prologue
人気のない本棚が立ち並ぶ部屋。
そこは管理局資料室県図書室と仮に銘打たれた場所だ。
パタパタと小さな足音が突然現れて、一つの本棚の前へと立ち止まり、その小さな背は背伸びをしながら、ある個所で手を止める。
そこには一冊分だけ歯抜けになった空間。
「おかしいなぁ、誰かが借りてるのかな?」
前々から借りる予定であったのか、少年が少し残念そうに肩を落とした。
するとそこに前触れもなく、その目当ての本が目の前へと現れた。
否、少年より幾分も背の高い誰かが、少年へとその本を差しだしたのである。
「これを探しているのかな?」
「あっ、はい!それです」
咄嗟に振り返った少年は本を差しだした男の胸ほどの背丈だ。
振り返った少年を見下ろす様にした男は小さく微笑んだ。
「この本を読もうだなんて、君も変わりものですねぇ?」
特徴のある語調と声色。
少年はそれに反応して、マジマジと男の顔をみた。
男は何がおかしいのか失笑しながら、首を傾げる。
「いいのかい?これは・・・救いのない物語ですよ?」
そっと再び少年の前へと差し出した本の表紙は白紙で、タイトルさえ書かれていない。
少年は愛おしそうにその本を眺めると、そっと受け取って大切そうに抱きしめた。
「いいんです。
私は真実を知りたい。
この本に救いを見出せなくても、中の人たちの幸せを祈ることは出来るでしょう?」
「まぁ、そうですねぇ。
好きにしなさい。くれぐれも・・・仕事に支障をきたさない程度に、ね」
男が意味深な表情で瞳に弧を描き、すぐに踵を返した。
「ありがとうございます」
その背に少年は元気よく礼を良い、来た時のように足音を響かせてその部屋を後にする。
迷路のように立ち並ぶ本棚の隙間を縫うように、微小な風が吹き通った。
ちりん。
どこからともなく、涼しげな鈴の音が聞こえてくる。
男は部屋に設けられたいくつかのデスクの上へと座ると、ポケットから取り出した色あせ、黄ばんだ紙を一枚、優しく撫でた。
ふと、風が舞い上がり男の長い髪を持て遊ぶ。
何かを言いたげに開かれた男の口からは結局何かが紡がれることはなく、小さな小さなため息だけが零れ出た。
「管理人名簿長が改ざんされていただと!?」
白で統一されている、広い執務室のデスクに両手を叩いて初老の男が立ち上がる。
声を荒げて怒りを顕わにする男に先刻、報告した男は身を縮ませながら緊張を顔に表す。
「その名は?」
「ルイス・キャロルです」
「違う!本当の名はなんだと聞いている!?」
「チャールズ・ラトウィッジ・ドットソン。
あの国の原作者です」
見上げれば、そこには怖くなるほどの青い空。
見渡せば深い緑に囲まれた広野と四方を囲む大きな森。
そこに彼女はいた。
―――こんな景色は知らない。
こんなに透き通った・・・原色だらけの場所は・・・知らない―――
彼女は頬を刺す冷たい風を受けながら、広野に一人立ちつくしていた。
いつからここにいたのか。
どうやってここに来たのか。
どこに帰ればいいのか。
彼女は何一つ知らなかった。
「ここはどこ?」
広野を歩いて、見えた森の入口は薄暗い。
陰々とした森林の一本道を、辺りに警戒しながらゆっくりと進んでいく。
物音一つしない奇妙な森。
風さえどこかに飲みこまれているようだ。
しばらく続いた一本道を歩いて、彼女が立ち止った先は道が左右に分かれていた。
分かれ道の真ん中には、行き先を示す立て看板が上下に二つ並んでいる。
おかしなことにその看板の矢印はどちらも同じ方向を差していたし、彼女には書いている文字が読めなかった。
仕方なく、立て看板が指し示す方向へと足を向けた時、何かが彼女の目の端に映った。
「どうかしたの?」
唐突に聞こえたのは幼い男の子の声とその姿だ。
「迷子なんか?」
遅れて、聞き慣れないイントネーションと同じ声、同じ顔。
彼女は声がした方を振り返るとそこには肩を並べて立っている双子がいた。
愛らしい幼い顔と彼女より小さな背丈、お互い鏡のように小さな帽子を斜めに付けている。
「あんまりここにいたら、赤のナイトに連れ去られちゃうよ?」
大人しそうな方の少年が忠告を促す。
「ほら早よー」
目つきが鋭い方の少年は前へ進むことを促した。
彼女は訳も分からず前へ踏み出した途端、景色が一変。先ほどまでいた森は遠く後ろにあって、前には細い小川とそれに並ぶように一見の家が建っていた。
突然の異変にあまりに動揺し、辺りを激しく見渡す彼女を呼びかける声が後方からかかった。
「お嬢さん。こんな所で何をしてるのかな?」
綺麗な栗色の髪が片目を覆っていて、もう片方の目が微笑む。
衣服は全身真っ白のタキシード。随分と綺麗な青年であった。
「こんな所にいては危ない。チェスに巻き込まれてしまう。早く家の中へ」
青年に促され、有無を言う前に彼女は家へと放り込まれた。
応接間らしき、部屋には立派な暖炉と、その中ではパチパチと火の子が舞っている。
「さぁ、早くあちらへ」
少なからず焦りを含んだ声色の青年は暖炉の上にある大きな鏡を差し、彼女は首を傾げて、説明を求めるように彼を見つめた。
青年の整った綺麗な顔は宥めるように微笑み、彼女を抱きあげると暖炉の上へと登らせる。
「鏡の中へ」
その声に、まるで操られるようにして、彼女はまず右手を次に左手と、鏡の中へ入って行く。自分の意思とは関係なく動く体に、困惑しながらも、彼女は鏡の中へ完全に入ってしまう前にようやく後ろを振り返る。
そこにはなんの感情も宿さない瞳が微笑みを湛え、慇懃に一礼した。
その口がゆっくりと動く。
―――良い、夢を・・・―――