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それを帽子屋はすぐに気が付いて、こうやってパラソルを用意してくれたということは、たった一日共に過ごした彼女のことを良く見ているということであった。
「もう一つ、これは言ったら帽子屋が怒るかも知れないが、今日のブランチだって結構気合い入ってたぞ?」
誰もいない庭で眠りネズミがアリスへと耳打ちする。
「勿論、アリスを歓迎するために」
眠りネズミのテナーボイスが直に耳元から聞こえ、思わず肩を竦ませたアリスに丁度やってきた帽子屋が駆けよって来る。
「おい。てめぇ、何してやがんだよ!?」
「ん?イイコト?」
「殺すぞ」
アリスからは直に見られなかった帽子屋はすでに着替えていて、上着が昨日とは少し違うコートになっただけで昨日とさほど変わらない格好に、売り物であるらしいあの黒いハットを被っている。
「あれ?出かけんの?」
「俺はお前にみたいに暇じゃあないからな」
帽子屋の憎々しい嫌みも眠りネズミには聞き慣れているのか、気を悪くした素振りも見せずにニヤニヤとしながら言い返す。
「帽子屋のだ~いすきなアリスを放っておいて?」
「てめっ、本気で猫の餌にするぞ」
「冗談冗談」
殴りかかりそうだった帽子屋に対して、眠りネズミは失笑しながら降参の意味で両手を上げる。
「まっ、お仕事なんだろ?
頑張ってこいよ」
知っているならからかうな、と非難の視線を浴びせた帽子屋に眠りネズミは知らんふりで肩を竦める。
「念のために言っておくが、間違ってもアリスに手は出すなよ?」
それだけ言ってコートの嘘を棚引かせながら、家を後にしていた。
眠りネズミは目を瞬かせて、アリスを見る。
彼女は眠りネズミと目が合うと、ぷっと吹き出した。
「ほら、ね?
まるで娘を取られまいとか心配する親バカみたいだろ?」
「確かに」
「アリス」
笑っていた眠りネズミが途端、真剣な声色で彼女を呼んだ。
アリスはその声に幾度が目を瞬かせながら、眠りネズミへと向き直る。
「あんまり考えすぎるなよ。
お前さんが難しく考えたり、心配する必要はないさ。
なんせ、これは
‘アリスのための物語’
なんだから・・・」
「え、それって・・・」
ポンと置かれた眠りネズミの手と何か引っかかる言い方にアリスは意味を尋ねようと言葉を紡いだが、その前に眠りネズミが立ち上がる。
「さ~てさて、俺達も片づけてそろそろ中に入ろうか。
で、暇つぶしと食後の運動もかねて三月ウサギいじり倒そうぜ~」
どうやら眠りネズミはそれ以上、話す意向を示さないと察したアリスはすぐに頭を切り替える。
「それ面白そう」
アリスは颯爽と立ち上がり、眠りネズミとテーブルの上に残っているものだけ片づけに入った。
数分後、三月ウサギの悲鳴が街まで聞こえて来たそうな・・・。
そうして昼下がり、眠りネズミは私室で昼寝に入り、アリスと三月ウサギはまるで追いかけっこをするように家中を走り回って末に疲れ果て、リビングのソファーでお互い突っ伏していた。
「もうお前、僕の視界に入るな・・・」
疲れ果てた三日月ウサギは蚊が鳴いたような声でアリスに訴える。
「ごめん、私もさすがに限界・・・
調子に乗り過ぎたわ・・・」
「わかれば・・・いいんだよ・・・」
お互いの荒い息が整うまでの長い沈黙が訪れた。
うつ伏せに突っ伏していたアリスは、ふと仰向けになって天井を眺める。
「三月ウサギさんってね」
「なんだよ?」
切り出したアリスに三月ウサギは怪訝そうに顔だけアリスの方向へと向けた。
「帽子屋さんや眠りネズミさんと知り合って長いの?」
「なんで、そんなこと聞くんだ?」
「これと言って意図はないんだけど・・・」
「じゃあ、聞くなよ」
三月ウサギの言葉にアリスはそれ以上食い下がれずに黙り込んでしまい、食い下がって来るものだと思っていた三月ウサギはため息の後、続けた。
「帽子屋とは10年。
眠りネズミとは数えるのも面倒くさいくらい長いよ」
「え!?そんなに!?」
「ああ。だからお茶をしても楽しくないし、話す内容もない」
そう三月ウサギは不機嫌そうにいった。
「ということは、ここに来てからそれ以上経つってことだよね?
