夫婦喧嘩の始まり
最後はめでたしめでたしで終わる物語にも、そこに至るまでには様々な困難があります。これはそんな物語の一つ。現代にまで続く、諸国との融和政策を図った平定帝として名高い三代皇帝エドゥルガと、国民に最も愛され、そして騒がせた皇妃リサーラのお話です。
「本当に、良いんだな?」
14も年上の夫に浮かぶ困惑の色を認め、リサーラは緊張に強張った顔に無理矢理笑みを貼り付けて、起伏の乏しい身体を押し付ける。部屋の傍に控える者は、ただ静かに二人の一挙手一投足を監視していた。
「陛下にはこのようなつまらない身体で申し訳ありませんが……これも、妃として最初の務めで御座います」
これから夫とする事を思えば怖いと思う。けれども皇妃となったからには、皇帝である夫との間に子をなす行為は逃れえぬ義務だ。そして、婚姻を結んで二日目の夜に行われるこの男女の営みをもって、漸くリサーラが正式な皇妃として認められる。
少し離れた見届け人にも分かるよう、室内は互いの表情がはっきりと見えるほど明るい。だから、夫がこの儀式に難色を示しているのもリサーラには丸分かりだし、リサーラの虚勢も夫には筒抜けだ。
「すまない」
体勢が入れ替わり、視界には落ち着いた色の天井と苦悩に満ちた夫の顔。
15歳になって2日目の夜、私は名実共にギルデン皇帝エドゥルガ様の妃になった。
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「すごい……綺麗ですね、エド様!」
早朝、以前から約束していた遠乗りに出掛けようとエドゥルガ様に揺り起こされ、馬で駆けること一刻。連れて来られたのは、帝都の東にある森を抜けた所にある湖だった。この湖は北と南を隔てる巨大山脈から流れ出た水によって作られ、朝日に照らされた今は摩訶不思議な色を醸し出している。これは水に含まれる微量の緑水石が長い時間をかけて湖の底に溜まったことによるものだ。
「だろ?この時期しか見れない俺のとっておきだ」
「ありがとうございます!」
「お前が馬に乗れるようになったらって、約束だったからな」
「はいっ!」
くしゃりと頭を撫でる仕草は荒っぽくも優しい手つきであり、よく出来ましたと子供を褒めるそれと同じだ。
(まただ……)
リサーラはずきりと心が痛むのを感じた。この大きな手で頭を撫でられるのが辛くなったのは、もう半年も前の事である。嫁いだばかりの頃は、何かが出来るようになる度にエドゥルガに褒められて嬉しかった。けれど。
『御二方の仲睦まじさはまるで親子のようですね』
何気無い言葉だった。実際、リサーラとエドゥルガには親子程の年齢差があり、そのことで口さがない者達が影でそう称しているのも知っている。だから、何時ものように微笑んでやり過ごせば良かったのに。
『そうだろう?可愛い過ぎて困っているんだ。だからくれぐれも我が妃に手を出してくれるなよ?』
その瞬間、リサーラは悟ってしまったのだ。エドゥルガがリサーラを子供としか見ていないことを。一度気付いてしまえば、エドゥルガがリサーラに向ける感情の全てが妻ではなく、子供に向けるそれと一緒だと理解してしまう。リサーラがエドゥルガに向けている愛とエドゥルガがリサーラに向ける愛には大きな隔たりがあることを知ってしまった晩、リサーラは泣いた。そして胸を占めるこの感情が恋であることを知り、同時に叶わぬ夢であることも知った。
エドゥルガはリサーラを子供としか見ない。あの晩、エドゥルガに抱かれた時から、彼だけがリサーラを皇帝の妻として扱わなかった。皇妃としての敬意を払われながらも、女として求められることはない。政略結婚なんてこんなものだと割り切りながらも、未練を捨て切れない自分がいる。いっそ冷たく突き放されれば、楽になるのだろうか。
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『どうかあの方の側妃になってくださいませ』
質素ながらも上等な生地のワンピースを着た少女は、そう言ってアリエンヌに対して何の臆面もなく頭を下げた。
