三月うさぎと眠りネズミ、そして帽子屋
もはや、見慣れた天井。
レリーフが上質紙のような真っ白なそこに気持ち悪いくらいに栄えている。
いつもそこで目覚めるたびにそう思っていた。
彼女―――三月ウサギが体のダルさを覚えながら意識を覚醒させたのは、白ウサギの部屋であり、彼のベッドの上であった。
最初は男である彼のベッドの上で眠っているのを知った時は、内心ドキリともしなかったこともないが、それが幾度も繰り返されると、家の自分のベッドよりふかふかなそこは寝心地が良いな、とも思えるようになってきた。
ぼーっと彼の執務室へ繋がる扉の方を眺める。
白ウサギに当てられた私室はかなり広い。
執務室もそうであるが、扉一枚隔てられた空間の音一つも聞こえてこない。
まぁ、いいかと三月ウサギはゆっくり息を吐き出し、目を閉じる。
口の中にアルコールの微妙な香りが残っていて、気持ち悪い。
今回は頭痛がなかったようで助かった、などと考えているのは、頭の中を無意識に陣取っている不安を払拭するためであった。
「帽子屋・・・」
しかし努力の甲斐もなく、口から自然とその名が零れる。
いや、不思議の国の名が出ただけでも、彼女なりの懸命な努力であった。
帽子屋の過去、そして‘その先’を知っているのは、自称友人の眠りネズミと何故かチェシャ猫、そして自分。
それはあくまで不思議の国の管理人は、という前提であった。
管理長である陛下や、またその上が彼のことをどれだけ知悉しているかは、彼女にも定かではない。
アリスはアリスで、気付けば伏せっていることが多いし、今回彼女は二代目剥奪者であるという記憶を取り戻した。
眠りネズミも内に何かしらの葛藤を抱えながら、毎日このくだらない時間を過ごしていることを知っていた。
しかしそれも―――くだらない毎日も、アリスの来訪とともに少しずつ、まるで僅かな隙間から零れおちる砂のように崩れ落ちていることには気が付いていた。
何度もいうが、周りがそのことにどれだけ気が付いて、どれだけ知っているのかについて彼女は知らない。
正直の所、知ろうとも思ったこともなかったし、これからもそうであると思っていた、のだが・・・
10年前、長い時を暗黙の了解という形で黙認していた剥奪者の存在。
長は何を思ったのか、その存在を見過ごすことが出来ないと仰り、剥奪者を捕らえたが、剥奪者―――否、二代目剥奪者と称されることとなった者は剥奪者の身代わりとして用意された、何も知らぬ幼い少女であった。
そんな少女を形式上、捕らえ不思議の国への道へと追いやり、長が次にしたことは、管理人人員整理という名の大規模な異動である。
その中で、元から人気のない不思議の国管理という仕事に新しい管理人 ― 帽子屋が来た時はその頃だ。
見た目は子供の形をとっているが、精神的に幾分(というか少なくても70年ほど)上である三月ウサギを、お世辞にも好意とは取れない目で見下ろして来た。
絶対、仲良くなれない。
それが彼に対する最初の印象である。
「え?次は管理人大異動!?」
当時はまだお互いに一人暮らしをしていた眠りネズミと三月ウサギは近くのカフェテリアでしょっちゅうのようにタムロをしていた。
その頃には白ウサギも不思議の国管理人の一人であり、良く見つけられては仕事しろと説教をたれていた。
「そうなんだよ。まったく、長も何考えてんだか・・・
半分偽物みたいな剥奪者を捕らえたと思ったら、次は人員整理とは・・・」
「偽物っていっても、人間から名前を奪っていたのは変わらないんだろ?」
「まぁな。つーか、最近はこの話題でどこの局も持ち切りなんだが」
「この話題って?」
「お前、知らないのか?まったくだからお子様は・・・」
随分前から眠りネズミの口癖のようなものであったが、お子様扱いされるたび三月ウサギは拗ねたように口を付きだした。
それが素直になれない彼女なりの猫の被り方でもあったのかもしれない。
ちなみにカフェテリアでの注文のチョイスにいたってもそうだ。
眠りネズミに好意を抱き始めたころには、少し大人びた注文もしてみたが、長い時は一緒にいると、それも疲れてきて今では元から好きであったオレンジジュースやミックスジュースなど、やはりお子様と言われそうな好みであった。
ストローからゆっくり吸い上げるジュースと眠りネズミを三月ウサギは交互に見る。
仕方ないな、とでも言いたげに眉を上げて小さくため息をつく眠りネズミ。
「管理人の上と剥奪者が繋がっていた・・・って話だ」
三月ウサギはその噂に思わずジュースを噴き出しそうになって、せき込む。
おいおい、と心配そうに頬づえをついた眠りネズミは遣っていなかったおしぼりを彼女へと差し出して、涙目になりながらそれを受け取った。
「それって・・・一体・・・」
せき込みながらも続きを促す三月ウサギ。
「管理人ってのは、人間の中から選ばれるようなものなんだが・・・」
