序章
序章 目覚め
目覚めは唐突だった。
鮮烈な閃光が網膜を灼き、眼に映るのは清々しいまでの白一色。懸命に瞼を擦るがそんなことで視力が戻るハズも無い。眼にモノが映るようになるまで、ゆうに五分は要しただろう。
「う……」
ようやく眼に入ってきたモノ、直線と曲線が描く幾何学模様。まだ完全に起きない頭ではそう解釈することで精一杯だった。だが、それも僅かな時間だけのこと。眼に掛かった霞も、頭を覆うモヤも、嵐が通り過ぎたあとのように晴れることとなる。だが、モノが見えるということが幸せなことであるとは限らない。
「なんだよ、こりゃあ……」
眼の前には無色透明な、光の反射でかろうじてそこに存在していることが確認出来る天蓋。すっぽりと全身を覆っているようだった。指先でそっとそれを撫でてみる。そのとき、初めて気が付いた。手をじっとりと濡らす何か。いや、身体全体が濡れている。
「いったい、どうなってんの……」
そのまま天蓋を指の腹で押してみる。大した力も必要とせず、すんなりと開く。いや、元々開いていたらしい。兎にも角にも、この狭っ苦しい空間から出ないことには何も始まらないだろう。
「しっかし、気持ち悪いなぁ……」
頭の天辺から爪先まで全身が液体に濡れているとはいえ、真夏に熱いシャワーを浴びたような爽快感は一切無い。眠りに就いた直後に叩き起こされたような、気怠い不快感しか残されていなかった。
「んっ、と」
天蓋を完全に開き、外へと一歩踏み出す。真っ先に、その瞳へと飛び込んで来たのは、何処まで続いているかも解らない真っ白なフロア。その非現実的な光景に目眩まで起こしてしまう。だが、そんな気分の悪さに何時までも付き合っている時間は無い。未だに、何故自分がこんなところで寝ていたのかということさえ思い出せないのだ。
「そう……あたしは……琉歌……龍ケ崎、琉歌……」
ようやく一つだけ思い出せた。だが、それだけ。たった一つ、自分の名前を思い出せただけ。琉歌は、苛立たし気に楕円形の物体、今まで自分が入っていたカプセルを殴り付ける。だが、それで何かが変わる訳ではない。透明な表面に映った顔がこちらを睨み付けているだけだった。
「あたしの顔、だよね……?」
琉歌は自分の頬を両手でぺちぺちと叩き、今一度そこに映った自分の顔を凝視する。蛍光灯に照らされて鮮やかなひまわり色の髪が光を撒き散らしていた。やや釣り上がった藍色の瞳は万華鏡のように複雑な虹彩を放ち、可愛らしい顔貌を際立たせている。その太い眉、生来の気の強さを感じさせる。間違い無い、毎日見続けていた自分の顔だ。
「あ、なんだあたし、はだかじゃん」
ここでようやく気が付いた。下着すらも着けていない、一糸纏わぬ姿だった。染み一つ無い白雪のような肌に、幼い容姿に似合わない豊かな胸が揺れる。だが、琉歌はその柔肌を隠そうともしなかった。このだだっ広いフロアには、自分の他誰もいないのだから当然だ。だが、そんな怠惰な一時も唐突に終わりを告げる。
「だ、だれッ!?」
その問い掛けに答えは無い。だが、今そこにある危機は明白。獣が唸るようなその音は、このフロアですら揺るがす程だった。琉歌は自分の胸と秘所を大慌てで覆う。白い肌は、今や本能が知らせる恐怖で真っ赤に染まっていた。
『ぐるるるるる……』
何も存在していなかったハズの其処から影を這い出るようにして現れたのは、一頭の獣だった。そのしなやかな身のこなし、猫科の巨大獣であることは間違い無いだろう。だが、獣と呼ぶには有り余る違和感。その体を覆っていたのは毛皮ではなく、鋼鉄の装甲。黒光りするその四肢から放たれる圧倒的な威圧感。このサイズならば、生身でも少女一人を喰らい尽くすことなど造作も無いことだろう。それが、鋼の鎧まで纏っているのだ。もはや、数秒後に死が訪れるのは明らかだった。
「あ……あ……」
琉歌は身体を隠すことも忘れて、ただ立ち竦むことしか出来無かった。当然だろう、眼の前には、見たことも無い怪物。確かに、動物園でライオンや虎なんかを見たことはある。だが、それは檻の外、絶対に安全な地帯から眺める娯楽。この獣と、琉歌の間を阻むモノは何も、無い。