方やこの国を治める皇帝の妃、方やこの花街随一を誇る花姫。対極に位置する二人であるが、その関係は他者からすれば随分と奇妙なものだった。月に2、3度、皇帝が皇妃との晩餐の席にやって来ない事があるが、同等の頻度で皇妃も城を空ける事はあまり知られてはいない。また、知っていてもその行き先が孤児院だと思っている者が大半だ。事実、皇妃は慈善活動に積極的で、アリエンヌに会う前には必ず孤児院に寄っている。いや、口実を合わせる為に孤児院へと足を運んでいるとでも言うべきか。アリエンヌも詳しくは知らないが、いつも上手く誤魔化して来ているらしいから、見つかれば大事になることは間違いない。そのリスクを侵してでも通ってくるリサーラに呆れ半分、あの男には勿体無いと惜しむ気持ちが更に半分で、残りは幼い皇妃を純粋に気に入っているのだ。だからこそ、アリエンヌは最上客であるあの男が嫌いだ。
「どうなさったの、アリエ?」
ぼんやりとしていたアリエンヌの視界に澄んだ青の瞳が映り込む。そこにあるのはただ心配の色しかなく、醜い嫉妬の一つでもあればこんな茶番を終わらせることも出来るのに。
「あたくしが男だったら、あの男からリサを奪ってやるのに」
「私はアリエが女性で良かったと思うわ。だって、こんな素敵なお姉様が欲しかったんですもの」
「……あ〜、もう!リサったら可愛い過ぎるわ」
「きゃっ?!」
小柄な身体を問答無用で抱き寄せる。男達が大枚を払って漸く味わえる、たわわな果実をタダで堪能出来るのはこの少女くらいだ。
「……辛くなったら逃げてもいいのよ」
あの男にそこまでの価値があるとは思えない。男は女に奉仕してなんぼなのだから。リサーラの想いに胡坐をかいて動こうとしない男など、さっさと見切りを着けて新しい男を探せば良い。出来れば、二度とリサーラをここに連れて来させない男が良い。
ここは、花街。
穢れを知らない無垢な花には過ぎた場所だ。だからどうか日の差している間に元の場所へ帰って欲しい。それがアリエンヌの願いだった。
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「サーラ、悪いな。今夜は遅くなるから先に寝ていてくれ」
リサーラと結婚してからというもの、晩餐を共に取ることが習慣になっている。子供の頃より次代の皇帝となるべく育てられたエドゥルガは、孤独というものを良く知っている。故に幼くして嫁いできたリサーラだけは同じ思いをさせまいと、出来るだけ共にいる時間を作ろうとしたのが切欠だ。それはまるで、兄が妹に向けるような感情。けれども、エドゥルガはリサーラに対して抱く感情がそれだけでないことを知っていた。たった一度だけ、リサーラを抱いた事がある。月のものが来ていない幼い身体を獣のように貪ったあの時から、エドゥルガはリサーラに負い目があった。それは幼い彼女を無理矢理抱いた事だけでなく、そんな彼女を女として見るようになった自分に、だ。一回りも違う少女に欲情するなど、誰に言えるだろうか?その時点で、自分の性癖がそうだったのかと本気で悩んだものだが、花街で見かける見習いに触手が動くことはなかったので、リサーラ限定ということなのだろう。気付いた時には、幼い妻に溺れていたのだ。
「……分かりました」
言葉とは裏腹にリサーラの顔が曇るのを見て、仄暗い優越感が浮かぶ。そんなことはおくびにも出さず、何時ものように頭を撫でる。結い上げた髪がエドゥルガの手によって乱され、白金の髪が一筋肩へと落ちる。
下半身が疼く。
髪に手を入れ無茶苦茶にしてやりたい。色付いた唇に吸い付き、華奢な肢体を貪りたい衝動に駆られる。
エドゥルガは噴き出しそうになる本能を理性で押さえつけ、不自然にならないように妻から離れた。自室に戻って漸く仮面を外す。
「ああくそっ!可愛い過ぎだろう」
優しくしたいのに、時折全てを壊したくなる。自分の為に幼くして親元を引き離されたリサーラに、家族になろうと誓いそう振る舞って来たが、日に日に女性らしく育っていくリサーラを見守っていくだけではもう満足出来ないのだ。
「サーラ。……愛してる」
明日からまた何時ものように振る舞う為に、エドゥルガは夜の街へと繰り出す。
