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エピローグ

エピローグ



――焼け残りの話をしよう。


 結論から言えばあたしたちは死にきれなかった。

 植え込みに落ちたこともあって、あたしたちは命に関わるほどの大怪我は負わずに済んだんだ。もちろん、校舎の屋上から飛び降りて無傷で済むわけもなく、あたしは片足を骨折した上にひどい打撲を負ったけれど、とりあえずは生きている。すなおの方はといえば、ちょっと腕を打った程度でほとんど無傷。

 それが幸運だったのか、不幸だったのかはわからない。それはこれからわかることだ。


 屋上から落ちた翌日、ベッドの上でだいたいの事情を聞かされたあたしのもとに、答えの片割れがやってきた。

 あたしは春風に揺れるカーテンと透けて見える青空をぼんやりと見ながら、無言ですなおを迎えた。

 「たった一日しか経ってないのに、久しぶりに会ったような気がするよ」

 葬式に来たのかと聞きたくなるくらいに、すなおはきっちりと制服を着込んでいる。それがどういう決心の表れなのかは知らないが、直視しているとこちらが疲れてしまう。

 「周りは一日しか経ってないって言うけど、あたしはしばらく眠ってたしな……それこそ、これが悪い夢だって言われても驚かないよ」

 「悪い、夢かな」

 「悪いよ、すごくね。あたしは逃げ損ねたんだからさ」

 最高の勝ち逃げを決め込んでいたところを邪魔されて、さらには死ぬこともできなかった。

 これがみじめで最悪な夢ではなくて、なんだというんだ。

 「さらかちゃんには悪いけど、私は嬉しい。生きていれば追いかけられるんだもん。私が諦めない限り、さらかちゃんは絶対に逃げられないよ」

 「……意外。すなおって、結構怖いとこあるんだ」

 「さらかちゃんだって。正直、本当に飛び降りるなんて思ってなかったよ。追いかけちゃった私が言えた話じゃないけど」

 あたしだって、自分が本当に飛び降りられるとは思っていなかった。

 屋上へ走ったときにはもう、頭の片隅にその考えはあったけれど、考えがあっただけなんだ。死にそうな状況に身をさらして、その危険に救いを求めていただけ。

 そんなあたしを落としたのは、一時の激情だったのかもしれない。けれど、炎っていうのはそういうものだと思う。突然燃え上がって、二度と同じように燃えることはないんだ。

 「迷惑、だったかな?」

 「そんなことないよ。自分でも醜いと思うけど、嬉しかった。すなおには普通の幸せを掴んでほしいと思ってたのに、いざ奪い取るとものすごく満足したんだ。はは、最悪だよね、あたし」

 すなおの沈黙があたしにとってはありがたかった。すなおに肯定されたらあたしは怒るだろうし、否定されたら傷つくだろう。いいんだ。黙っていてくれれば、それでいい。

 しばらく続いた沈黙を破ったのは、控えめなノックの音だった。

 「入ってもいいかな」

 もともと動かない身体が、さらに強張る。

 間違いない、このぼんやりとした力のない声の主は透だ。あれだけのことがあって、どうしてここに来れる?

 驚きのあまり喋ることもできないあたしに代わって、すなおが弾んだ声で答えた。

 「ごめんね、ちょっとだけ待ってて」

 一気に、黒い絶望が胸の奥からせり上がってくる。なんなんだ。この一日の間に、あたしが寝ていた間になにがあった。透はすなおになにを吹き込んだんだ。

 痛みに顔をしかめながら身体を起こしたあたしは、生まれて初めてすなおの蔑みの視線を見た。それは殺意よりも濃く、けれど触れることすら嫌うような悪意。忌避、と言ったほうがいいかもしれない。

 そんなものをドア越しに向けられているとも知らず、男はいつもの薄ら笑いを浮かべながらドアの向こうで待っているんだろう。『君はまだ沙羅華に同情していたんだね』なんて言葉を用意しながら、自分の思い通りに事が運ぶと信じて。

 「透くんには、ここが私の病室だって伝えてあるの。だから、さらかちゃんがいるなんて思ってもみないだろうね」

 あの日、透は一度もすなおと目を合わせなかった。勝手にすなおを持ち物扱いして、雑にすなおを抱き寄せて。そのうえ一度も視線を合わせようとしなかったんだ。

 すなおはきっと、透の目的が別にあることに気づいていたんだろう。自分がその目的のための踏み台でしかなかったということにも。

 「すなおはこれでいいのか? もう戻れなくなるよ」

 「あの人の隣には、戻りたくない」

 ちいさく、痛々しい言葉。その余韻も残さずに、すなおはまた弾んだ声を作った。けれど作っているのは声だけで、顔には侮蔑の笑みが浮かんでいる。それがすなおの、透に対する純粋な気持ちなんだ。

