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チェシャ猫、帽子屋、白ウサギを残した面々はすぐに謁見の間へと足を向かわせ、部屋には沈黙が漂う。
「私は仕事がありますので、失礼しますね?」
2人を交互に見ながら、恐る恐る告げる白ウサギに「頑張ってくださいねぇ」とチェシャ猫が手を振った。
白ウサギが退室すると、座っていた椅子から帽子屋が立ち上がり、煙草に火を付けて、窓際へと移動する。
「おい、チェシャ猫」
「はい?」
「アリスはいつになったら記憶を取り戻す?」
「数日、と言いませんでしたかぁ?」
「公爵夫人」
チェシャ猫が言い終えたと共に、割って入るように帽子屋が言った。
「あの言いようじゃあ、数日どころか今日思い出すような言い方だったよな?
お前の言葉を鵜呑みにした俺がバカだった。
数日、じゃあねぇ。正確な時間を教えろ」
刺々しい彼の声にチェシャ猫は軽やかに彼の近くへと歩み寄る。
「私は・・・帽子屋サンの真似をしただけですよ?
曖昧な、答えの、大好きな・・・アナタの」
一歩一歩近寄りながら、韻を踏むようにゆっくりと言うチェシャ猫に帽子屋は一掃不機嫌そうな表情で振り返る。
「アリス君に・・・何も教えないことが正解だと・・・
アナタはそう思うのですか?
彼女にも言いましたが、アナタが彼女に答えた正解は、とても・・・
曖昧で残酷だ。
そうは思いませんか?」
「何が言いたい?
俺は今回、あいつが聞いたことは隠さずに答えるつもりだ」
ふむ、とチェシャ猫は意外そうな表情をして幾度か頷いた。
「そーですかぁ。なら安心ですねぇ。
じゃあ、アリス君の元へお送りしましょう」
チェシャ猫は猫が主人へと戯れるように、帽子屋の近くに寄ると、そっと耳打ちをした。
「記憶の蓋が開くのは48時間後。
つまり明日の正午です」
チェシャ猫の声が終わると同時に、一瞬にして景色が変わった。
それはいつもと変わらず奇妙な感覚だ
一瞬にして周りの景色だけが、一瞬で移動した錯覚に駆られるのだから。
そして、次に見た景色は、彼女とは似合っているようで不釣り合いな淡いピンクで埋められた部屋であった。
帽子屋の視界にはすぐにアリスの姿が映ったが、当のチェシャ猫は姿を消していた。
彼女はベッドの中に入ったままベッドから移動する意思はないようで、ベッドヘッドに凭れてカーテンの閉められた窓側を見つめている。
それは帽子屋が現れた反対側だったため、どうやら彼が突然やってきたことに気が付いていない。
日が高く、本来なら暑いくらいに差しこむはずのカーテンも彼女によって閉められているようだ。
「アリス」
驚かせないようにという配慮が目に見えるように、そっと小さく呼びかけた。
しかし彼女は反応を見せない。
「アリス?」
先ほどよりは大きめに彼女を呼びかけると、アリスの肩が大きく跳ねた。
「あっ!帽子屋さん?
いつ来たの?気が付かなくてごめん」
慌てて取り繕ったような笑顔で髪を整える仕草をしながら答える彼女に、帽子屋は眉を寄せる。
「体調が悪いって聞いたが、大丈夫なのか?」
「あ~、うん。ちょっと気分が良くないだけ」
「幻覚か?」
帽子屋の言葉にアリスの目がほんの少しだけ揺らいだ。
「そう、じゃないんだけど・・・
何かを・・・思い出しそうなのに、思い出した瞬間忘れてて・・・
その繰り返しで・・・」
「そうか。
何も口にしてないんだろう?
温かい飲みもの持って来る」
帽子屋はそれだけ言うと、部屋を出て、アリスはその背を見送った後、深いため息をついた。
「
アナタの願い、叶えてあげましょうか?
