青虫の物語
だんろ町、青虫横町。
アリス、帽子屋、眠りネズミの3人は翌日、依然として人影の少なくアリス曰くセンスの悪いその横町へと足を運ばせた。
昨日、眠りネズミ、帽子屋の2人はなんの意図があってか、唐突にこの横町へ行こうと言いだしたのがキッカケだ。
どうやら、アリスが不思議の国に来た初日に訪れた青虫の店へと行くようだ。
昼だというのに静まり返った横町を通り抜け、ダサい看板の前で帽子屋は立ち止る。
アリスはこの所、記憶が戻ったことにより、字が読めることを自覚していた。
店の看板がダサいことに変わりはなかったが、「営業中」と書かれていたことをアリスは知った。
その扉の下げされた札を見たアリスと、ふと帽子屋は確かめるように2人へと振り向いた後、すぐに店の扉を開いた。
アリスが初めて店に来た時とほとんど変わっていない店内。
店構えと違って、センスは悪くないが置いている服も前と変わらない。
この国はいつだって5月4日。
勿論、店が変わっていないくて当然なのだ。
「青虫いるか?」
前回とさほど変わらない不機嫌そうな口調で、バックヤードにいると思われる青虫を呼ぶ帽子屋。
考えられたかのような少しの間の後に青虫がバックヤードに繋がる暖簾のをよけながら出て来た。
「来たのかい?帽子屋の旦那」
「久しぶりだな」
青虫の表情はまるで孫を迎える祖父のそれだ。
手にはいつも吸っている水煙管。
「今日はなんの用だい?」
その言葉を待ってましたと言わんばかりに、帽子屋はアリスを手招きした。
彼の様子にアリスは小首を傾げながらも、ゆっくりとした足取りで帽子屋とその隣にいる眠りネズミの間に歩を進める。
「コイツ、買うんだってよ」
眠りネズミは親指でアリスを指す。
青虫は緩やかに首を随分と横に傾けた。
帽子屋はその青虫に眉を寄せて、
「アリスに卵を一つ」
青虫を真っすぐ見やり、胸元の一指しでアリスを指すと簡潔に言い放つ。
最初は帽子屋の言葉を理解出来ずにいたように硬直した青虫だったが、段々と皺で埋もれた目を大きく見開いていく。
その表情は喜びにも悲しみにも映っていて、アリスを困惑させた。
青虫は帽子屋の意に間違いがないかを確かめるように、ジッと彼を見つめると、帽子屋は微笑を浮かべて頷いた。
「ちょっと待っとれ」
心なしか震えた声で3人に背を向けバックヤードへと戻って行く足が、ふと躊躇いがちに留められ、鼻先が見えるくらいだけ振り返った。
しかしすぐに再び、奥へと消えて行く。
「卵って?」
アリスは漸く両隣の2人を交互に見て、尋ねた。
「まぁ、不思議の国のアリスに則ってちょいとゲームをしててな」
眠りネズミはアリスとは視線を合わせずに、失笑しながら帽子屋を見て答えた。
「まぁ、青虫の物語はこれで終わりってことだ」
帽子屋が付け加えるように言う。
その時、青虫が戻ってきて、何の変哲もないただの卵をアリスに渡した。
不思議の国だから少し変わった卵を渡されるのかと思っていたアリスは拍子抜けしながら、それを受け取ると、帽子屋がアリスに小銭を渡した。
アリスから青虫に渡せ、と顎をしゃくる。
彼女は戸惑いながらも、そっと皺苦茶の青虫の手にお金を置いた。
「お前の勝ちだよ、青虫」
「わしゃぁ、この国が気に入ってたんだがなぁ・・・」
帽子屋が珍しくシニカルな笑みを浮かべ、青虫は惜しそうな声を漏らした。
「変わりもんだな、アンタも。
まぁ、褒め言葉だと思って受け取っておくよ」
帽子屋は帽子を眼深に被り直し、俯いた。
彼なりの挨拶だったのかも知れない。
彼はすぐにアリスの腕を掴んで、数歩下がらせると眠りネズミは青虫の前へと歩み出た。
どこからか真っ黒で華奢な杖を取り出すと、彼にはにつかわない真剣な面持ちで杖をギュッと握る。
「こちらは管理局構成員。審判資格を有するものだ」
淡々とした眠りネズミの声にアリスは記憶を反芻させ、これから起こることを理解したようだ。
彼女はそっと帽子屋を見上げるが、彼は前の状況から一切目を離さない。
