦士であるのは自分だけでいいと、琉歌は悲壮な決意を胸に秘めた。
・
「あれが、城、か……」
琉歌は腹這いになって渡された双眼鏡を覗いていた。太陽に晒された巨大な建造物。まさに、城と呼ぶに相応しい姿だ。嘗て、この地上に文明が栄えていたその名残。だが、いまや怪物の住処へと成り下がっている。
「どれだけいるか、わかる?」
「いや、見当も付かないな……オイラが今まで見たのは三回。どいつも形が違ってたから別のモンだと思う」
「そうか……」
琉歌は僅かに歯噛みをした。胸にあるのは、恐怖。この鋼鉄の身体を持ってしても抑えることは出来無い。鉄骨の剥き出しになった朽ち果てた建物ですら、悪魔の住まう城塞にすら見えてしまう。そうか、それでヒビキたちは城、って呼んでたんだな……。
「ここでうじうじしてても日が暮れるだけだしな。最初の予定通り、あたしとヒビキが突っ込む。レイちゃんがここであの準備を」
「うん、わかってるわ」
レイが力強く頷く。その顔は責任と決意に満ち溢れたモノと変わっていた。大丈夫だ、この顔なら信じることが出来る。安心して背中を預けることが出来る。
「よしッ! 突っ込むぞッ!」
「おうッ!」
琉歌とヒビキは脇目も振らずに、一直線に城へと駆ける。振り返ることなど決してしない。ただひたすらに砂煙を巻き上げる。必ず、生きて帰るのだから。
「ふうん、やっぱり。昔はショッピングモールだったみたいだね」
「ショッピングモール?」
「うん、服とか、食べ物とか、本とか、とにかくなんでも揃う場所だったんだよ」
城まで辿り着いた琉歌はその入口の残骸にそっと手を当てていた。過ぎし日には恋人、家族、友人たちがここを通って行ったのだろう。だが、今ここにいるのは琉歌と、ヒビキと、そして怪物の群れだけ。
「よし……行くよッ……!」
「おうッ!」
意を決して城へと踏み込む琉歌とヒビキ。恐る恐るとか、忍び足とか、そういう言葉は全く相応しく無い足取り。まるで、ここにいるぞ、見つけてみろ、と言わんばかりだ。いや、事実その通りなのだ。だから、足りない。まだまだ音が足りない。
「ヒビキ、頼むッ!」
「おうよッ!」
「ぶっ放せぇぇぇッ!」
マシンガンを天に掲げたヒビキは派手な銃声が鳴り響いても遠慮せずにところ構わずぶっ放す。真っ赤に灼けた銃弾が天井として敷き詰められた透明なガラスを打ち破る。粉々になった破片が降り注ぎ、地面へと虹色の瞬きを撒き散らす。ここが、死地であることを忘れさせるほどに現実離れした光景だった。
「でも、なんで天井なんか?」
「あれは遮光ガラスっていってね、読んで字の如し、太陽の光を止めちゃうんだよ」
「そうか、夜行性のゴーリアンなら、太陽は最大の武器になる、ってことかッ!」
「ああ……そのゴーリアン、おいでなすったみたいだねッ!」
琉歌とヒビキに全身が痺れるような緊張が走る。唸るような轟音と共に、大地は震え、建築物の骨格はぎちぎちと軋む。睨み付けるような真っ赤な眼に、近付くことすら阻むささくれ立った巨体。どうして見間違えることが出来るだろうか。
「ゴーリアンッ……!」
ヒビキは、その幼い顔いっぱいに憎しみの感情を刻んだ。父も、母も、そして友も、みなこの怪物に喰われた。その無念、如何ばかりだったろうか。理不尽にも生を奪われた仲間たちの怒り、晴らすのは自分しかいない。
「うおおおおおおおおおッ! 死ねッ! 死ねぇッ!」
こんな子供から放たれているとは思いたくない、最悪な言葉だった。弾丸が爆ぜる度に、震動がその小さな身体に響く。腋に食い込む銃身。だが、その痛みこそが復讐を果たしているという証。ヒビキの心臓はその甘美な感情に踊る。