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「陛下より皇妃様へ伝言を預かって参りました」
侍女達の冷たい視線が痛い。
それでも、己れの職務を全うするべく、ガウリーは何時もと同じ口上を皇妃に告げる。
その場にいる誰もが夜間に抜け出す皇帝の行き先を何となく察していたが、若い皇妃の前でそれを告げる愚か者はいない。だが女として、そして皇妃に仕える者として、その内容は到底許せるものではなく、必然、無言の抗議がガウリーへと向けられるのだ。最近では、何処からか噂を聞きつけた妻にも冷ややかな視線が投げつけられる始末で、心休まる日がない。
「私だって、好きで言いたいわけではないのですがね……」
ついつい恨めしげな目で見てしまうガウリーに、皇帝の筆頭騎士は苦笑いするしかなかった。
「お互いあいつで苦労するよなぁ。俺も最近同僚の目が痛くって仕方ねぇよお」
この2人、皇帝と合わせて幼馴染の間柄だ。だが、間近で皇帝と接している2人ですら、今のエドゥルガの行動は理解出来ない。
「陛下が皇妃様を愛しているのは確かですが……」
「俺もそう思ってるさ。だからこそ、なんであいつがお妃様を抱かないのかわかんねぇよ。普通、愛し合った男女なら最終的にそういう仲になるもんだろ」
「原因が一概に陛下にあるとは限りませんよ。身体の相性が悪かったとも考えられます」
「まあ、考えりゃきりがないけどな。けど、あのお妃様が嫁いできて三年だ。そろそろ爺共も五月蝿くなってきてるぜ」
皇帝夫妻が閨を共にしていないことは周知の事実だ。皇妃が嫁いできた当初は、まだ皇妃が年若いのもあって静観の構えであった長老達も、世継ぎが出来ない現状を憂いている。近く側室が迎えられるだろうというのが一般の見解で、水面下では激しい争いが始まっていた。
「どうせ陛下は気付いていないのでしょうね」
為政者の能力は高いくせに、私事には相当疎いのだ、あの幼馴染は。
「四の五の言ってる状況じゃねぇ、か」
問題はあの気味悪い兄貴面を剥ぎ取る方法だが、皇妃に頑張ってもらうしかない。
「それなら一つ提案がありますよ、ジウール。実は……」
最大の功労者である2人の暗躍が歴史書に語られることはない。
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「俺に触るな!」
伸ばした手が叩かれる。これまで築き上げてきた頑丈な壁が瞬く間に決壊するのを感じた。
「……それが陛下の答えなのですね」
何を期待していたのだろう。こうなることは、半ば分かっていた筈ではないか。陛下が優しくしてくれたのも、私が皇妃という役目を全うするためだったのだ。それを愚かな私は、あまつさえ微かな希望すらも抱いてしまった。
ともすればこぼれ落ちそうになる目尻に力を入れ、高ぶる感情を抑えるべく深呼吸する。唇をきつく噛み締めたまま一礼すると、寝室を出た。その後の行動は素早いの一言に尽きる。二、三日で帰る事を書き残し、薄い夜着の上にガウンを羽織ると、皇妃の部屋に備え付けられた隠し通路を通って、夜の街へと抜け出す。帝都中を巻き込んだ夫婦喧嘩の始まりだった。
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これなら、陛下も悩殺ですと侍女達から太鼓判を貰ったリサーラは、光の加減によっては透けてしまいそうな頼りない夜着を見下ろしては、速くなる鼓動をそっと押さえた。これから行おうとしているのは、はしたないとされる振る舞いだが、リサーラとしても退けない大勝負である。この恋に終止符を打つためのけじめだった。
『これまで通り、殿下には皇妃の公務は続けて貰う。だが、陛下の私事を支えるのは側妃に任せて貰おうと考えている』
普段は温和な宰相が珍しく厳しい表情をしているのを見た時から、何となく要件を察してしまった。案の定、それはリサーラにとっては到底受け入れ難い内容で、けれども、宰相である彼の口から伝えられたからにはそれはほぼ決定事項なのだと悟る。リサーラが皇妃として返すべきはただ頷くだけだった。