「あなたを長の祝福に値する魂と判断した。
よってあなたに過去と名前を返そう」
眠りネズミは杖を青虫の胸へと付き刺した。
しかし、あの老婆の時と同じで青虫の全身は光り出し、表情は満たされたように笑みを浮かべた半面、一層寂しそうな表情へと変わった。
青虫‘だった’老人は目を細めて、ただ帽子屋を見つめる。
帽子屋は老人の目に何かしらの意味を感じて、視線をかち合わせた。
「来世に幸福を。ロビンソン」
眠りネズミが呼んだ言葉に、帽子屋はハッと目が覚めたように眠りネズミを見て、走り出す勢いで前へと出た。
消えゆくロビンソンの手を握る。
「お前・・・!なんで・・・」
帽子屋がロビンソンへ触れた途端。老人だった彼はスラリとした背の高い30前後の男性へと様変わりした。
「君がいるから、ってことにしておこうかな。
僕も今、全部思い出したよ。君のことも、彼女のことも。
そして、君の後ろの彼女は・・・」
ロビンソンは穏和な表情に笑みを乗せて、アリスへとそっと視線を移した。
アリスは帽子屋のただ事ではない行動に驚かされて、目を丸くしている。
「ああ。察しの良いお前のことだ。
わかるだろう?」
「そうだね。君とまた、君の描いた世界で会えたなんて、とてもロマンチックな運命だね。
僕は一足先に逝って待ってるよ。
君と再び、会える日を・・・」
握っていた手が光へと変わり、ゆっくりとロビンソンの姿が溶けて行く。
最期、すっかり消えてしまう前にロビンソンの口が動いた。
何かを呟いたのだろうが、それは声にはならず、ただ帽子屋一人がその呟きを理解したようだ。
眠りネズミはその光を見送り、十字に似たものを切ると、黙祷した。
訳のわからない様子のアリスは、ただ誰かが沈黙を破るのを待ちながら見える二つの背を眺めていた。
束の間の沈黙を破ったのは、帽子屋の小さな笑い声。
右手を顔に当て、俯いて笑っている。
そんな彼の肩をそっと眠りネズミが引きよせた。
いつもならすぐに引きはがす帽子屋も、されるがまま泣き笑いに変わったそれに、背にアリスがいることも厭わずにいた。
アリスにはただ、ロビンソンと呼ばれた元青虫が帽子屋の知人であったこと以外知る由がなかった。
彼女の推測では、随分と親しい仲であったのだろうとしか。
2人の背を見つめて、視線を床に落としたアリスは、そっと扉の方へと振り返って、店を後にした。
眠りネズミはそんな彼女の気配を背に感じながらも止めはしなかった。
「だから、か・・・」
アリスが店を出たのを知った帽子屋は小さく呟く。
「俺があんなに青虫を気にかけていたのは、アイツがロビンソンだったからか・・・」
「そうだな。魂は自然と呼び合う。
深い繋がりがあたのなら、尚更」
「アイツは無事に辿りつけたか?」
帽子屋は管理人ではなくなった。
つまり、今逝ったロビンソンの魂がどうなったのかすらわからないのだ。
「ああ、勿論だ。
俺が昇華したんだからな」
再び、店は沈黙に包まれた。
一方、アリスは店の壁に背を預け、ぼーっと人一人通らない横町を眺めている。
大きなため息が一つ、そっとアリスの髪を撫でた風に攫われる。
先程の光景の一部始終を頭の中で反芻させているアリスは切なそうに目を伏せる。
「あんな2人、初めてみた・・・」
管理人として真剣な声色で仕事を全うする眠りネズミに、肩を震わせて笑い泣きした帽子屋。
色んな想いが巡る彼女であったが、とりあえずは推測に域でしか捉えられないことを知っていたので、それ以上は考えないことにしたようだ。
しばらくそうしていると、2人が店から出て来た。
先程までが嘘のように、平然として顔つきである。
そんな2人にポカン、と口を開けたアリスを見て、帽子屋は眉を一度寄せた後に失笑した。
「ほら、行くぞ」
アリスの頭をポンと撫でた帽子屋と、微笑を湛えた眠りネズミ。
相変わらず人の歩調に合わせようとしない2人の背をアリスは追いかけた。




