チェシャ猫
一瞬にして着いたのは四方が山に囲まれ、前方には広い湖を眺めるコテージであった。
「わぁ・・・」
景色の美しさに感嘆の声が自然と零れおちる。
アリスの反応に満足したチェシャ猫はコテージの庭に設けられた小さなテーブルを挟むように椅子を用意した。
アリスを湖が良く見える方へ勧めると彼女の隣へ立って、テーブルを覆うほどの白いクロスをテーブルへひき、もう一枚同じクロスをさっと被せては「1,2,3」と呟いた後にさっと退けられた。
するとテーブルの上には一瞬にして可愛らしいカップが一脚とポットに小ぶりのケーキの数々。
「すごい!これも魔法みたい・・・」
「そんなに喜んで頂けるとは、光栄の極みです。お姫様」
チェシャ猫は喜ぶアリスの左手をとって、その甲へとキスを落とした。
とても自然な行動ではあったが、アリスの頬は見る見るうちに赤く染まっていく。
「初心だねぇ」
チェシャ猫は一変、からかうような悪戯な笑みを浮かべると彼女の前に座った。
「生憎、私は帽子屋サンと違って珈琲派なんですが・・・
珈琲はお嫌いですか?」
チェシャ猫は問いながらも彼女のカップにコーヒーを注ぐ。
「いえ?私はこれといって拘りはないけど?」
「そう、なら良かった」
ミルクと砂糖の好みを問い、その通りにチェシャ猫は応える。
「あれ?チェシャさんは飲まないの?」
「ええ、私は先ほど飲んできたので・・・。さて」
チェシャ猫はアリスの向かいに腰かけ、一息つく。心地よい風は2人の間を吹き抜けた後舞い上がった。
沈黙を彩る湖が揺れる音、小鳥たちの可愛らしい歌声、かちゃりとカップをソーサーに置く音。
アリスは前の男をちらりと見た。
片目が隠れた顔は神秘的であり、その声色も話し方も腹の底の本心を見抜けないように幾重にも頑丈にカバーされているように思える。
一方で涼やかな態度と物腰の柔らかな自然な振る舞いはまだ彼女を不快にさせたことはないし、今まで出会った誰よりも女性を理解しているようにも思えた。
「どうかしましたかぁ?」
「あっ、いや・・・」
どうやらチェシャ猫を凝視していたようで、首を傾げられたアリスは慌てて言い繕うとするが言葉は出てこない。
そんな彼女に優しく笑いかけ、チェシャ猫は上半身だけ後ろへ振り返ると彼の後ろの大きな湖をさした。
「あの湖は涙の池と言われています~。
この物語の主人公が泣いた涙で出来た湖だとか。
まぁ、涙は塩水ですから涙の海とも表現されるのですが・・・」
へぇ、とアリスは短く返す。
感心から漏れた言葉は湖の由来もあったが、チェシャ猫の気遣いへの感心の方が強かった。
「そして私、チェシャ猫も物語ではアリスに助言をして導く役回りを担ってます~。
どうぞ?あのこわ~い帽子屋さんに聞けなかったこと教えてさしあげますよ?」
チェシャ猫は態勢を元に戻して彼女へと向き直った。
「ん~?でも私に出来ることは名前と過去を取り戻すことしかないって言われたし・・・。
なんかもうわからないことがあり過ぎて、ね」
「自分は一体誰なのか?
どこから来たのか?