何なんだろう。凄く聞きなれた言葉。
ずっと頭の中をループしてるのに・・・思い出せない」
アリスは暗い部屋の中、頭を抱えていると帽子屋がすぐに帰って来た。
「アリス。カーテン開けるぞ」
帽子屋は言うだけ言って、確認を取らずに部屋のカーテンを全部開けて行く。
最後にベッド越しの最初にアリスが眺めていたカーテンを開けた後、ベッドのサイドテーブルにホットミルクを置き、はちみつを少し垂らした。
アリスは「ありがと」と一言、ゆっくりと飲み進めて行き、彼女がカップを開ける間の沈黙を流れた。
「ほら、寝ろ」
「でも、夢が・・・」
顔色の優れないアリスに帽子屋は半ば強制的に掛け布団をかけようとするが、彼女がその手を止めた。
「大丈夫だ」
帽子屋は彼女を視界に留めると、あまり見せない微笑みを彼女へと向け、アリスは一瞬驚き、されるがまま掛け布団を被せられ、ベッドへと潜り込む。
そんなアリスの目を覆うように手を翳した瞬間、彼女に不思議と抵抗し難い眠気が襲う。意識が深い闇へと誘われる前に「良い夢を、アリス」と帽子屋の声がした気がした。
「ねぇ、――――。この子の名前、どうしよっか?」
真っ暗闇の中で、良く知る可愛らしい声が、フィルターを通したように曇って聞こえてくる。
目を開けている筈なのに、周りは闇で見動きが取れない。
近くからは、落ち着く鼓動音が体にまで響いてくる。
「それならもう、決まってる」
「えっ?なになに?」
「それは・・・この子が生まれた時、俺が呼ぶまでのお楽しみだ」
「そんなのずるい~」
楽しそうで幸せだということが伝わって来る2人の声。
途端、2人の笑い声は凄まじいブレーキ音へと変わった。
―――あれ?ここは?
次に景色が変わった場所は何も見えない闇の中。
しかし先ほどとは全く違う、異質な感じがする闇。
「哀れな魂じゃのぅ。全く憐れじゃ・・・」
近くからまだ若い男の声がした。
―――誰?
「全く、罪深き男じゃ・・・」
―――誰なの?
「我か?汝は知らずともよいことじゃ。
さぁ、こっちへおいで」
伸ばされた手は闇の中で血色へと染まって行き、次に訪れた場面は夜の街。
しかしアリスはその街を空から眺めている。
―――ここは・・・不思議の国?
アリスはふと、地面へと降り立つと、でこぼこのレンガ作りである地面に光が差し込む。
朝である。
綺麗、と呟こうとした途端、瞬間移動でもしているように場所が変わり、一軒の店の前へとやってきた。
後ろから微弱な足音がする。
振り返った先に、彼女は驚愕した。
「え!?私!?」
そこには老婆の後を付いて行く自分の姿があったからだ。
カランカランと涼しげな音を鳴らして店に入る自分と老婆。
恐怖を感じながらもその後を付いていき、2人が沈黙を挟みながら交わす言葉に耳を傾ける。
―――知っていた。これは自分の記憶だ。
そう確信した時には再び、場所が変わり、‘知っている’路地裏。
「てめぇら!消されたくなかったら俺の視界から消えろ!」
怒号と銃声。
「こちらは管理局構成員に属する審判資格を有する者だ。
アナタを長の祝福を受けるに値する魂と判断した。
よって、アナタに過去と名を返そう」
天に舞い上がる光の粒。
意識を失った自分と、自分を支える帽子屋。
場面が変わる前に帽子屋とちらりと目が合ったような気がしたアリスは咄嗟に手を伸ばした。
「待って!」
目が覚めるとベッドの上で天井に向かい手を伸ばしていた。
「あ・・・」
夢なのか、現実なのか。
しかし今まで見ていた幻覚のような感覚とはまた違った感じであったとアリスは確信していた。
アリスが上体を起こしたと同時に、ノックもなしに開かれた扉の先には垂らしたままの癖毛の髪に、コートを脱いでいてネクタイもなしの白のシャツと細身の黒のパンツという格好をしていた帽子屋。
「起きたか」
と一言、サイドテーブルにハーブティーを用意し、椅子をベッドに向かい合うように持ってくるとそこへ腰掛けた。
アリスはちらりと時計を見ると、既に正午を回っていた。
「こんな時間まで寝てて・・・」
この2,3日、横になりっぱなしだったのに、そんなに眠っていた自分に呆れ半分、感心半分で零した。
「それ飲んで落ち着いたら、なんでも聞け」
「え?」
どこから持ってきたのか、新聞を広げて足を組む帽子屋が、新聞越しに言った。
「話、あるんだろ?」




