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応援要請と言われて迎えにきたのは管理局に属する誰でもない、もっと上からの遣いであった。
その姿を見た瞬間、辺りの沈黙が変わることはなかったにしろ、沈黙の中には目に見えるような緊張、疑念、動揺などが混じり合い、先導する遣いの姿がなくなるまで痛々しいそれは守られたままであった。
そこは見たことも、ましてや来たこともない白亜の建物であった。
多分、内装からしてハートの白など比べ物にならないくらいに広い。
応援要請ならば、前回のように管理局中央塔にて役割分担が行われ、各々任された班と合流し、任務をこなすだけだ。
なのに、なんなんだ?
ここは一体どこだ?あの遣いからして、自分たちが来るには場違いな場所にしていることを知った三月ウサギはかなり挙動不審になっていた。
いつも隣にいる筈の眠りネズミはいない。
代わりに飄々とした様子のチェシャ猫を見上げると、すぐにその視線に気付いたようで首を傾げながら目を合わせて来た。
「大丈夫ですよ。ここは‘長の家’ですから」
「長・・・?」
まさかあり得ない。
その言葉は口から出てくることはなく、目を見開いた。
周りの管理人を見渡してみると、皆もはっきりと緊張を表情に出している。
「そーですねぇ、ここを理解しているのはこの中ではおそらく私だけでしょう。
まぁ、眠りネズミサンがいたら彼も知っていたでしょうが・・・」
「なんで・・・アンタが知ってるのさ」
まるで恐怖を目の当たりにした時のように自分の声が震えているのが分かる。
皆もそれは同じようだ。
なのに、隣のチェシャ猫だけは涼しげな顔で平然としている。
現状でその様子は異常であった。
「どういうこと?チェシャ猫。説明しなさい」
どうやら会話が聞こえていたようで公爵夫人は物おじしないはっきりとした口調でチェシャ猫を見据えた。
チェシャ猫は一瞬、驚いたように目を見開き、肩を竦める。
「説明も何も・・・私はここに来たことがある。
ただそれだけです」
眠りネズミもたった一度だけここに呼ばれたことがある。
その事実を思い出した。
確かにここが‘長の家’だと言ってもまったく不思議とは思わない。
四方を囲む無垢な白。
漂うのは一遍の穢れも感じさせない純粋な空気。
体も心も浄化されそうでいて、どこか痛みすらも感じさせるような居心地の悪さだ。
「来たことがある、ですって?
一端の管理人風情のアナタが何故ここに?」
「レディには似つかわしくない言葉は慎んだ方がよろしいですよ~?
見場は最高なレディなのですから・・・」
怪しく弧を描いたチェシャ猫の目に公爵夫人は怒りを噛みしめていた。
「黙りなさい。
元々、アナタは信用ならなかったけど、一体何考えているの?」
―――私はアナタを信用していませんので
―――そっくりそのまま返すぜ、バカ猫
公爵夫人の‘信用’という言葉に、ふと不思議の国から離れる前の2人に間に交わされた短い会話を反芻させた。
チェシャ猫は何故、あんなことを言ったのか。
確かに好き嫌いははっきりしている彼であるが、あの状況であんな宣戦布告なようなこと。
眠りネズミもチェシャ猫を信用していないと言い返していた。
帽子屋の間に挟んで常に言い合いをしている2人。
仲がいいと思っていた。
同時に何か引っかかるものがあったのも確かだ。
反芻させた記憶を一つ一つ組みたてながら、考えているとふと、チェシャ猫が意味ありげな言い方を返した。
「利害の一致、ってやつですよ」
―――利害は一致ってのは素晴らしいからなぁ。
―――利害の一致とは素晴らしいですねぇ。
そう言えば良く2人はこの言葉を使っていた。
今、彼が言った言葉もそうだ。
まるで公爵夫人ではない誰かに言っているような声色と、その弧を描いた瞳は虚空を睨んでいるようにも見える。
「それは・・・どういう意味?」
訝しむように眉根を寄せた公爵夫人。
三月ウサギの耳にはその問いかけは入っておらず、2人の間に割って入るように、チェシャ猫の服を掴んだ。
本当は胸倉を掴んでやりたかったが、背丈の差があり過ぎて胸元の服を引っ張るのがやっとだ。
力任せに自分の方へ引きよせ、睨みつける。
「アンタの言う利害の一致ってのは、‘誰のため’の利害なんだよ!
アンタと眠りネズミは一体・・・」
「そんなこと・・・言わなくてもわかるでしょう?
私はただ・・・アリスのために生きていたんですから・・・」
されるがままに引き寄せられ、三月ウサギの震えた怒号に対して、チェシャ猫は酷薄な笑みを浮かべ、三月ウサギを見下ろした。
今までに見せたことのない、本当の冷たさ。
首筋に怖気が走り、乱暴に服を掴んでいた掴んでいた手から自然を力が抜けて行く。
「それに、皆さんも・・・
薄々感づいてはいるのでしょう?