 「入っていいよ、透くん」

 扉の向こうに見え始めた透の表情は、予想に違わず気味の悪い笑みに満たされていたが、あたしと視線が合うや否や、その余裕は音を立てて崩れ落ちた。

 「どうしたの? はやく入ってきて」

 楽しそうに急かすすなおに対して、透の様子はひどいものだ。視線は力なくふらふらとさまよい、まともな声を出すのもままならない。

 「話が、違う。沙羅華は面会謝絶で、君も、大怪我をしてるはずで……」

 しかし、目の前に真実が転がっているだけあって、透の理解は早かった。恐怖と驚きはすぐに仕舞いこまれて、代わりに静かな怒りが顔を出す。

 「僕を騙したな、直……!」

 「これでおあいこでしょ? 透くんだって私を騙してたんだから」

 絡め取るように妖艶なすなおの微笑みが、透を沼の奥底へと引きずり込んでいく。

 「僕は騙したつもりなんてない。君が騙された気になっているだけだよ」

 「そう? なら、透くんはずっと、心から私のことが好きだったんだ?」

 一拍の休符があって、ふたりの間で視線が交わされた。いかに達者な口をきいていたって、視線を結び合わせれば真意が見えてしまう。

 いつも相手をまっすぐに見ようとしてきたすなおは、視線の持つ力をよく知っている。けれど、他人を思い通りに動かすことしか考えられない透には、自分が読み取られ、操られることなんて想像もつかないだろう。それがふたりの決定的な差だ。

 「あのとき、飛び降りようとしていたのが私だったら、透くんは止めてくれたのかな」

 「そんなの止めるに決まってる」

 「じゃあ、止めてみせて?」

 すなおがポケットから取り出したのは、ちいさな果物ナイフだった。あたしたちが息をすることもできないうちに、すなおは滑らかな動作で鞘を投げ捨てる。

 すっ、と銀のきらめきがひらめいて、すなおの左手に鮮やかな切り傷が刻まれた。すなおは浮かび上がってくる血のしずくをナイフに塗りつけて、透ににこりと笑いかける。

 「これであのときと同じだよ。透くんはわたしを止められる?」

 血に濡れたナイフを自分の首に添えたすなおは、手から流れる血のことなど気にも留めず、目の前にある自分の死を恐れることもなく、万策を尽くして戦争に負けた将軍のように笑い続けていた。

――もう彼女の手に失うものはなく、彼女が恐れるものはなにもない。

 透の瞳は意地でも前へ出ようとしていた。けれど、すなおの意思と透自身の恐怖がその身体をがんじがらめにして、一歩たりとも前へ進むことを許さない。やがて、襲い来る圧力に耐えかねたのか、風に押し負けるように透は後ずさ-った。

 「透くんに勇気がないんじゃないよ。ただ、リスクとリターンが見合わないだけ。透くんにとって、私は価値のある人間じゃないの」

 あまりに痛々しくて、あたしはもう見ていられなかった。すなおが振るっているのは諸刃の剣だ。振るわなければ透を倒せないけれど、振るうほどに自分も傷ついていく。

 「でも、さらかちゃんは価値ある人間だった。そういうことでしょ?」

 いまだに逃げ道を探して見苦しい言い訳をしようとしている透に、すなおは最後の杭を刺した。

 「もう嘘をついたって仕方ないからね。騙されたことに気づいた人は、もう二度と騙されないんだよ」

 ああ、と息を吐いた透は、あたしたちに打ち克とうとする気概を完全に失って、縋るような目であたしの方を見た。

 「どうしても、僕は君に届かないのか、沙羅華」

 「ああ。もしもあたしが拠り所をなくしたとしても、お前の手だけは届かない」

 これから何度傷つこうとも、奪われようとも。孤独に凍えそうになろうとも。この男を受け入れることだけは、絶対にない。

 「……なら、もう終わりだね。確かに僕は沙羅華を手に入れたかった。直はそのための踏み台だったよ。それで全部だ」

 わかっていたことだけれど、ひどく味気なくて、つまらない幕切れだった。この男の根元にあったのは支配と独占への欲求だけ。それが恋だと言い切れる人もいるだろうけど、あたしには子供っぽくてくだらない感情だとしか思えない。

 自分の求めだけに耳を傾けていたって、なにも変わらないんだ。その恋に生きた相手は必要ない。自分の手繰る糸に従って思い通りに動く人形がひとつ、あればいい。

 「ばかみたい」

 すなおはそんな独り言をこぼして、ナイフを机の上に投げ出した。刃を濡らしていた血は、もうほとんど乾ききっている。

 透はやるべきことは終えたというように、あたしたちに背を向けた。けれど、あたしにはまだひとつ、聞いておかなくちゃいけないことがある。

 「なあ透、お前はどうしてあたしを選んだんだ。嫌われてるのはわかってただろ。それに、あたしとすなおとの関係も。それなのにあたしを選ぶなんて、全然理に適ってない」

 透は力ない背中をこちらに向けながら、ははは、と弱弱しい高笑いを上げた。

 「それこそ君が言っていた通りじゃないか。理解しているからって認めなきゃいけないわけじゃない。理屈に従っていれば傷つくことなんてないさ。でも、理屈じゃどうしようもないくらいに欲しくなるから面倒なんだよ」