「今さらそこから説明しなくていい!」
「まぁ、聞けよ。剥奪者は、元は上層部に属する管理人だったって噂だ。
火のないところに煙はたたぬってね。
ちょっと気になって、資料室やら漁って見たんだがそれらしきものはない。
でも名簿長の一枚が不自然破り取られていたものがあった」
「お前、名簿長なんて・・・そう簡単に見れる筈ないのに・・・」
「まぁ、そこは長年管理人してる信頼と人徳ってやつだ。
俺の推測だが、長と管理人が繋がってるのは、ほぼ黒に違いない。
名を管理する管理人と、名を奪う剥奪者。
利害の一致ってやつは素晴らしいからなぁ?」
それぞれ名前というものを取り扱う。
一方はそれを管理し、もう一方はそれを無理やりの形ではあるが、それを収集する。
そのことにより、名の循環を活発には出来るものの。
「それはあまりに背徳的じゃないか」
「だから長の考えてることはわかんねぇっていってんだよ。
それにちょいと、他の視点での推測もあるんだが・・・
これは置いておくよ」
まるで問題児を抱える父のように、呆れかえった表情で、炭酸で割ったブランデーを呷った。
「今からいうことはただの俺の妄想だから、気にすんなよ。
これはな、この事実から一つの過程に辿りついた。
初代剥奪者と長の繋がり。行方不明の初代剥奪者。捕らえられた二代目剥奪者と大規模な人員整理。
そして今回訪れた新しい管理人と、やがて不思議の国に辿りつくであろう二代目剥奪者。
その全ては・・・」
長の用意したただの駒であり、物語を盛り上げる
余興、ではないのだろうか―――・・・
その眠りネズミの言葉の真実性を裏付けるように、2人の前に帽子屋と名乗る管理人が表れた。
彼は目的があって、この国に来たという。
そしてそれを邪魔するのなら、誰であろうと許さないとも言った。
整った顔のくせに眼光だけは鋭い、手負いの肉食動物。
長い間、管理人をしている2人にとって、人間から管理人になったばかりの彼は赤子のような存在であった。
管理局構成員 ― 通称管理人は長直属の局によって人間の中から選別される。
そのほとんどが、生前優れた才能とともに人生を送ったものたちであり、同時に何かしたの大罪を犯したり、死にきれない後悔の念を持った人間たちであった。
何故、長がそんなややこしい人間を選びとるのか。
能力を持つということは世間から一目おかれる、もしくは敬遠されるような‘変人’と呼べれる部類。
そしてそんな人間の大概は個性がきつい割に傷つきやすいという欠点だらけの扱いにくい性格だ。
その上頑固であり、自分の世界を持っているとなお、意見を譲ろうとはしない。
そんな元人間を集めて、よくもまぁ団体という組織なんぞを作り上げた。
それが管理人の本音を言葉にしたものである。
不思議の国に選ばれる管理人も個性がきつく、出来れば関わりたくない部類のやつばかり。
その中でも三月ウサギと眠りネズミはお互いの考えに共感を抱けるイレギュラーな存在であった。
そこに割り入ってきた帽子屋といういかにも変な男。
陛下から直々に、帽子屋の指導を任された2人の内、眠りネズミはどうやら久しぶりの退屈が凌げる、とでもいうように結構乗り気なようだが、2人の時間を割かれる三月ウサギからすると、帽子屋はあまりに邪魔な存在であった。
そんな命令が出てから数カ月。
帽子屋という男とは意外と仲良く出来るということを知った三月ウサギは3人で行動することにも慣れ、意外と・・・そう何度も言うが意外と楽しい生活を送っていた。
そんな矢先の出来事である。眠りネズミが長に呼ばれたのは―――・・・
一管理人が長直々に呼び出され、また長と2人きりで話をするなど、ない。
断言していいほど、普通はない。
嫌な予感が三月ウサギを襲った。
眠りネズミは三月ウサギが心配しないようにああは言ったが、本当は名簿長を勝手に盗み見たんじゃないか。
もしかして、眠りネズミのあの‘妄想’というやつが長の耳に届き、不快を買ったのではないか。
色んなことが彼女の頭をよぎる。
「おい、大丈夫か?顔色悪いぞ」
「・・・え?あ、うん」
不安のあまり意識をどこかにトリップさせていた三月ウサギは帽子屋宅でお茶をしていることを忘れていた。
何故か彼の淹れた紅茶は一級品のように美味しい。
それに加え、この男が料理もシェフ並であり、家事が大の得意らしい。
男にしては細かく、出来あいものを買ってきたりは絶対しない倹約家でまさに主夫という言葉が似合っていた。
意外だ、それにしても意外だ。
色んなことが明らかになるたびに三月ウサギはその言葉を心の中で呟く。
そんな飽きない日々を過ごしていた。
多分、そういう日々が10年くらいは持つんじゃないか、そうであればいい。
心配そうに一瞥してきた前の男にそう願をかけた。
管理人の一番の苦痛は、その終わることを知らない時間だからだ。




