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「ったく・・・、バカなやろうだな」
二階に上がらせたどうしようもない友人に向けて帽子屋は呟いた。
彼は頭に時折響く鈍痛を抱えながら、一通り掃除を終わらせた頃には昼を少し過ぎていた。
ふぅ、と一息つき冷やして置いた紅茶を出してソファーへと座ろうとしたが、どこからともなくする気配に、今しがた、しようとしていた行動を止めて、キッチンへと戻った。
「チェシャ猫。生憎、紅茶しかないが?」
「おや?帽子屋サンが私をもてなしてくれるなんて・・・
明日は雨ですねぇ」
「だといいがな」
生憎、この国に雨は降らない。
そう続けた彼はアイスティーを入れようとしたが、「あ~、私は結構です」とのチェシャ猫の声にそのままソファーへと向かう
そこには既にチェシャ猫が一人用のソファーに腰掛けていて、その隣のソファーに帽子屋は腰を降ろした。
「で、何の用だ?」
「皆さん、それですねぇ。
私は用がなければ来てはいけないのですかぁ?」
「バカ言え。お前は用がある時以外、俺達の前に進んで現れないだろう」
「そうでしたっけ?」
「そうだ」
ふむ、と彼は顎を撫でるような仕草をして続け、帽子屋は怪訝そうな顔つきでその動作を見やる。
「では、単刀直入に。
どうやら、アリス君の様子が少し・・・おかしいようです」
「お前、やっぱりあの時、何かしたのか?」
帽子屋の声が強張り、チェシャ猫を責めるように睨む。
「人が聞いたら誤解しそうな物言いですねぇ。
安易に人は疑ってはいけないのですよ~?」
「お前だからだ。
で、どうなんだ?」
「確かに記憶をカバーはしましだが・・・、今回彼女を混乱させているのは、私が隠した記憶が原因ではないようです。
そもそも、私は施したのは数日あれば自然と思いだせるような薄い靄です。
となれば・・・」
チェシャ猫は首から下がる鈴を弄りながら説明をし、一度手を止め区切るとゆっくり視界に帽子屋を捉えた。
「過去の記憶、か?」
「そう、私は踏んでいます」
「だが、それはあり得ない」
間髪いれず、帽子屋は反駁する。
「いえ、それがあり得るのですよ。
彼女の魂は10年もの間、彷徨いこの不思議の国へと、たどり着いた。
その長い間に、彼女の記憶を封じる鍵が除々に壊れていったとしたら・・・?」
「だからそれがあり得ないと言っている」
「だーかーらー、あり得るんですって!
本当に帽子屋サンは頑固ですねぇ」
間を入れる瞬間を与えずに交わされる2人の会話。
チェシャ猫の言葉に眉を寄せるものの、帽子屋は反論せずに冷静に説明を求めた。
「俺にわかるように話せ」
「アナタのその先入観を取り除けば、すぐにわかりますよ。
確かに長は完璧だ。全知全能であらせられる。
そんな長の辞書には失敗の文字はない。わかりますか?」
やれやれ、と呟くチェシャ猫に帽子屋は大きく目を見開いた。
「まさか・・・故意に・・・?」
「この不思議の国での答えは国語よりも、算数に近い」
チェシャ猫は続けながら、長く綺麗な人差し指を立てた。
「一つ、しかないのですよ」
「そうだとしたら、何故・・・?」
「何故?おかしなことを仰いますねぇ。
自覚はあるのでしょう?長の手の平の上だという・・・自覚」
呆気にとられた様子の帽子屋に、チェシャ猫は構わず続けた。
「どう転んでも彼女に・・・アリス君に救いはありません」
そう言い立ち上がると、どこから出したのか大きなケーキ箱を冷蔵庫へと入れるため、キッチンへと向かう。
「これは甘党の帽子屋サンに私からの差しいれです。
あまり歓迎されない所には必需なものかと・・・」
無断で開けた冷蔵庫にケーキを入れながら、付け足した言葉を遮るように帽子屋の低い言葉がチェシャ猫の背へと飛んだ。
「おい、取り消せ」
「はい?」
立ち上がった帽子屋は足音を立ててチェシャ猫へと近づくが、チェシャ猫は首を傾げて、自分よりほんの少し背の低い前の男を見る。
沸点が低いと周りが言う彼であるが、そのほとんどは冗談じみた怒りであり、肩を震わせて、怒りを抑える帽子屋の姿はあまり見られない、‘本当の怒り’であった。
そんな彼にチェシャ猫は低く笑い声を響かせる。
そこか小馬鹿にしたような笑い。
この状況での挑発としか取れないそれに、帽子屋はチェシャ猫の胸倉をつかむ。
「聞こえなかったのか?