『ぐるるあああぁッ!』
「……ッ!」
その咆哮、確実に迫り来る死そのもの。絶望的な生命の断絶を前に琉歌の意識は驚くほど鮮明なモノとなっていた。走馬灯とでも言うべきか、獰猛かつ俊敏であるはずの、獣の跳躍は琉歌の眼にビデオのスローモーションのように映っていた。
『ごうあぁぁぁッ!』
獣は、その渇きにも似た飢えを癒やすべく琉歌へとその牙を突き立てる。身体と同じように鋼鉄で構成された牙に、琉歌の腹は喰い破られ臓物を引き摺り出され数分のうちにその胃袋に収まってしまう、ハズだった。
「え、あ……生きてる……?」
その意外な現実に琉歌は眼を白黒とさせる。それは、この獣も同様だった。人間の骨くらいなら容易く砕いてしまうハズの牙は、琉歌のか細いただ一本の腕に阻まれてしまっていた。
「くッ……このおッ……!」
まだ、生きている。ならば、生き抜く為にその生命を燃やし尽くす。琉歌は頭でなく身体でそう理解していた。全身の筋肉という筋肉が凝縮し、その腕に鬼神の如き力が宿る。あとは何をすればいいか。簡単なことだった。
「うおおおりゃぁぁぁッ!」
全身の力を持って、思いっ切りぶん回す。ただそれだけのことだった。だが、それ故に十二分な破壊をもたらす。真っ平だったハズの床は数メートルもあるクレーターへと無残にその姿を変え、その底にはあらぬ方向に首がへしゃげた獣が力無く横たわっていた。
「なんだよ、なんなんだよ、こりゃあッ……!」
琉歌の眼を占領するのは、もはやモノ言わぬ獣ではない。変わり果てた自分の腕、だったモノだ。牙が突き立てられた痛々しい傷痕。だが、其処から覗くのは鮮血の赤ではない。眩いほどの銀色が、琉歌の瞳を苛んでいた。
「どうなってんのよ、これぇッ……!」
骨も、肉も、全てが鮮やかな銀。しかも、傷口はみるみるうちにその幅を狭め、肌色を取り戻してゆく。全てが、全てが理解不能だった。しかし、これは現実。紛れも無い現実……。
「くそぉッ!」
苛立ちを、混乱を紛らわせる為か、思いっ切り床を殴り付ける琉歌。その拳は貼られたタイルをぶち抜き、コンクリートを抉る。少女の腕から生み出されたとは思えないほどの剛力だ。それが、ますます琉歌の混乱を深める。
「くそッ! くそッ! くそぉッ!」
琉歌がフロアのあちこちに大穴を開けるのに、数分も掛からなかった。さすがに息が切れ、その胸が激しく上下するようになってようやくその場にへたり込む。だが、ゆっくり落ち着いて考える、なんて時間は琉歌には用意されていなかった。
「ッ!?」
それは、風と呼ぶには生易し過ぎる衝撃だった。頬を熱が掠める。触れて確かめるまでもない、鮮血が白い肌を彩っていた。
「だれッ!」
頬を苛む激痛、漫画やドラマでしか見たことは無かったが、おそらくは弾丸が掠めたのだろう。銃弾を放つ、明らかに敵意を持った行為だ。だが、そうすることが出来る、考えることが出来る存在が此処にはいるということだ。だからこそ、琉歌は呼びかけるしか出来無かった。
「だれか、いるんでしょッ!」
琉歌は叫んだ。叫ぶしか無かった。この気が狂いそうな空間の中で、意思を持った何者かがいるのならそれに縋りたかった。だが、琉歌に差し伸べられたのはそんな救いの手では無かった。それは敵意。いや、殺意。
「なッ……!」
じりじりとした感情が琉歌の額を焼いていた。だからこそ、動くことが出来た。もし、殺意も無く狙われていたならば、琉歌の端正な顔には大穴が開いていたことだろう。事実、白い床には琉歌の腕ほどもある穴が抉られていた。
「むざむざとッ……!」
琉歌は走った。殺気の濃ゆい方向へ。ぎゅっ、と眼を凝らす。数百メートルも先だろうか、何も無かったハズの空間に僅かな歪みが見える。それは、明らかに人の形をしていた。
以前、テレビで見たことがある。人体を蝕む放射線が蔓延する場所で、生命をつなぐことが出来る防護服だ。
「なんとか言えぇッ!」
何も言わず、ただ殺気だけを飛ばすそれに琉歌はヒューズの焼き切れそうな激高を感じていた。モノ言うモノが存在しない真っ白な世界でようやく見つけた言葉を交わせる存在。だが、交わすのは言葉ではなく銃弾だけだ。