 自分自身に言い返す言葉なんてあるはずもない。

 嘘しか言えないような男が、はじめて心の水底をさらしたかと思ったら、そこにあるのはあたしの言葉なんだ。こんなにもひどい皮肉ってあるか。

 「……あの賭けは、どうするんだ」

 「ああ、あれは、結局のところ僕の負けだね。僕はもう願いを叶えたから卑怯かな。いちおう、君からなにか命令があるなら聞くよ」

 「じゃあ、卑怯ついでにふたつ聞け」

――あたしの前に現われるな、すなおに近づくな。

 こうして透と話すまでは、そんなことを言おうと思っていた。いまでもこの男のことは許せないし、受け入れるつもりはない。

 けれど、いまは、もう少しだけ酷なことを言ってやろうと思っていた。

 「まずひとつ、あたしのことを忘れるな。もうひとつ、死ぬのも逃げるのも許さない」

 「僕を救ってくれるのかい?」

 「救うつもりなんてさらさらない。ずっと苦しめって言ってるんだよ、あたしは」

 「……ありがとう」

 無表情だった透の背中が、すこしだけ笑ったような気がした。

 透が病室を出て行ってからも、あたしはしばらく閉じたドアを見ていた。間違ったことをしたつもりはないし、言い忘れたこともない。

 ただ、憎しみ抜きであいつの背中を見送ってやろうと思ったんだ。

 「さらかちゃんは優しいね」

 「すなおこそ。あたしがすなおならふたりとも引っ叩いてるよ」

 「今からでも叩いてみる?」

 「いや……ごめん、それは立ち直れそうにないから、やめて」

 ふふ、とすなおが悪戯っぽく笑って、ベッドに腰掛ける。透との対決に疲れたあたしは、ベッドに全身を沈めて頭の後ろで手を組み、すなおを見上げた。

 「あ、そうだ。ジッポー預かっておいたよ。見つかっちゃうと大変だし」

 見た限り、ジッポーには傷ひとつない。主人が大怪我をしてるのに、つれないやつめ。

 「ありがと。これがないとやっぱり落ち着かないな」

 冷たいはずのジッポーが、なんとなくあたたかく感じられる。いまは、火をつけなくても耐えられそうだ。

 「……あのね。あれから、いろいろ悩んだんだ。さらかちゃんになんて言えばいいのか、言いたいのか。私がどうしたいのか」

 「それで、答えは出た?」

 「うん。まだ謝れないな、って思ったの。いま言うと嘘になっちゃう」

 だって、という言葉のあとになにが来るかはわかっていた。身体が動くなら、無理やり抱きしめて黙らせてしまいたい。聞かなくちゃいけないのはわかっているけれど、聞きたいわけじゃないんだ。

 「透くんのこと、まだ割り切れないから」

 「まだ、あいつのことが好き?」

 「ううん、そうじゃないの。もともと好きだったかもわからないくらい。ただ……信じてたから」

 すなおはあたしからふっと視線をそらして表情を隠し、顔をさらりとぬぐった。

 「私ね、裏切られるのって得意じゃないの」

 あたしたちは自然と涙をこらえてしまう。涙は目に見える弱さだ。できるなら見せない方がいいに決まっている。

 それでも閉じ込めておけない涙が、まなじりに浮かんでくるんだ。

 「そんなの、得意なやつがいてたまるかよ、ばーか」

 ようやくこちらを向いたすなおは、目を真っ赤にしながら笑った。涙はすぐに溢れかえって彼女の頬を流れ、ベッドの上にぽつぽつと落ちていく。

 「さらかちゃんは、裏切った私を許してくれる?」

 「すぐには許せないよ。これからどうなるかもわからない。でも……」

 あたしは不安に満ちたすなおの頬にそっと触れて、張り詰めた力をほぐすように撫ぜた。

 「いまは、隣にいてほしいと思ってる」

 すなおが言葉を失って口をぱくぱくさせているうちに、強引に顔を引き寄せて短いキスをした。それだけで火花が散って、力強い炎が渦巻き始める。

 「……ずるいよ」

 真っ赤になって焦るすなおの手を握ると、燃えるような熱さが直に伝わってくる。

 こうやって握り続けていれば熱さは混ざり合ってひとつになるけれど、心がひとつに重なることは、きっとない。

 でも、隣にいることはできるんだ。あたしはいま、こうしてすなおの手を握ることができる。

 たぶん明日も、その先も。

 願う限り、望む限り。

 ふたりの恋が燃え尽きるまで、いつまでも。



<了>


これにて完結です。

改題・改稿については前向きに考えているので、感想を含めご意見もお待ちしてます。

どうぞ、よろしくお願いします。


9/15

なんとなく、読み返してみて、少しだけもやが晴れました。気になるところは直して、どこかの賞に出してみようかと思っています。おそらくそれまでの公開になると思いますが、時期は未定です。

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