フロッグ
「あの~・・・」
「ではアリス様、三月ウサギ様。以下男性陣の方々もそれでよろしいでしょうか?」
まるで最初から決められていた台詞のようにチェシャ猫と公爵夫人の言葉でことが決定され、呆気にとられるアリスと以下、沈黙する3人。
「お夕食は当屋敷でお召し上がりください。
時刻と場所はチェシャ猫と眠りネズミがご存じの筈なので。
では、私は失礼させていただきます。
皆さま、御機嫌よう」
公爵夫人はそのまま軽やかに立ちあがり、スカートの裾を持って後ろへと振り返る姿も踏み出す足も全てが最高の教育が行き届いた貴族のような振る舞いで部屋を後にした。
その背を見送るように放心しているアリスの視点は合っていない。
「大丈夫か?」
心配して顔を近くにして覗きこむ三月ウサギにも気が付かないほど動転しているようだ。
「お前・・・謀ったな?チェシャ」
眠りネズミは呆れて言いながら、帽子屋の前へ手を出す。
帽子屋はそれが何の要求なのか迷うこともなく、内ポケットから煙草を取り出すと彼に渡し、更に銜えた煙草にライターで火を付けてやった。
そして自分も煙草を吹かし始める。
「何のことでしょう?」
「利害の一致って言ってる時点で謀ったのと同じじゃねーか、全く・・・」
帽子屋が珍しく冷静に呟くと、「おや」とチェシャ猫は首を傾げた。
「に、しても・・・
相変わらず公爵夫人は男嫌いだよなぁ。
アリス様、三日月ウサギ様。以下男性の方々って、何その扱いの差」
あ~あ、と眠りネズミはソファーの背に両手を伸ばしてかけると深く凭れかかる。
「俺、公爵夫人結構タイプなんだけどなぁ」
「お前は女なら誰でもいいんだろ、実際」
自分の頭の後ろまで延ばされた眠りネズミの腕を鬱陶しそうにしながら、帽子屋が言う。
「まさか。俺みたいな素晴らしい男の前には素晴らしい女性が集まって来る。
これ、世界の道理だろ?」
「ああ。わかったから、ちょっと黙れ」
眠りネズミの冗談を一掃した帽子屋は隣のアリスを横目にチェシャ猫を見る。
「まぁ、公爵夫人邸の方が暮らしに支障はないだろう。
着替えも生活品も全て夫人が用意してくれる。
良かったじゃねぇか?アリス」
「う、うん。
でも、新しい家、とか言ってなかった?」
やっと正気を取り戻したアリスは、勝手にきめられた意向が納得出来ないように俯きながら答える。
「なんか言ってたような・・・」
アリス同様、少し混乱している三月ウサギが返す。
「それなら、陛下から直々にアリス君の新居を用意させたようです」
さらり、と当たり前のようにチェシャ猫がアリスの方へと歩みよりながら付け足した。
「うん。なんか・・・、なんでもアリなような気がしてきた・・・」
アリスは動く全てがあまりに自分とは似つかわしくなく、その壮大さに、すでに言葉をなくしていた。
「まっ、とりあえず世話してくれるなら世話になっとけ」
しょぼん、と俯いたままのアリスの頭を帽子屋は崩れない程度に撫でると、驚いたアリスは初めて顔を上げた。
そこには今までで一番優しそうな表情をした帽子屋。
「さて、ことは収まったようですねぇ」
「お前が乱したんだけどな」
チェシャ猫はやれやれ、とでもいうように肩を竦めたが、呆れた眠りネズミがツッコミを入れる。
「では、私はこれで」
それだけ言うとチェシャ猫はいつものように跡形もなく消えて行った。
今回の全てがアリス拉致から今に至るまで、全てチェシャ猫によって仕組まれたことだという事実をアリスが理解出来る余裕を取り戻したのはもう少し後。
せっかくの誘いだからと6時からの夕食を頂いた一行はその後、アリスを残して屋敷を後にした。
帽子屋が買った(実は城から降りる経費)服3着は不要だと彼は言い、そのまま帽子屋の家で保管しておくことになった。
そして不思議の国に迷い込んで5日。公爵邸にお世話になって3日が経った・・・・
「暇、暇・・・ひ・ま」
宛がわれたのはどこを見渡しても淡いピンクで統一された部屋だ。
おまけにベッドは天蓋付きに何故か大きなクマのぬいぐるみが枕の隣を陣取っている。
アリスは誰もいない空間に向かって、そう訴えてみるが、勿論返答など帰って来るわけでもなく、声が響くことすらく空しい独り言に終わった。
1日目は大人しく宛がわれた自室で静かに過ごし、2日目は置かれていた本棚の本を読んで過ごした。
しかし彼女にとって自室から出ない生活というのは2日が限界であった。
本を読むことにも飽きて、そっと部屋を出て見るが、通りかかる使用人にどこへ行くのかと聞きたてられ、結局自室へと送り返される。
そもそも公爵夫人邸は広すぎて、一つ間違えればすぐに迷子になる迷路だ。
大きなため息をついて、ベッドへとダイブする。