「こんの、野郎ッ!」
距離はもう殆ど無い。何か、科学的な処理を施しているのだろう。その姿はテレビに映るノイズの様に不安定なものだった。何故自分の眼に見えてしまうのか、琉歌には解らなかった。だが、そんなことは些細な問題だった。コイツを締め上げる他には、この狂った現実のことを知る術は無いのだから。
「くッ……!」
岩をも鋼をも砕く琉歌の拳が易々と止められていた。防護服を纏っているとは思えない俊敏さ。だが、ここで止める訳にはいかない。何でもいい、何か一つでも聞き出さなければ。
「このッ! このッ!」
琉歌はありったけの力を込めて数十、いや数百の拳を繰り出す。その一撃一撃が死へと至る一撃。だが、その悉くが軽々と捌かれてゆく。まるで、琉歌の太刀筋を一から十まで知っているかのように。
「どうしても、言うつもりはないみたいだなッ……!」
苛立ちが脳を灼き尽くす。焦燥が身体を衝き動かす。ただ知りたいだけなのに、自分がどうなってしまったか知りたいだけなのに。どうして、この憎ったらしいコイツは邪魔をするのかッ!
「うおおおあああああああああッ!」
琉歌の瞳に閃光が宿った。漲る力、迸る闘気。その右手に圧倒的な暴力が生まれる。これをどうすれば良いか、考えるまでもないことだ。次の瞬間だった。遮る両の手すらも粉々にし、その頭を貫いていた。
「はっ、はははッ! はははははッ!」
仰向けに倒れる防護服を見て琉歌は狂ったようにけたたましい笑い声を上げる。その声だけがフロアに鳴り響いていた。だが、相手を倒したという優越感もそう長くは続かなかった。
「おい、お前ッ……!」
我に帰ったときには、もう遅かった。屈み込み、防護服を揺さぶる琉歌。だが、それが何か言えるハズもない。顔面に大穴を抜かれて生きていられる生き物など存在しないのだから。
「そんな……そんな……」
琉歌の心は真っ黒な闇に支配されようとしていた。獣を殺すのとは違う。意思を持つモノをこの手で殺めてしまった。その行為をしてしまった右手を眺める。だが、そこに在るハズのモノが存在していなかった。
「血が、付いてない……?」
見たくはなかったが、その穴に視線を向ける。除くのは、肉の塊と真っ赤な血液、ではなかった。火花を散らす電子部品。その頼りなさ気な火花が、こんがらがった琉歌の記憶の糸をほんの少しだけ解き解していた。
「コイツ、ロボットか……?」
物心付いたときからそうだったハズだ。遊び相手は機械のお人形たちだった。ロボット工学を研究していた父と、母が作ってくれた玩具たち。だが、それが自分に牙を剥くなどと……。
「とにかく、なんとかしなきゃ……」
そう思った瞬間だった。ただ白一色だったハズの天井に正方形の亀裂が入り、階段が迫り出す。誰が、何の為にこんなことをしているのか、解るハズも無い。だが、悩むまでも無い。琉歌に選択肢は残されていなかった。
耳が痛いほどの静寂。何も言いたくない、何も考えたくない。ただ空白のまま、導かれるようにして階段を昇る。其処に何が待ち受けているか、琉歌にとってはどうでもいいことだった。とにかく、この非常識な現実から逃げ出してしまいたかった。
「あ……あ……」
その瞳に涙があふれる。止めることなど出来やしなかった。在りし日の記憶が、鮮明に蘇る。昇り切った階段のその先にあったものは、見間違えるハズも無い、見慣れた光景だった。
父と共に団欒を過ごしたリビング。母の手伝いをしたキッチン。愛犬と走り回った広い庭。だが、この変わり果てた有り様はどうだ。いったいどれだけの月日が経ったというのか、部屋は荒れ果て、僅かにその面影を残すだけだった。
「なんで……こんな……」
琉歌はただ立ち竦む。何が起こったのか全く解らない。この世界に何があったのか。父は、母は、みんなはどうなってしまったのか。全く、何も解らない。考えることすら出来ない。
「そうだッ、あたしの部屋ッ!」