「ヒビキ、危ないッ!」
「うおぁッ!」
だが、そんな甘い時間も長くは続かなかった。激情に囚われたヒビキはゴーリアンの振り上げた拳に、一瞬反応が遅れてしまった。琉歌が弾き飛ばさなければミンチよりも酷い状態になっていただろう。
「ぐうううおおおッ!」
琉歌の口から獣じみた唸りが漏れる。全身がバラバラになるほどの衝撃。琉歌でなければ実際にそうなっていただろう。両腕を頭の上で交差させ、どうにかゴーリアンの拳を受け止めていた。
『おおおおおおおおおッ!』
だが、その程度で抑えられるゴーリアンではない。撃たれた鬱憤を晴らすかのように全体重を乗せ、琉歌のか細い身体を強引に押し潰そうとする。軋む音は身体が奏でる絶望の旋律。踏ん張る脚が地面を砕き、膝までめり込んでしまう。
「ヒビキッ! これ使えッ!」
「こ、これって……」
琉歌が視線で指したのは、殴られた衝撃でヒビキの足元まで吹っ飛んだリボルバー・グレネードだった。ゴーリアンの装甲がどれだけ頑強だろうと、この一発を耐えられるとは考え難い。一撃、たった一撃さえ喰らわすだけでいいのだ。
「で、でもよぉッ……!」
辛うじてリボルバー・グレネードを拾ったヒビキだが、小刻みに震える指先は引鉄を押さえることすら出来無かった。対峙する巨人への恐怖か、このリボルバー・グレネードの威力への畏怖か、それとも両方なのか。
「なにやってんのッ! 早く撃てぇッ!」
「で、でもぉッ……!」
「落ち着いてッ! 両足を肩より広く、踏ん張ってッ! そう、リボルバーは胸の前で構えて、そう左手もグリップに添えてッ! 肩に力を入れなさいッ!」
「う、うんッ!」
「さぁ、撃ってッ!」
「うおおおおおおおおおッ!」
ヒビキの雄叫び。そして、それを掻き消すほどの爆音。眼を灼くほどの閃光。爆薬がゴーリアンの横っ腹で炸裂する。琉歌の適切なアドバイスによって、落ち着きを取り戻したヒビキはなんとかその引鉄に力を込めることが出来ていた。
『ぐおッ……! ぐおおッ……!』
腹に眼を背けたくなるほどの大穴を開けたゴーリアンは、断末魔を上げそのまま地面へと崩れ落ちる。傷口からは止めど無く透明の液体が流れ出していた。明らかに血液や体液では無い。
「装甲と本体の間に、この液体をみっちり詰めて防御を高めてたのか……」
琉歌はゴーリアンが確実に息絶えたことを確かめてからその残骸を脚で転がす。ねっとりと粘性のある液体が爪先に絡み付く。不愉快な感覚が琉歌を襲っていた。
「しかし、いったいなんなんだ、こりゃあ?」
その場にしゃがんだ琉歌は、足元に水溜りを作っていた液体を指で掬う。さすがに口にすることは無いが、臭いすら感じることが出来無い。この透明感、明らかに人工物だ。
「リュカ、ボケっとしてる時間は無いようだぜ……!」
震えていた先ほどとは打って変わって、落ち着いた声を出すのはヒビキだった。ひりつくような殺気、いや殺気というには余りに荒々しい感情が琉歌とヒビキにぶつけられていた。
『うおッ! うおおおッ!』
この怪物に仲間意識があるかどうかは解らないが、その叫びは死んだ同胞に対する鎮魂歌にも聞こえた。だが、それだけでは足りない。憎き敵の血こそが、魂を鎮める最高の供養になるはずだ。無数のゴーリアンが琉歌とヒビキに敵意に満ち満ちた視線を浴びせる。
「こりゃあ、うかうかしてられないねぇッ……!」
その数は、琉歌の想像を遥かに越えていた。多くとも五体までとは思っていたが、その有り様はまるで動く山。数えることが馬鹿らしく思えるくらいだ。
「ヒビキッ! 撃ちながら外に出るよッ!」
