帽子屋とケーキと
「ただいま~」
日は目の前に見えるくらい傾き、赤く輝きを滲ませている。
気分良く応接間の扉を開いたが、そこには誰もおらず、アリスは首を傾げた。
この家は応接間しか場所を知らない。
困った彼女は他の部屋へと足を向ける。
玄関の先のホールから、向かって右側が応接間と上へと上がれる階段、左側には廊下があって、二つほど部屋がある。そし前方には扉が一枚。
この先がリビングなのだろう。
アリスはそっと開くと、ふんわり美味しそうな香りが鼻につく。
「あれ?帰ってきたの?」
扉を開けてすぐ左手前にはキッチンがあり、そこには黒のエプロンを腰に巻いた眠りネズミがいた。
キッチンカウンターを挟んだ奥には木造のシンプルな4人掛けの食卓テーブルが視界に隅に窺える。
「うん。帽子屋さんは?」
「あ~、あそこ」
苦笑気味に差された方向はキッチンと食卓テーブルが方向から全般的に左側。
2人暮らしには随分広いリビングで、中央には見るからにふかふかそうなベルベッドのベージュのソファーが二つL字に並び、応接間を同じように一人掛けのソファーも隣側に並んでいる。
眠りネズミの指先に沿って、後ろ側を振り返った彼女の視線の先。
ソファーの一角に帽子屋がいた。
背を向けているのにも関わらず、彼の周りには目に見えそうなくらい黒い不のオーラが漂っている。
「あれ・・・、どうしたの?」
思わず顔を引きつらせて半身を逸らすと眠りネズミは失笑。
失笑は何かを誤魔化すための、この男の癖ではないのか。しかしそこに悪意はないように捉えられる。
「まぁ・・・色々と、ね。
それより晩御飯どうする?パスタだけど・・・」
「あ~、さっきケーキ食べてきちゃったからなぁ」
アリスの惜しそうな声に、眠りネズミは彼女が持っている包みを見た。
「あぁ、なるほど。チェシャのやつか。
まだ夕方だし、日が暮れて腹が減った時にするか。
アリスちゃん、それ帽子屋に持っていってあげなよ。
じゃあ、すぐ機嫌もなおる」
―――甘党の帽子屋サンは喜びますから―――
チェシャ猫の言葉を思い出した。
アリスはゆっくりと帽子屋の方へ、忍び足で近寄ると、ソファーの前にあるテーブルにそっと包みを置いた。
すると帽子屋は今日で一番機嫌の悪い顔(おそらく悪党に間違われてもおかしくない)でアリスを見る。
視線を感じた彼女は思わず身を引きそうになったが、臆せずに包みを開け、帽子屋にそれを見るように指さす。
恐る恐る帽子屋の表情を窺うと、彼の表情はミリ単位ではあるが、普段の表情に戻って行った。
「私、フォークとお皿もってくるね!」
その場を逃げ出すようにキッチンへ向かうと、既に笑いをこらえている眠りネズミはフォークと皿一セットを用意していた。
「いやぁ、沸点の低い友人を持つと大変でね。
アリスちゃんがいて良かったよ」
「もしかして帽子屋さんの機嫌取りに私を使ったのね?」
「まぁ、怒るなよ」
フォークと皿を受け取ったアリスは明らかにむくれた表情を作ったが、眠りネズミはそれを宥めるように微笑んだ。
納得いかない様子のアリスであったが、すぐに帽子屋の元へ戻ると皿とフォークをテーブルに置く。
そこに紅茶をトレ―に乗せた眠りネズミがやってきて、3人分の紅茶を注いだ。
「俺は人の淹れた紅茶は嫌いだ。
それにどうせこれもバカ猫が持って帰らせたケーキだろう」
まるで機嫌を直すまいと意地を張る子供のように帽子屋がぶつぶつと呟く。
「ほら、アリスも戻ってきたんだし、良い子だから甘いものでも食べて機嫌直せよ」
「子供扱いするんじゃねぇ!」
俯いたままの帽子屋の頭をポンポンと撫でた眠りネズミの手を払い、声を荒げたが、目の前のアリスと目があうと、そっと横に視線を逸らした。
「ったく・・・」
切り分けられたケーキは5種類ほどあり、一つに帽子屋がフォークを刺し、口に運ぶとなんとも言えない幸せそうな表情をした。
それをアリスは見て、目を丸くした後、失笑しそうになったのを慌てて抑える。
「ん?」アリスの異変に帽子屋は眉間に皺を寄せて、彼女を見るが、慌てて表情を保った甲斐あって、なんともなかったように首を傾げて誤魔化すことに成功した。
「で?バカ猫に何聞いてきたんだ?」
「え~っと」
アリスは目を斜めに泳がせて思い出してみるが、これと言って思い浮かばない。
「あれ?特別ないかな?」
「はぁ?」
「だって、帽子屋さんから説明してもらったことを言って・・・