妃としての務めには当然世継ぎを産むことも含まれている。それが出来ないリサーラは、かつての教育係から妃失格の烙印を押されたのだ。覚悟はしていたが、現実となればやはり辛い。せめて最後に当たって砕けるのも悪くないのではないか。その思いで、リサーラは今ここでエドゥルガの帰りを待っていた。
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勢いのまま振り払った時には遅かった。全身を震わすリサーラの瞳は絶望に染まり、そんな顔をさせてしまった自分が情けない。
「あんな顔もするようになったんだな」
いつからだろうか。リサーラがエドゥルガの前ですら喜怒哀楽を隠すようになったのは。昔から弱音を吐くことが極端に少なくて、わざと怒らせたこともある。ころころと変わるリサーラの表情を浮かべては、やはり最後には先程の表情が思い出され、エドゥルガはクッションに拳を打ち据えた。
「?何事だ」
自己嫌悪の嵐に揉まれていたエドゥルガは、俄かに城内が騒がしい事に気付く。不機嫌を引っ提げたまま立ち上がった時、自室の扉が強く叩かれた。
「入れ」
略礼をして現れたのは、焦りを宿した筆頭騎士だった。
「何事だ」
「皇妃様が姿を消されました」
エドゥルガは束の間思考を止めた。言葉を上手く咀嚼出来ないでいるエドゥルガの前に、見慣れた筆跡で短く用件が書かれている。
「恐らく、妃殿下は自ら出奔したと思われます」
この時点で騒ぎがそこまで広がって居ないのは、皆が皇妃の性格を良く知っているからだ。最近こそなりを潜めてはいるが、嫁いできた頃などは、木に登るは落し穴は作るは、大層なお転婆だったのである。あの皇妃ならこれくらいしかねないというのが共通の認識だった。
「……軍を動かして城下をしらみつぶしに探せ。警備隊にも連絡して探させろ。これより、皇妃が見つかるまでは城門を封鎖する!」
「はあっ?!いや、待て待て、落ちつけよエド。軍と城門封鎖はやり過ぎだって」
「あれが逃げ出すのは許さん」
エドゥルガは自分が仕出かした事を棚に上げて怒っていた。それは紛れもない独占欲であり、色々なものが吹っ切れた瞬間である。かくて、三代目の治世において最初の城門封鎖が行われることになった。
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「あの男はやることがえげつないはねぇ。どうする、皇妃様?」
戦時下でもないのに街中に兵士が溢れ、ただ1人を血眼になって探している。その過程で指名手配犯や違法な商品を扱っていた店主やらが現行犯でしょっ引かれ、警備隊の牢屋には人が溢れているのだとか。治安維持という名目では多大に貢献しているが、兵士達の纏う空気に気圧され、城下は不気味なくらい静まりかえっていた。徹底して見つけ出す所存らしく、包囲網は一夜にして確実に狭まっている。見つかるのも時間の問題だ。
「今はまだ絶対に帰りません!エド様なんて。エド様なんて……」
まただ、と思った時には遅かった。忘れるには酒が一番だと渡したのが悪かったのか、酔っ払いと化したリサーラは一晩中飲んでは泣くというのを繰り返していた。流石に泣き疲れたのか、漸く寝入ったリサーラの目元は泣き腫らして赤くなっており、濡らした布巾で覆ってやる。
「本当に困ったわね」
本来ならば、直ぐにでも通報するべきだろうが、アリエンヌにその気は全く無い。寧ろざまあみろと高笑いしたい気分だ。
「……姫様にお客様が来ております」
扉越しに見習いの声が掛かる。人払いしているアリエンヌに態々見習いが来訪を告げるならば、相手は余程の人物だろう。もしかすると、嫉妬に狂った男が早くもやって来たのだろうか。名残惜しげに白金の髪を撫で、アリエンヌは立ち上がった。
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「ふふ。うふふふふふ」
「……アリエ?怖いわよ」
「もう完っ璧よ。いっそこのままあたくしと一晩中、過ごしちゃう?大丈夫、女同士の遣り方も知っているから、お姉さんが手取り足取り教えてあげるわ」
いけない道に走ろうとする美女を押し留めながら、ガウリーは鉄壁の理性で視線を美しい絨毯に向けていた。直視すれば最後、哀しいかな雄の本能を前に、理性など容易く落ちるであろうことは想像に難くない。それだけの破壊力がある。