「ああッ! わかってるッ!」
琉歌とヒビキは目配せをすることも無く一目散に走り出す。如何に琉歌の剛力があろうとも、これだけの数を相手にすることは不可能だ。付かず離れず、追い付かれない距離を保ち城の外へと誘き出す。
「ヒビキッ! 遅れるなよッ!」
「んなこと言ったってよぉッ!」
「ぐだぐだ言うんじゃないッ! 死にたいのかッ!」
ゴーリアンの激走は元から朽ち果てていた城を完膚無きまでに砕き潰していた。それだけの質量で、それだけの速さで追い駆けてくるのだ、生身であるヒビキの体力はもはや限界に達しようとしていた。
「ちッ……しょうがねえッ!」
「何を……おわッ!」
ヒビキには一瞬何が起こったか理解出来無かった。物凄い力で首根っこを引っ張られたと思った次の瞬間には、琉歌の胸の中にすっぽりと収まっていた。いわゆる、お姫様だっこというやつだ。
「ちょ、離せよリュカッ! 恥ずかしいだろッ!」
「バカッ! 恥ずかしがってる場合かッ! 死ぬぞッ!」
「そんなこと言ったって、もうッ……!」
口喧嘩をしながらも、命からがらなんとか城の外へと脱出することが出来た琉歌とヒビキ。あと、数百メートルも走ればレイの待つポイントに辿り着くハズだ。
『ぐおおッ! ぐおおおおおおッ!』
ゴーリアンにも明確な変化が現れていた。天敵である太陽の光に晒され、明らかにその勢いは弱まっている。息も絶え絶え、フルマラソンを走りきったランナーのように衰弱しきっていた。
「リュカさん、こっちですッ!」
「おおッ!」
ようやく、レイの顔が見えた。琉歌の奥歯に思いっきり力が込められる。それがスイッチとなり、全身の筋肉という筋肉が凝縮し脚元に鬼神の如き力が漲る。その姿、自己記録を狙う陸上選手そのものだ。
「ヒビキッ! 掴まってろよッ!」
「え、なにっ? うおおおおおおっ!?」
ヒビキが悲鳴を上げる。琉歌の身体が眼に痛いほどに青い空へと舞い上がる。その跳躍、走り幅跳びと言うには余りに高い。つい先程まで存在していた城よりも遥か上空に琉歌の身体はあった。
「い良しッ! 着地ぃッ!」
砂埃を捲き上げ、砂地に二本のラインを作り上げる琉歌。綺麗にレイの隣へと着地していた。だが、そんな世界新記録達成の余韻に浸る間も無く、琉歌はレイへと檄を飛ばす。
「レイちゃん、撃ってッ!」
「はいッ!」
レイが肩に担いだのは、身長ほどもあるバズーカ砲だった。照準など合わせる必要も無い。ただ、その場所に一発を撃ち込めば良い。それだけだ。
「ファイヤぁッ!」
レイの声と共に、けたたましい爆音が砂漠を揺るがしていた。放たれた火球はゴーリアンが走る僅か手前に着弾してしまう。だが、レイの顔に落胆の色は無い。これでいい。これでいいのだ。
「ぶっ飛べぇッ!」
もはや、ゴーリアンの叫び声すら聞こえなかった。嵐を衝くような轟く爆音。無論、たった一発の砲弾でこの、文字通り大地を砕く爆発が起こった訳では無い。
「砂漠に仕込んだありったけの爆薬、ここまで策がハマると気ん持ちいいねぇッ!」
琉歌は恍惚とした表情を浮かべて、巻き起こるキノコ雲を眺めていた。背筋に電流が走るような感覚。性交よりも激しい快感が琉歌の神経を駆け巡っていた。だが、そんな悦楽の時間も、文字通り水を差されることとなる。
「雨……いや、こんな天気で降るハズが無い……」
空は澄み渡るほどの晴天というのに、琉歌の頬にはねっとりとした液体が伝っていた。一滴や二滴の話ではない。全身を不愉快に濡らすほどの雨となって、この場所に降り注いでいた。
「んなッ……!? こりゃあいったい……」