辛くないの?私は来てからこんなに親切にして貰って勿体ないくらいだけど・・・」
「なんだ。一応は恵まれてること自覚、あるんだ?」
「まぁ、一応は・・・」
先ほどまで、眠りネズミに相談していたこともあって、アリスは頷いた。
「へぇ。まっ、僕は別に辛くはないけど、楽しくもないね。
毎日、同じ温かい天気、同じ時間に日が昇って沈む。
いつも振りだしに戻ってる錯覚に気が狂いそうになるけど。いや・・・」
明るく、まるで誰か大切な人の愚痴を言うように三日月ウサギはアリス同様、仰向けになりながら言った。
途中で区切られた言葉にアリスは耳を傾ける。
「この不思議の国の人間は、みんな・・・狂ってるのかもね」
「それって・・・」
「だってさ」
よいしょ、と一声出しながら三日月ウサギは起きあがる。
「こんな所に閉じ込められて、気がおかしくならない方がおかしいよ。
そんな人間がいるなら紹介してほしいくらいさ」
「そういうもの、なのかなぁ?」
「そういうものだよ」
沈黙。
突然、アリスは飛び上がった。
「待って!
ということは、三日月ウサギさんって何歳!?
私より随分年下だと思ってたけど」
いきなり飛び起きたアリスに三月ウサギは必要以上に驚きを示し、防御態勢に入った。
ついさっきまで追いかけまわされていた名残であろう。
「びっ・・・くりするなぁ」
「あ、ごめん」
素直に謝ったアリスに三月ウサギは一度、ため息をついて続けた。
「別におかしくないだろう?
ここは時の狂った、というよりもとりあえず理論では説明つかない空間なんだ。
そしていつも5月4日。
その設定が守られる限り、精神的には年月が経ったつもりでいても、肉体はいつも振りだしに戻ってる」
「ん~、つまり不老不死?」
「まさか。
それにこんな場所で不老不死なんて・・・、死んだ方がマシだよ」
呆れて吐きだすように告げた三日月ウサギは立ち上がってキッチンの方へ足を向けた。
「僕はジュース飲むけど、なんかいる?」
「あ、じゃあお水で」
一応、尋ねてくれた三日月ウサギの言葉が嬉しくて、思わずアリスは微笑む。
その表情に三日月ウサギは何とも言えない、嬉しそうで嫌そうな表情を交互に作るとキッチンへと向かった。
それからはひたすら沈黙が流れる。
「暇だね~」
アリスが誰となく呟く。
否、一応三月ウサギに向けられてはいつのだが、三月ウサギはウンともスンとも答えない。
「ひ~ま~。
暇すぎて溶けるぅ~」
しまいにはソファーの狭い場所でゴロゴロ転がり始めた。
と思いきや、またしても飛び上がる勢いで状態を起こした。
「ねぇねぇ!街案内してよ!」
「はぁ?嫌だよ」
まるで特許でも思いついたように顔を輝かせながら言ったアリスの言葉に三月ウサギは彼女を見ずに、しかも間髪いれずに断った。
「なんで!?」
「いや、なんで僕がアンタに付き合わなくちゃなんないのさ」
「だって・・・」
「だからそんな顔しても可愛くないから!」
本当に付き合う気がないらしい三日月ウサギはアリスを尻目に立ちあがって、リビングを出て行ってしまった。
一人のリビングに沈黙が訪れる。
一日半で色んなことが起こって、たった一日半でなかった思い出が沢山詰められた。
思い上がりなのかもしれないが、とアリスは自分を制するように前置きを置く。
「アリスの為の物語、か・・・」
その言葉が全くそうかのように昨日からまるでワンダーランドに招待されたように感じていたのだ。
「そうして主人公は知らない国に多くの仲間の協力で真実の自分を探し出す・・・なんて、ね」
漠然とした不安の中、彼女は独り言を呟いて、乾いた笑いを幾度か上げた。
リビングにあるこの家に存在するたった一つの時計はもうすぐ3時を迎えようとしている。
暇だとは言っていたが、正直体力的には疲れていた彼女はソファーに寝転がりながら微睡み始めた。
―――ダメですよぉ?無防備にそんな可愛い寝顔を曝しちゃあ・・・―――
特徴のある声と喋り方。
しかしアリスはその声の正体を確認する前に意識は闇に飲まれていった。