「どうしたの?浮かない顔ね」
「だって、こんなことしたって陛下は私を見てくれるとは思えないんだもの」
ぐっすり寝てアルコールが抜けた今では、再び昨晩の記憶が蘇ってくる。これ以上の拒絶を受けたら二度と立ち直れない自信があった。
「馬鹿ね。だったら、どうしてあの男がここまですると思うの?城門を封鎖する意味をリサなら良く知っているわよね」
両頬を挟まれ、視線を逸らす事を許されない。突如として帝国全体の流通が止まったのだ、その影響は市場のみならず下手をすればこれまでエドゥルガが築き上げてきた各国との関係をも壊しかねない。
「逃げても良いとは前に言ったけれど、それは最後の手段よ。戦う前から戦意喪失してどうするの。いつから貴方はそんなに弱気になったのかしら?」
最初からリサーラは強くない。ただ義務という枠に収めて虚勢を張っていただけだ。けれどもエドゥルガは見抜いていた。だから、エドゥルガだけはリサーラを皇妃ではなくリサーラとして扱ってくれた。最初に会ってからエドゥルガにとってリサーラは庇護すべき子供で、我儘なのはリサーラの方。この落とし前はきちんとつけねばなるまい。
どうやらまた違った方向に向かったようだとアリエンヌが気付いた時には遅く、腰まで届く黒髪の少女の瞳には強い光が戻る。俄然やる気になったリサーラに不安を憶えながら、アリエンヌはリサーラを導いた。
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帝都中を隈なく探し回らせ、最後に残ったのはリサーラが隠れるには最も縁遠い場所だが、エドゥルガは確かにリサーラがここにいることを確信していた。皇妃が家出(出奔ではない)したことだけでも十分な醜聞なのに、阿呆な皇帝による城門封鎖に、お転婆妃の隠れ場所は花街。宰相の頭痛は益々酷くなるばかりだ。
「いい笑い者だぞ、これは」
街一つを巻き込んだ夫婦喧嘩に、当の住人達が面白がっているのが幸いか。警備隊から人員増援と収容所の一時借用要請が来ている以外は、特に困った事もない。迫る建国祭に合わせてやって来ている各国の使者や貴族達も事の成行きを見守っているようで、おかしな動きは見られなかった。どうやら封鎖の効果がここに来て現われているらしい。この機会にあわよくば側妃の座をと考えてか、今年の建国祭では使者の多くが未婚女性で、また地方から集まってきた貴族もそれぞれ年頃の令嬢を伴ってきている。
勿論、そう仕向けたのは宰相だが、今のこの状況を見れば、皇帝が皇妃しか見ていないのは一目瞭然だろう。二人の間に入り込む余地は無しと悟った筈だ。そうなれば暫く側妃を望む事は出来ず、これを機会に2人が本当の夫婦になって貰わなければ困る。その為の手は既に打ってあるが使わないに越した事はない。
「私もそれなりにお転婆姫を気に入っているのでな」
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「ようこそ、桃源楼へ。まずは……お食事か、それとも楽などは如何かしら?」
楼閣の最上階でエドゥルガを出迎えたのは、この花街一の娼妓だ。護衛としてやって来た騎士達は妖艶を全身に纏った女性へと釘付けになり、それを心得ているアリエンヌは蠱惑的な流し目を送ってやる。
「我が妃を返して貰おうか」
エドゥルガの声に騎士達は慌てて己れを取り戻す。あら残念と小さく舌を出す仕草も、エドゥルガにはただ苛立たしいだけだ。
「相変わらず無粋ですこと。そんなにも、あの幼い皇妃様が大切ですの?」
「黙れ」
「伽も満足に出来ぬお子様など、溢れる精力をお持ちな貴方様には役不足で御座いましょう?」
「黙れ」
「大切なお人形は清らかなまま飾っておけば宜しい」
「黙れ!」
鋭い刃が滑らかな喉元へと当てられる。少しでも動けばその切っ先が食い破られてもおかしくない。誰もが緊張に息を飲む中、当のアリエンヌはころころと嗤うばかりで、エドゥルガの怒りを正面から受け止める。
「御託はいい。リサーラを返せ」
「御本人は帰りたくないと仰せですわ」