それは、尋常の光景ではなかった。雨が砂漠を濡らしたその部分にだけ、新たな緑が芽吹きつつあった。何処までも広がる、生命の欠片させ見つけることの出来無かったこの砂漠に、だ。
「ゴーリアンの体液……栄養をたっぷりと含んだ高分子ポリマー……砂漠すらも緑地に変えてしまう効力を持っています」
「えっ……?」
琉歌はぎょっ、と眼を丸くしてして後ろを振り向いた。その少女の声が、今まで聞き慣れていたものとまるで違って、冷徹なモノと変わっていたからだ。
「レイちゃん……何を知っているの……?」
「全部、です」
「全部、て……」
「ご覧の通り、この星は確実に黄昏の時代を迎えています。全時代の文明が残した食料も、あと僅かで底をつく……このままでは、私たちは死を待つばかりでした。けれど、ある一人の科学者が、私たちの生き延びる術を見つけ出したんです」
「生き延びる……術……?」
「ええ、高濃度のナノマシンを注入し、身体そのものをこの過酷な環境に適応させる……」
「それが、ゴーリアン、って訳ッ!?」
「ええ。死んだあともその体液で砂漠を緑化する……この世界には必要なことだったの……」
「ちょっと待ってッ! それじゃ、あのゴーリアンってッ!」
「そう……私たちの……」
「そんな……!」
絶望と、驚愕に染まる琉歌の顔。だが、それとは対称的にレイの表情は凛として、何事か美しいまでの決意を感じさせるモノへと変わっていた。
「私も……新たな世界の礎に……!」
「やめろ、レイッ!」
悲痛なヒビキの叫びも、レイの耳に届くことは無かった。レイは、ポケットから取り出した小さな注射器を首筋に当てる。琉歌の俊足でも、それを止めることは出来無かった。
「くッ……くああッ……!」
瑞瑞しかった肌はひび割れ、中からくすんだ色の岩が覗く。服は破け骨は軋み、獣のモノとも付かない叫び声と共にその身体は醜く巨大に変化してゆく。どうしてこれがレイだと信じることが出来るだろうか、何処にその面影を見い出せというのか。
「レイッ……! レイッ……!」
ヒビキはただ立ち竦むしか無かった。他にどうしろというのか。目の前で異形の怪物へと変わり果てる想い人に何をしろというのか。止められない、止まらない。ただ、絶望だけがそこにあった。
「ナノマシンを見付けたのは私……だから、私は罰を受けなきゃいけないッ……!」
それが、レイとしての最後の言葉だった。琉歌とヒビキの前に、もうレイは存在していない。岩石の身体と高分子ポリマーの体液を持つ怪物、ゴーリアンがいるだけだった。
『うおォん……』
それは、慟哭以外のナニモノでもなかった。モノ言わぬその口で、その真っ赤な瞳で何を訴えようというのか。いや、琉歌には解っていた。『コロシテクレ……!』と叫んでいるのだッ!
「イヤッ! イヤだよッ! レイちゃんを殺すなんて、そんなイヤだよッ!」
『うごごごごごごッ!』
だが、琉歌の叫びもレイであった物体に届くことは無い。レイとしての意識はもはや存在しておらず、ただ、破壊を繰り返すだけ。琉歌にとっては避け切れない動きでは無い。けれども、だから、余計にッ……!
「リュカッ! お願いだッ……! レイをッ……レイをッ……!」
「んなこた解ってるッ!」
ヒビキの涙を見るまでも無い、琉歌は自分のやるべきことを十分に理解していた。レイを救ける、レイを元に戻す。しかし、どうやって?
「そうか、ナノマシンッ!」
そう、ナノマシンだ。レイはゴーリアンとなる為にナノマシンを注入していた、そして、自分の大部分を構成するのもナノマシンのハズ。細かいことは良く解らない、でも、やってみるしかないッ!