取り消せと・・・言ってるだろうが!!!」
力任せに掴んだ胸倉を自分の方へと引き寄せ、抑えていた怒りをあらわにして怒鳴る。
一瞬にして、肌に刺さるような帽子屋の殺気がリビングに満ちる。
「取り消しません」
その殺気をひんやりとした声がかき消し、言葉を続ける。
「アリスは救われない。アナタがどんなに足掻こうとも、結果は目に見えています」
チェシャ猫は帽子屋の怒号に少しも動揺を見せることなく、胸倉を掴んでいる手を添えるように掴む。
「アナタも眠りネズミ(ヤマネ)サンのように放棄すればいい。
与えられるものを全て拒みなさい。
アナタには何かを与えられるような資格はないんですよ。
たとえそれが、贖いや償いだとしても・・・」
チェシャ猫は帽子屋に優しくゆっくり諭すように、残酷な言葉を告げる。
その目はいつものように弧を描いていたが、言葉の節々からは彼に対する非難が目に見えるようである。
その言葉を耳元で囁かれた帽子屋はまるで脱力するように、そっと胸倉から手を離した。
「お前が、言うな。
お前が言うと余計に・・・」
帽子屋は小さく呟きながら、一歩二歩とふら付きながら、後ずさる。
そんな彼を見て、優越感に浸った笑みを口元に浮かべたチェシャ猫はそっと彼に近寄ろうとした。
刹那、「あまり、俺の友人を苛めてくれるなよ。猫の分際で」との後方からの声がチェシャ猫を制した。
声の主は、真っ黒な長い杖をチェシャ猫の背へと向ける眠りネズミであった。
「猫は本来喋らないものだ。そーだろ?チェシャ猫。
飼い主より先に死んじまう猫がどんなに足掻いても、同じだしなぁ?」
チェシャ猫は振り返ることはせずに目を細める。
「管理人同士はお互い傷つけることは出来ない、が・・・
この大切なリボン。消されたくなかったら、今すぐ視界から失せろ」
杖の先がリボンに触れるのを感じとったチェシャ猫は一瞬、瞳が大きく揺れて動揺を露わにした後、それを誤魔化す様にため息をついた。
そして反駁の意思は全く見せずに二の句も一切告げることなく、その場から溶けるように消え去った。
気配が消えたのを確認した眠りネズミは一つ息を吐き、帽子屋へと歩み寄る。
「大丈夫か?」
俯きながら頭を抱える彼の両肩を後ろから支えてやり、ソファーへと導くと、糸の切れた人形のようにソファーへと体を投げ出す。
「気にするな。
ただのアイツの八つ当たりだ。
自責と私念の入り混じった、な・・・」
慰めともと取れる眠りネズミの言葉に、帽子屋は項垂れて力なく答える。
「ああ、知っている。
知っていても・・・あいつには弁解のしようがない」
眠りネズミは彼の隣へと腰掛けると凭れて足を組む。
「そうだな。でも本来、アイツもお前を責める理由なんてない。
50対50、痛みわけってことだ。
自分を責めることも悪くないが、考え過ぎると道を見失うぞ。
今はお前のやるべきことだけ考えてろ。
お前にはまだやるべきことが‘与えられているんだ’」
「それが全て用意された盤上でもか?」
力強く言った励ましの言葉に対して、嘲りのように返す帽子屋。
相当参っている彼に眠りネズミは困ったように目尻を下げた。
「ああ、ものは考えようだ。
お前の言う盤上の出来ごとであったとしても、お前にしか用意されていないシナリオがある。
それがお前さんの望みと同じかもしれない.
そうだろう?‘帽子屋’」
そっと肩に回された手に、やっと顔を上げた帽子屋に対して、眠りネズミは微笑む。
「そうだな」
何かしらの痛みに耐えるような表情を作り、唇を噛みしめた帽子屋はひとつ深く頷いた。