何故、こんな所へ来たのか?」
チェシャ猫が彼女の代弁のように言うと、アリスは困ったように笑った。
「最後のそれは・・・私が元いた世界に名前を捨ててきちゃったから、でしょ?」
「おや、それは聞いていましたか」
「ええ。過去と名前を取り戻せば元いた世界へ帰ることが出来る」
アリスの言葉にチェシャ猫は片目を細めた。
それはアリスではなく、違う誰かへと向けられた視線のように彼女は感じた。
「違う、の?」
「いえ、間違ってはいませんよ?」
先ほどの表情が嘘だったかのように、チェシャ猫の片目は弧を描いた。
「ただ、それはあまりに曖昧で・・・残酷な答えですねぇ」
「え?」
再び、一変。
今度は目だけではなく、声色も何かしら言葉に出来ない畏怖感を漂わせていた。
アリスは二の句を告げることが出来ず、前の男から目を逸らすこともままならない。
しかしチェシャ猫は何もなかったように、小さめのナイフを取り出して、ケーキを切り分けると皿に乗せて彼女の前へ差しだした。
「あ、ありがと・・・」
明らかに動揺を帯びた声にチェシャ猫は椅子に凭れかかり、足を組む。
「申し訳ありません。人をからかうのは趣味でして・・・」
くつり、と喉を鳴らしたチェシャ猫を、アリスは目を丸くした後に一睨みした。
「まぁ、しかし。私が言ったことは冗談でもありません。
その先を、アナタは聞きましたか?もし・・・
取り戻せなかった場合、の話」
チェシャ猫は言葉の最後を焦らすような、強調するような言い方をした。
アリスはその論調に少し首を傾げて、頼りなさげに返答する。
「ただこのまま5月4日が繰り返される、みたいなことは言ってたけど・・・」
「ほうほう。全く、帽子屋サンは曖昧な答えがお好きなようですねぇ」
「さっきから曖昧って・・・」
会話に集中してケーキにも珈琲にも手をつけていない彼女を見て、チェシャ猫は先にそれを勧めた。自身も組んでいた足を組み直し、空を仰ぐ。
「ひとつ良いことをお教えしましょう」
珈琲を一口飲みながら彼女を頷いた。
「記憶探しは早めに探した方がいい」
珍しく語調を変えて断言したチェシャ猫にアリスは一瞬だけ目を丸くした。
「なんで?」
「勿論、ここからは早く出ることが出来るというのもありますが・・・」
アリスはカップを持ったままチェシャ猫を凝視する。
チェシャ猫は微笑み、
「やはり・・・今度に取っておきましょうかぁ」
彼女は危うくカップを落としそうになった。
「そこまで言っておいて!」
「アナタがもう少しこの世界に慣れてからにしておきますよ~」
からかうように薄く開かれた瞳に、アリスはそっぽ向きながら言う。
「いいよ!帽子屋さんかそこらへんに聞くから!」
「いえいえ、帽子屋サンたちは教えてはくれませんよ」
話し方は相も変わらず丁寧であったが、彼女の言葉はすぐに反駁された。
その素早さにアリスはきょとん、とした顔つきで尋ねる。
「なんで?」
「さぁ?だって臆病な帽子屋サンに眠ってばかりの眠りネズミ(ヤマネ)サンですから」
「答えになってないんだけど・・・」
求めた答えをはぐらかされ、アリスは自棄になってケーキを口に放り込んだ。
「なんか、ヒントとかないの?
記憶を探すヒント、みたいなもの」
皿にのったケーキを食べ終えて、アリスは皿をチェシャ猫に差しだしながら尋ねた。
チェシャ猫は当然のように差しだされた皿に他の種類のケーキを切り分けて乗せると、彼女の前へと置く。
「そうですねぇ。
なかなか難しーかもしれません。私も記憶を取り戻した不思議の国の住人は見たことありませんから」
「え!?それって本当にちゃんと見付けられるんだよね!?」
「はい、それは間違いなく。
ちゃんとこの国から出た人もいますし」
食い違う話の内容にアリスは首を傾げる。
「つまり・・・
記憶を探す他に、この国を出る方法がある、ってことよね?それ」
「おや~、随分とアリス君は聡明でいらっしゃる」
「バカにしてる?」
明らかに棒読みで馬鹿にした風なチェシャ猫の口調にアリスは眉根を寄せて睨んだ。
「いえいえ。まぁ、ないこともないようですが。
生憎、私はその方法を存じておりません」
「な~んだ」
アリスはチェシャ猫なら知ってるという読みが外れて、少しだけ肩を落とした後、再び、珈琲とケーキを交互に口へ入れる。
そのささやかな沈黙に風がチェシャ猫の首の鈴を鳴らした。
「そのチョーカー。
なんだかアナタには不釣り合いね?