「喰らえッ!」
琉歌が左手をゴーリアンへと向ける。それを見たヒビキの脳裏に、ある光景が蘇っていいた。初めて琉歌と会ったあの日、自分の生命を救ってくれた、一筋の閃光。
「レイを殺す気かよッ!」
「いいから黙って見てろぉッ!」
凄絶たる形相で叱り飛ばす琉歌。ヒビキは、その圧力に何も言うことが出来無くなってしまっていた。その視線は左手ただ一点に注がれる。そう、左手だ。あのとき、琉歌が構えていたのは右手だったハズだ。
「人の造ったモノなら、人を救って見せろよ、ナノマシンッ!」
琉歌の左手から放たれたのは、全てを灼き尽くす閃光では無かった。記憶にある猛々しさとはまるで逆。淡く優しい光の粒がゴーリアンを包み込む。その光、その熱、幼き日に母親に抱かれていた感触をヒビキの身体は思い出していた。
「くッ……!」
苦悶の表情のまま、片膝を付いてしまう琉歌。当然のことだった。その身体の大半を構成するナノマシンを放出しているのだ、身体を支えることで精一杯だった。
『うごごッ! うごごごッ!』
苦痛に苛まれているのは琉歌だけではなかった。ゴーリアンもまた、響くような唸りを上げ続ける。だが、琉歌の放つナノマシンも動きを止めるだけ、レイを元の姿に戻すには至っていなかった。
「そんな……そんな……イヤだって言ってるでしょッ!」
琉歌は瞳から溢れ出る涙を止めることが出来無かった。ゴーリアンの口元が僅かに動いている。「殺シテ、殺シテ」と言い続けている。そんなことが出来る訳が無い。僅かな時間でも心を絆いだ友をどうして殺めることが出来るだろうか。
「くうっ……!」
だが、現実は非常。先に限界が訪れたのは琉歌の方だった。もはや、一粒足りとてナノマシンを放つことは出来無い。ゴーリアンの影が琉歌へと覆い被さる。このままでは待つのは確実な死。それは琉歌にとっての目的。だが、ここで自分が死ねば次の目標になるのは……。
「陽電子砲……」
ぽつり、とそう一言呟くだけだった。黄金色の光が、砂漠を、岩を、そして生命を斬り裂いていた。
・
「うッ……ふぐぅッ……!」
身体が粘液塗れになるのも構わずに、緑の芝生に四つん這いになっていたのはヒビキだった。それがゴーリアンの体液によるものか、自分から出る涙と鼻水とよだれによるものか、もはや区別は付かなくなってしまっていた。
「ヒビキ……」
だが、琉歌は二の句を継ぐことは出来無かった。どう声を掛けて良いのか解らなかった。いや、どんな美辞麗句で飾ったとしても、すべての言葉は虚しく上滑りするだけだろう。
「どっか行けよ……」
ヒビキは、琉歌の眼を見ることが出来無かった。琉歌がやらなければ、自分が死んでいた。それくらいのことは理解出来る。だが、理性で解っていても、心の奥底から沸き上がるドス黒い感情を押さえることは出来無かった。
「早く、どっか行ってくれッ!」
一度、琉歌を見てしまえば感情は決壊したダムのように溢れ出すに決まっている。例え敵わないとしても、手に持った銃の引鉄を弾くことに躊躇いは無いだろう。
「本当に……ごめん……」
「早く行けぇッ!」
「カブとデンのこと、守ってあげてね……」
それ以上の言葉は無かった。後に残されたのは砂を踏む足音だけ。それも、僅かな時間の後に聞こえなくなってしまう。ただ一人、ヒビキはレイの残骸を頼り無い、虚ろな瞳で眺め続ける。けれど、だからこそ気付くことが出来た。
「ヒ……ビキ……」
その小さな声、耳が痛いほどの静寂の砂漠でその音を聞き漏らすハズも無かった。ヒビキは狂ったかのようにゴーリアンの残骸を掻き分ける。ささくれだった岩肌に手から血が流れても構わなかった。この声が、幻聴でないことを祈った。
そして、祈りは届いた。