「あれの意思は必要ない。あれは俺のものだ」
怒りに満ちた眼光は到底女性に向けるものではないが、アリエンヌは鼻で嗤い飛ばした。
「そう思っているのは貴方だけでしてよ、愚かな陛下。貴方の煮え切らない態度がどれだけあの娘を傷付けているのか御存知ないでしょう!」
苛立ちのまま、エドゥルガの手に力が篭る。けれどもその手がアリエンヌの喉を突くことはなく、逆に剣が弾き飛ばされた。筆頭騎士が暴れようとする皇帝の動きを阻害する。その間にエドゥルガから距離を取ったアリエンヌは、扇でエドゥルガを指した。
「勝負ですわ、陛下。今この楼の何処かにあの方は居ります。今から半刻の間に探し出せれば貴方様の勝ち、もし負ければ期限まで大人しく皇妃様のお帰りを待つことですわ。如何?」
「……良いだろう」
「但し、見習いも含めて女達に触れることは御法度ですわよ」
「ああ」
「では始めましょう。あたくしがこの室を出て20を数えたら開始ですわ」
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この楼閣だけで部屋数は50を超える。流石に半刻だけで楼閣中を探すのは不可能なので、連れてきた騎士や楼閣前に待機していた兵士達も使って調べにかかる。人海戦術によって四半刻も経たずに調べて分かったのは、それらしき人物はいないということだ。
「成る程、あの女らしいやり方だ」
「どうなさいますか、陛下。女達は全員、下の見世に集めていますが」
「あれの顔を直接知っている者だけを集めろ。一人ずつ見るしかない」
とはいえ、予想以上に捜査は難航した。アリエンヌに声を出さぬよう、そして目を閉じるよう指示されているのか、判断材料が殆ど無いのだ。結局、背格好や肌の色で最終的に絞られたのは五人だが、エドゥルガはこの五人の中にリサーラはいないと判じた。間も無く約束の時が来てしまう。
「ーーーーー」
その言語を知る人間は限られる。突然、謎の言語で話しかけられた者達は、何を言ったのだと怪訝な様子を向ける。だがたった1人だけ、ほんの僅かに身動ぎする者がいた。そしてエドゥルガが見逃す事はない。
それまで全く動かなかったエドゥルガは、迷うことなく進んでいく。そして、ソファに枝垂れかかっている褐色肌をした黒髪の女の前で膝を折った。
「サーラ、俺が悪かった。頼むから帰ってきてくれ」
まさかと驚愕を浮かべる一同を前に、ゆっくりと少女は瞳を開いた。そこにあるのは、晴れの空を思わせる鮮やかな青色で、北のディリシエンド聖国に生まれた皇妃だけが持つ色だ。
「どうして……」
何故自分だと見分けがついたのか、何故そうまでして探そうとするのか。様々な疑問が浮かび上がる。
「さっき告げた言葉に偽りはない。俺はお前を愛している」
「それは……家族、としてでしょう?」
「ああ、そうだ」
やはりそうなのだ。エドゥルガが抱いているのは、親愛であって恋情ではない。
「俺の最愛の妻として、お前だけが欲しい」
「えっ?」
「え?」
疑問の声に、エドゥルガは眉根を寄せる。
「妻……ですの?」
「それ以外に何がある?お前は俺の妻だろう」
急に不機嫌になったエドゥルガを、リサーラは目が零れ落ちそうになるくらい凝視した。
「エド様はいつも私を子供扱いなさるからてっきり、その、親兄弟のようなものだと」
リサーラの発言に今度はエドゥルガが驚く番だ。
「……成る程、どうやら俺達は互いを誤解していたらしいな?……これだけ育てば問題ないよな」
「エド様?」
最後の呟きはリサーラの耳には届かず、エドゥルガは自分の上着できっちりとリサーラの格好を隠すと軽々と抱き上げた。夫妻のやり取りを静かに聞いていた面々は呆れの混じった視線を二人に向けるが、道を妨げるようなことはしない。
「……世話になった」
「ふん。二度とその面を見せんな」
アリエンヌは、エドゥルガの腕に収まっているリサーラに柔らかく微笑み、声には出さずに口を動かす。リサーラは顔を綻ばせ、小さく手を振った。皇帝夫妻を乗せた馬車は一路、街の中心へと直走る。これは、後に語り継がれるお騒がせ夫婦最初の騒乱である。以来、度々同じことが起こるなど誰も想像しなかっただろう。