考えることが出来無いのなら動くしか無い。琉歌は骨組みだけが残った屋敷を一目散に走り抜ける。その爪先が硬い瓦礫を砕いているという異常に気付く余裕もない。この空間で自分が生きたという証を確かめたいという衝動。琉歌の胸にあるのはただその一念だけだった。
「そう、ここを昇れば……!」
屋敷の中央には、嘗ては見事な輝きを放っていたのだろう、螺旋階段がそびえていた。だが、今やその錆び付いた巨体を無残に晒すだけだ。だが、琉歌は躊躇しない。踏み面が軋もうが、手摺が落ちようが、がむしゃらに上を目指す。
「ここ……ここよ……」
分厚い扉には似合わないファンシーなプレート。拙い丸文字で、りゅかのへや、と書かれている。そう、ここは想い出が詰まった自分の部屋。だが、琉歌はドアノブに触れることが出来無い。この部屋がどうなっているのか。大方の予想は付く。だからこそ、見ることに怯えていた。
「でもッ……!」
ようやく意を決したのは三十分も経ってからだった。震える指先でドアノブを握る。開かないでくれ、と祈った。しかし、そんな祈りも虚しく、扉は軋んだ音を立て、僅かな抵抗も見せずにすんなりと開いてしまう。
「そう、だよね……」
悪い予感の通りだった。一階と同様に荒れ果てたかつての我が部屋。琉歌はただ茫然と立ち尽くすだけだ。寝っ転がって少女漫画を読んだベッドはシロアリに喰い尽くされ、親友たちを撮った写真は色褪せ、その輪郭を留めるだけだ。そう、もうこの世界には、愛すべき家族も、友も存在していない。非情な事実が琉歌の胸を鋭い刃のように突き刺す。
「あ……」
絶望する琉歌の眼に留まったのは、壁際に置かれた洋箪笥だった。想い出の中ではビビッドな色調で部屋を彩っていたハズ。しかし、今では他の家具と同様、その色を失っている。だが、その中身はどうだろうか。
琉歌は、もう居ても立っても居られなかった。箪笥の前に座り込み、覚束ない手付きで取っ手を掴もうとする。だが、興奮と、期待が入り乱れ上手く掴むことが出来無い。ようやく開くことが出来たとき、どれだけの時間が経っていたか、琉歌はもう意識することすら出来無かった。
「あった……あった……」
涙で滲んだ瞳でも、その色は鮮明だった。お気に入りだった、ひまわり色のキャミソール。黒のチェックが可愛らしいフレアスカート。リボンとフリルが彩るブラとパンツ。一つ一つ、慈しむようにして身体に重ねてゆく。このままパーティーに出てもおかしくないおめかしだった。しかし、この荒廃した世界に於いては滑稽という言葉しか似合わない。
「あ、これ……」
引き出しの底で指先に当たる感触、明らかに衣服の類ではない。その硬く滑らかな質感に、琉歌は懐かしささえ覚える。
「これ、ママのタブレット……」
それは、琉歌の顔ほどもあるタッチパネル式の情報端末だった。母親が使っていた頃と変わらない形だが、あれからどれくらいの時間が経っているのか、バッテリーが生きているとは思えない。しかし、この世界に母との繋がりはもうこれしか残されていないかもしれない。恐る恐る電源ボタンに触れる。予想に反して、軽快な電子音と共に黒かった画面は眩く光を放つ。
『ママよ。久し振りね、琉歌』
「ママ……ママ……」
恋焦がれるほどに聞きたかった声だった。琉歌は腹の底からこみ上げる嗚咽を抑えることが出来無かった。しかし、母の口から紡がれる言葉は、その溢れ出す感情の堰となるのに十分だった。
『琉歌、落ち着いて聞いてほしいの。あなたがこれを聞いているということは、残念だけど、ママはもうこの世にいないと思います』
「う……」
解っていた。けれど、考えないようにしていた。しかし、母の口から直接聞けば、もう否定する訳にはいかない。どうしようも無く哀しいだけの現実が琉歌の胸をズタズタに斬り裂く。
『琉歌、あなたは死に至る、重い、重い病気に罹ってしまったの。現代の医術ではあなたを治すことは出来無かった……だから、ママとパパが研究していたロボット工学、その技術であなたの身体を造り変えたの……』
悲壮な、母の顔だった。きっと生き長らえる為には本当にそれ以外の方法は無かったのだろう。愛する娘の肌に自らメスを入れる。親としてどれだけの苦痛だっただろうか。だが、今の琉歌にその哀しいまでの愛情を理解することなど出来はしなかった。