不思議の国・・・この余興は幕閉め、ゲームは終盤。
そのタイミングで長に呼ばれた意味が・・・
ねぇ?長?」
皆が固唾を飲んでチェシャ猫に集中する中、彼は当たり前のように前を見上げた。
「え?」
思わず間抜けた声と共に、チェシャ猫が見上げた方へと視線を移すと、随分斜め上。
さっきまで普通の部屋だった空間に、見た事ないくらい長い階段。
そこには周りと同じように大きな白亜の玉座に鎮座する初めてみる男の姿。
「お、さ・・・?」
本能が告げていた。
脳内で警鐘がけたたましく鳴り響く。
逆らうな
自分ではない自分がその心臓を掴むように幾度もその言葉で脅迫してくる。
冷や汗が滲み出してきて、膝が笑う。
人間として殺される時ですら感じたことのない、絶対的恐怖。
視点が合わなくなり、周りの声も耳鳴りが響いて聞こえなくなる。
いっそのこと意識を飛ばしてしまいたい、と目を瞑った時、そっと温かい感触が肩にあった。
その体温が除々に固まった体を溶かしていく。
全身の震えが治まり見上げると、そこには大丈夫だ、と慰めるような表情のチェシャ猫がいた。
それは先ほどの酷薄な表情とは全く正反対。
別人のようなチェシャ猫だった。
「相変わらず悪趣味ですねぇ、長。
皆さんが辛そうです。いい加減、その圧力から解放してあげてください」
ただ一人、隣の男だけは押しつぶされそうな恐怖の中で平然と立っていて、その恐怖の現況であろう遠くの男に言い放った。
「やれやれ、汝は相変わらず面白みに欠けるやつじゃのぅ」
呆れたような、本当に面白くないという風な声が響いた。
こんなに遠く離れているのにはっきりと聞こえてくる。
和らいだ恐怖の間を縫ってくるように、その声が肌をビリビリと差すようだった。
しかし問題はそこではない。
この声に語調。
つい先程、聞いたものと同じだ。
「はく、だつしゃ・・・?」
片言のような言葉が口から零れおちる。
チェシャ猫にしか聞こえないくらいの、蚊が鳴いたような声。
チェシャ猫は三月ウサギを見て、微笑んだ。
それは是と意味していたに違いない。
チェシャ猫は長を前に淡々と答えた。
「長、せっかくアナタの暇つぶしに付き合ってあげでるんですよ~?
その言い方はないんじゃないですかぁ?」
口調も振る舞いも、いつもと変わらない。
おかしいほどに全く。
「あなた、一体何者なの?」
そこに苦しげな公爵夫人の声が飛んできた。
明らかにチェシャ猫を怪しむ声だ。
一体何者なのか。
一番近くで、未だに肩に手を乗せたままの彼のことを一番気になってるのは自分であった。
だって、自分を含む帽子屋、眠りネズミが一番近くで長く過ごした間柄なのだから。
「心外ですねぇ。私はただの管理人。
先ほど、アナタがそう言ったじゃありませんかぁ?」
「ふざけないで。
この圧力の中であならだけが平然としてる。
それがただの管理人ではない証拠よ」
「残念ですが、猫には人間の言葉はわからないんです~
ほら、私が怪しまれるばかりなんで、面白がってないでちゃんと話してください。長」
弧を描いた瞳、物腰の柔らかな口調。
けれどその瞳は笑っていない。明らかに長を睨んでいた。
「チェシャ猫・・・?」
自分の意を介せずに零れ出た彼への呼びかけ。
自分でもわからないが、隣の男の表情が今まで知っているどのチェシャ猫より辛そうに見えたのだ。
その呼びかけと同時に、周りが一変した。
白亜に囲まれた壁は目が痛いほどの色とりどりの原色に囲まれたファンシーな部屋。
一様に驚きを示す皆の反応に、くつくつと笑いを漏らす長は「気にいらんようじゃのぅ」と一言、再び辺りが一変。
次に広がった周りの景色は、見慣れたハートの城に設けられた管理人専用の会議室であった。
勿論、ハートの城などではない。
ただ、長の力で変えられた‘長の家’なのだ。
「さて、会議を始めるかのぅ。
勿論進行役はチェシャ猫、汝じゃ」
笑いの漏れた口元と細められた目、手に持った扇子でチェシャ猫を指名した長に、チェシャ猫は忌々しそうに唇を引き締めた。
思いもしなかった・・・
僕はただただ、予想すら出来なかった現実に唖然とするばかりで、自分の無力さを呪った。