後ろで髪を束ねている大きな赤のリボンもそうだけど」
「あ~、これは・・・」
アリスの問いに少しだけ言葉を詰まらせた後、チェシャ猫は少しだけ今までと違った優しい顔付きをして言った。
「私の大切な人からの贈り物なんです」
チョーカーに鈴、リボンとは少し変わった贈り物だ。
アリスは首を傾げる。
「贈り物?リボンは分かるけど、そのチョーカーについてる鈴も?」
「ええ。私が彼女の所有物である証です」
まるで違和感なくいうチェシャ猫の言葉にアリスは「ふぅん」と生返事を返したが、ちゃんと考えなおしたそこ言葉に露骨に引いた表情を表した。
「ねぇ、チェシャさんって。変な趣味の持ち主?」
「さぁ?」
肯定も否定もしない。別にそう思われてもいいと思っているのだろう、ということと、からかいの念が良く分かる。
「帽子屋さんが嫌う訳、わかる気がする」
「傷つきますねぇ」
全く傷ついていない表情で、彼女がそういう表情すら面白がってチェシャ猫は笑いを殺しながら答えた。
アリスはケーキを食べていたフォークを空になった皿に置き、「ごちそうさま」と一言。
「おや?まだ沢山残っていますが?」
「こんなには食べられないよ」
「では持って帰られますか?
今、用意しますね?」
彼女の意見も聞かずにチェシャ猫はさっさと立ちあがって、コテージの方へと行ってしまう。
アリスはそんなチェシャ猫の背を見送ったあと立ち上がり、湖の方へ続く緩やかに下る丘陵を数歩歩いた。
知らない空、知らない緑、風、そして風が運ぶ大地の匂い。
目に入る全ての景色。
自分が知らないこの世界の規則。
まるで自分だけがポツンと異物のように投げ出された孤独感が、彼女を急に襲った。
そしてチェシャ猫の言葉と表情が頭の中を反響する。
曖昧な答え。その中身。知りたいようで知ってしまうのが怖い。
アリスは恐怖に両腕を抱きしめた。
風が止まった束の間の沈黙に、ポンと頭に何かを乗せられた。
アリスは何なのかを恐る恐る触りながら振り返ると、そこにはチェシャ猫と頭には花冠。
「どうかしましたかぁ?そんな悲しそうな顔して・・・」
「あ・・・、ううん。花冠?ありがとう」
「さて、帽子屋サンの所までお送りしましょう」
後ろからそっと肩を抱かれ、一瞬にして前の景色が消えたと思えば、前には少し離れただけで、何故か懐かしいと思える家が一軒。
そっとアリスの肩を離したチェシャ猫は何歩から後ろへ下がった。
「あれ?入らないの?」
「ああ、言い忘れていましたが・・・
本来、私は帽子屋サンや眠りネズミ(ヤマネ)サンには見えないって設定になってるんで」
「また設定?そんなの守ってないくせに・・・」
「まぁ、そうですねぇ。
お伽噺ではチェシャ猫は彼らと出会っていないので」
「変なの。まぁ、いいや。ただの設定だし。
ありがと、チェシャさん」
「いえいえ。少しでもアリス君のお役に立てれば光栄ですよ」
優雅で慇懃な礼も、彼を知ってみると薄っぺらく感じるのは気のせいだろうか。
「嘘くさいけど、一応受け取っておく」
アリスは苦笑しながら答えた。
チェシャ猫はそんな彼女を見て、困ったように目尻を下げながら一つの包みを渡す。
「残りものですが、甘党の帽子屋サンは喜びますから」
「ありがとう。チェシャさんって何だかんだ言って帽子屋さんのこと好きだよね?」
「おや?そう聞こえましたか?」
「うん」
アリスは包みを受け取って、家の方へとそのまま歩きだす。
「では、アリス君。
またお会いしましょう」
二コリと微笑んだチェシャ猫にアリスは頷き、背を向けたが、何かを思い出したようにすぐに振り返る。
「そうそう。
前言撤回!チェシャさんって結構良い人ね」
「猫ですよ~」
太陽のように笑ったアリスとその言葉にチェシャは思わず、微笑んで冗談で返した。
またスカートの裾を翻して家の方へ駆けていく彼女はそのまま振り返ることなく、扉の向こうへと消えて行った。
「アリス・・・」
チリンと鈴が鳴り、チェシャ猫の呟きはアリスに聞こえることなく風に攫われた。