「三十六層チタン合金の骨格に、人工内臓、リアルな質感を生み出すナノマシンの集合体、ナノスキン……生身なのは脳味噌だけ……あはっ……まるでパーフェクト・サイボーグねッ!」
笑っているのは言葉だけだった。声も、顔も、表す感情は哀しみと怒り。思いっ切り、タブレットを抱き締めたかった。だが、そんなことをすればこのタブレットは粉々に砕けてしまうだろう。そんな人ならざる化物になって、いや、されてしまったのだ。
「ふふ……あははははッ……」
狂ったかのように笑い声を上げる琉歌。その口元から覗く八重歯が哀しく光る。こんな世界でたった一人、どうしろというのか。いや、聞くまでもない、琉歌はもう答えを決めていた。
「ママ……パパ……」
カーテンであった布の切れ端を、天井からぶら下がった電灯の成れの果てに引っ掛ける。それを自分の首に掛け、踏み台にしていた瓦礫を蹴っ飛ばす。何処からどう見ても首吊り自殺だ。だが、誰が琉歌を責めることが出来るだろうか。こんな世界に機械の身体で一人生きてゆけ、というのか。例え、それが父母の願いであったとしても、それを叶える活力は、もはや残されていなかった。
「もうすぐ、そっちに……」
もう、我慢することなど出来はしなかった。ありったけの力でタブレットを抱き締める。万力のような力で、タブレットは容易く砕け散ってしまう。この世界に於いて母との唯一の繋がりであるタブレットを抱いて死ぬのだ、違う場所に逝かせるなどという意地悪を神様がするはずは無い。そう琉歌は信じていた。
「う……」
くぐもった声。縄が気道を潰し酸素の供給が絶たれる。数分もすれば、薄っすらとした微睡みの中で、琉歌の生命活動は確実に停止する、ハズだった。
「死ねねえよッ!」
それは、まるでコントのツッコミそのものだった。縄は頼り無く千切れ、琉歌は尻もちを付き、すぽとんと滑稽な音を立てる。今や、琉歌は自分で生命を断つ自由さえ奪われてしまっていた。
この後も、何から何まで試してみた。屋敷で見付けた拳銃でコメカミを撃とうともした。二階から飛び降りてもみた。しかし、そのどれもが父と母がくれたこの肉体の高度な性能を教えてくれるだけだった。
「どうしても、生きろ、っていうのね……」
琉歌は怨念にも似た呟きを漏らす。だが、こんな世界であろうとも生きていて欲しいという父母の切なる願いをどうして責めることが出来るだろうか。だが、琉歌の胸に生まれた思いは、その父母の思いを踏み躙るモノだった。
「死んじゃるぅ……絶対に死んじゃるぅッ!」
俄に、琉歌の顔に生気が漲る。幼少の頃からそうだった。困難が眼の前に立ちはだかったなら、全力を持ってこれをぶち破る。そういう激烈な気性の持ち主だった。だが、今回ばかりはその気性が悪い方向に向かってしまっていた。死を生の目的とするという矛盾に、琉歌はまだ気付けていない。
「とにかく、誰かを探そう。どこかにあたしを殺せる人がいるはず」
琉歌の眼にもう迷いは無い。例えどれほど後ろ向きなモノであろうとも、目的は活力を与える。カーテンの残骸を引き千切り、その身体に巻き付ける。ちょっとした外套のようだった。
「おらよっ、とッ!」
琉歌は勢いを付けて二階の窓から飛び出す。外套代わりのカーテンがふわりとはためき、照り付ける太陽の色と同化する。ザクっ、と心地の良い音。細かい砂利が足裏に纏わり付く。
「しかし、ひどいもんだな……」
なるべく見ないようにしていたが、さしもの琉歌も絶望に打ち拉がれる。屋敷から一歩飛び出せば、眼の前に広がるのは草一本も生えない不毛の荒野。かつては高度な文明がその春を謳歌していたのだろう、だが今となっては巨大な建築物の残骸が天を衝くだけだった。
「けど、行くさッ! どこまでもなッ!」
琉歌は、一歩一歩、確かめるようにその歩を進める。その足跡も、僅かな時間の後に消えてしまうだろう。この世界と同じように、自分が存在していたという痕跡は残せないかも知れない。それでも琉歌は、前へ前へと進む。この先に何が待ち受けているか、琉歌にとってはどうでも良いことだった。