そこに、そろそろ癇癪でも起こしそうな彼女を訪ねる一つのノック。
「どうぞ」
一言掛けると、黒の燕尾服を纏ったアリスよりも2、3歳上だと思える青年が恭しく一礼して入ってきた。
この青年はアリスが屋敷に滞在する期間、彼女に宛がわれた執事である。
名前は‘フロッグ’
黒の燕尾服とは相反して、陽に照らされキラキラ輝く銀髪はそこらの女性よりもさらさらしているように見えるし、整った顔は彼女の知る誰よりも美少年であったが、どこか無機質にも感じさせるほど感情が表情に表れにくく、けれどもサファイアの瞳は彼の純粋さを一層引き出していた。
「失礼します」
「フロッグ~」
入るなり、名前を呼ばれた彼はキョトンとして「はい?」と応える。
「ひま」
一瞬の沈黙の後に青年はにこやかにほほ笑んだ。
「ええ。そう思いまして私が参りました。
奥様にはアリス様を出来るだけ部屋から出さないようにと仰せつかっておりますので、せめて暇をつぶせる相手になれば、と思いまして」
フロッグの後ろにあったワゴンの一番上には既に見慣れた紅茶一式があり、2段目、3段目には見慣れないものが目に入った。
彼も侍女たちと同じで、さすが公爵家に仕えているだけあり、無駄のない動作でテーブルにお茶の準備を済ませ、「どうぞ」と一言椅子を引いて、彼女を促した。
促されるまま椅子へと腰を降ろしたアリスは前から香り漂う紅茶に口を付ける。
「部屋で出来る暇つぶしを考慮した末、思いついたのが幾つしかありませんでしたが。
チェスは嗜まれますか?」
2段目から出した比較的大きなチェス盤を取り出し、青年は微笑む。
「したことないんだけど、良かったら教えてくれる?」
そうして3日目の彼女の退屈はどうにか凌がれた。
夕食を済ませて、使用人に促されるまま公爵夫人専用の大浴場で風呂に入り、再び自室へと逆戻り。
何もしていない筈のなのだが、多分慣れない環境で気を使ったためか、いくら風呂や部屋で寛いでも疲労感は拭えない。
否、ここでなくても彼女にとってはどこも‘慣れない環境’であることは変わらないのだが。
「これなら帽子屋さんの家の方が良かったかも・・・」
一日だけ過ごしただけであったが、あの家は温かい感じがした、と彼女は思う。
それに比べ、この屋敷は窮屈でどこか無機質にも思える時があったのだ。
使用人が乾かしてくれた髪からは、フローラルな香りが漂い、飛び込んだベッドからは新品の布団の匂いがする。
ため息をともにベッドの天蓋を少し見つめて、目を閉じた。
「どーしたんですかぁ?」
「あ~、幻聴が聞こえる」
すでに突然の登場にも動じなくなったアリスは、目は開けずに幻聴だと自分に言い聞かせて、寝がえりを打つ。
「幻聴ではありませんよ~?」
無視だ、無視。
アリスは呪文を唱えるように心の中で呟く。
チェシャ猫に関わると、ろくなことにならない。
この数日で嫌でも思い知ったことの一つである。
「無視はいけませんねぇ。
襲いますよ?」
耳元でそう囁かれ、アリスは飛び起きて枕もとへ避難する。その顔は真っ赤だ。
「かわいーですねぇ」
「思ってもみないことは口にしない!」
棒読みに対して、アリスはチェシャ猫を指差しながら指摘する。
「おやおや、それにしても相変わらず・・・」
チェシャ猫はアリスをマジマジ見る。アリスは掛け布団を抱きしめて、身を隠すとチェシャ猫を怪訝そうににらみ返した。
「何の用?」
「用がなければ来てはいけないのですかぁ?」
「うん」
「傷つくますねぇ」
「嘘ばっかり」
「良くご存じで」
短いやり取りの後、ベッドの脇に立っていたチェシャ猫は断りもなく、ベッドの端に座った。
「疲れているようなので、子守唄でも歌って差し上げようかと・・・」
二コリと微笑んだチェシャ猫に一層、怪訝そうに眉を寄せるアリス。
「結構です。逆に眠りの妨げになるから帰ってください」
余所余所しく投げられた言葉と同時に、彼女は素早く扉の方を指さした。
「ふむ。では‘不思議の国のアリス’でもお聞かせいたしましょうか?」
顎を撫でて考えるようにしたチェシャ猫がそういうと、アリスはキョトンとして小さく頷いた。
彼女は元々、この世界の舞台となったお伽噺が気になっていたのだ。
チェシャ猫は枕をポンポンと叩くと、彼女に眠るように促す。
「眠たくなったらいつでも寝て下さい。
続きはまた今度お聞かせしますよ?」
促されるままアリスは横になり、鼻まで掛け布団をかけると、語り出したチェシャ猫の声を子守唄に除々に眠りの淵へと落ちて行った。
話の序盤で眠ってしまった彼女を見て、「おや?」と一言チェシャ猫は、そっとアリスの頭を撫でて微笑んだ。
「おやすみさない、アリス
良い夢を」