あぁ!名前と過去・・・つまり記憶を見付けること以外にもこの世界から出られる方法があるって」
「へぇ~、初耳だなぁ」
間髪いれずに眠りネズミの驚きの声が介入したが、何故かふとアリスはその声色に違和感を感じた。
「知ってたか?帽子屋」
「・・・いや、初耳だ」
「そっか~。帽子屋さんか眠りネズミさんなら知ってるかなって思ったのに・・・」
一応、取り繕うようにそう返答しながら肩を落とすが、違和感は心の隅に引っかかっている。
「その前に知ってたら、俺達もうここにはいないからね」
最もな眠りネズミの言葉にその違和感はゆっくりと姿を消していった。
アリスは一瞬感じた違和感を追っていると、帽子屋の声がそれを阻むように続ける。
「他は?」
「他は~・・・チェシャさんには2人が見えない設定になってる、とか?」
「ああ、あるな。そういうわけのわからん設定」
既に2つ目のケーキに突入した帽子屋が呆れ声で頷いた。
「そんなところかなぁ」
アリスはほんの少しだけ流し目で言う、
曖昧な答えと、その訳。
アリスはどうしてもその話を切り出せなかった。
チェシャ猫の言い方から、何かを隠しているのかもしれない、という予感もあったがどうやら、彼らは何かをはぐらかすのは得意のようだ。
どうせ聞いてもはぐらかされる。
本日二度目の同じ諦念を感じながら、フォークを止めない帽子屋を一瞥する。
「帽子屋さん。そんなに食べて大丈夫?」
晩御飯が入らないんじゃあ、と続けようとしたがその前に眠りネズミが、「これが帽子屋の主食みたいなものだから」と答えた。
「それより、お前。
いつまでそれ被ってるつもりだ?」
帽子屋はフォークでアリスの頭部を差した。
「あ~、忘れてた」
帽子屋の機嫌取りでそれどころではなかったアリスはそっと頭から花冠を外し、初めてちゃんと視界に入れた。
「うわぁ、今初めてちゃんと見たけど、凄く綺麗!」
白詰め草を沢山集めた中央に赤とピンクの2輪のバラがポイントされた可愛らしい花冠であった。
「まぁ、チェシャだけは女性を喜ばせるのが上手いからな」
眠りネズミも感心した様子で幾度か頷く。
「大きな皿に水張ってやるから、そこにでも浮かしておけばしばらくは持つ」
ソファーから腰を浮かせた眠りネズミはキッチンへと向かい、アリスもその背を追いかけ、キッチンカウンターの上にその花冠を飾った。
「おいおい、帽子屋。
ほんとに晩飯食わないつもりか?」
3つ目のケーキに手を出す帽子屋を見て、眠りネズミは呆れながら尋ねると、帽子屋はフォークを3つ目のケーキに刺す前に手を引いた。
「そうだな。明日に取っておくか」
どうやら不機嫌も大分収まった帽子屋が意外とあっさりケーキから手を引いたのを見て、アリスは少し目を瞬かせ、ソファーにゆっくりと腰を降ろした。
「そう言えば、この家って帽子屋さんの家じゃないの?」
「あ?ああ、一応俺の家だが、今はコイツと住んでる」
帽子屋は親指で彼の隣へ腰掛けた眠りネズミを差した。
「三月ウサギさんは?」
「アイツは城の近くに自分の家を持ってる。
コイツも自分の家はあるんだが・・・」
「まぁ、俺一人だとずっと寝てるから、いつか死ぬって帽子屋が心配してなぁ。
こうして住まわせてもらってるわけ、だ」
帽子屋が横目で眠りネズミを見やり、言葉を繋げた眠りネズミは情けなさそうに笑った。
「まぁ、三月ウサギはそのまま家に帰るだろうよ」
アリスの考えを読んだように帽子屋が付け足す。
「そっか~。残念」
「アリスちゃんは三月ウサギのこと気に入ってるみたいだなぁ?」
眠りネズミはカップを手に取り、傾かせたりしながら問うた。
「うん、可愛いし」
「そうかそうか」
互いに微笑んだ2人に、帽子屋はふん、と鼻で笑いながら最後の一口を呷り、カップを置いた瞬間、何かに気が付いたように目を伏せた。
「眠りネズミ。ちょっと用が出来た」
途端、立ち上がり、黒ズボンのポケットから金色の懐中時計を取り出し開けて見た彼に眠りネズミは欠伸をしながら「はいよ~」と手をヒラヒラ振る。
「どうしたの?用って?」
「ああ、長~いトイレに行くんだと」
「お前、いつか殺してやる」
眠りネズミの冗談に帽子屋は彼を一睨みして、早歩きで部屋を立ち去った。
「まぁ、帽子屋は陛下のお気に入りの一人だから呼び出されることが多いんだ。
さて、アリス。一番風呂浴びるか?」