七章
7
「恨んでいるだろうし、憎らしいだろうね。でも、君たちの関係を壊したのは僕じゃない。いずれ壊れるはずだったものが勝手に壊れただけだよ。僕は背中を少し押しただけさ。ね、直ちゃん」
透の手がすなおの肩に触れると同時に、すなおは痺れたように動かなくなった。
「……やめろ」
あたしの地を割らんばかりの声にも動じず、透はただにたにたと笑ってすなおを引き寄せる。すなおは透になされるがまま、死に瀕した金魚のように唇をふるふると震わせていた。
「沙羅華に僕を止める権利はないよ。直ちゃんはもう君のものじゃないんだから」
「最初からすなおはモノなんかじゃない」
蔑みと憐れみの入り混じった、高慢の塊みたいな表情で透はあたしを見下す。
「いいや、モノだよ。直ちゃんだけじゃない。人はみんなモノなんだ。いつだって誰かに所有されているし、誰かを所有してる」
「下らない。あたしだって、誰のものでも……」
あたしの強い反駁を、透は蝋燭でも吹き消すように断ち切った。
「じゃあ、沙羅華は誰のために生きてるんだい? まさか、これまでずっと自分のために生きてきたなんてことは言わないよね? それこそお笑い種だ」
言葉が、間に合わない。ここで口をつぐんでしまうことは、透の言葉を認めることだ。それなのに、否定の言葉がどうしても出てこない。
「君は誰かの期待に応えてきただけだよ。自分の求めに応じたことなんて一度もない。誰のものでもないなんてよく言えるよ。君が君自身のものだったことなんて、本当にあるのかな?」
「そんなの、仕方ないだろ……そうしないと」
「生きていけない、だろう?」
「知ったような口をきくな!」
ありったけの力を振り絞って叫んだ言葉が、少しの時間を与えてくれる。
炎のような気持ちに身を任せてしまえば、消し止められておしまいだ。あたしは凍りついた毒になろう。水に少しずつ溶け出し、いずれ殺す猛毒に。
「すなおは……すなおだけはあたしを自分のものにしなかった。あたしだって同じだ。お前みたいに臆病なやつにはわからないだろうけど、あたしたちはお互いに自分をさらけ出すことを怖がらないんだ」
誰だって、すべての人間を信じることなんてできない。利用されるのも、裏切られるのも、怖いに決まってる。
――けれど、誰も信じられないのは最悪の臆病者だ。
「そう思ってるのは沙羅華だけだよ。ね、直ちゃん?」
聞くな、と言いかけたあたしの口を、すなおの視線が針のように縫いとめる。
「すなお……?」
明確な敵意を向けられているのに、理解が全く追いつかない。敵は透で、あたしはすなおを救おうとしていたはずなのに。
「さらかちゃん。私、信じていいと思ってたんだよ。ずっと好きだって言ってもらえて、本当は嬉しかった。でもね……」
気づいたんだよ、というすなおの言葉から、寂しさの破片が散った。
「さらかちゃんが変えたくないのは、この関係じゃなくて私自身なんだ、って」
すなおから向けられる視線は、いつしか敵意から悲しみに色を変えていた。失う悲しみというよりは、誰かが離れていくのを嘆くような、そんな悲しみ。
身体の中で怒りや悲しみがぐるぐるとかき回されて、かすれたうめきとなって込み上げてくる。
離れていたのはすなおの方だったのに。どうして立場が逆になっているんだ。
――どうして、あたしはすなおを束縛しようとしているんだ。
「さらかちゃんの不安は、私にはわからないけど……たぶん、私も同じくらい不安だったよ。だから、入学式の日は嬉しかった。なにがあっても好きでいてくれるんだって、心から幸せな気持ちになれたの」
「なんだよ、それ……それならどうして、あたしの気持ちを試すようなことを言ったんだよ!」
「わざと、だよ。本当は、無責任でもいいから、私がどう変わっても好きだって言って欲しかった。でもね、望むのはいけないことだって気づけたの。さらかちゃんの気持ちを私が勝手に望むなんて、フェアじゃないから。だから、それは、ごめんなさい」
騙されていたことよりも、すなおがあたしに勝手な望みを抱いたことよりも、なにより、謝られたことが心に刺さった。
謝られたら、それでもうおしまいだ。問いただす言葉も、非難する言葉も、みんな胸の内でつっかえて届かない。謝罪の言葉は断ち切る言葉なんだ。
「でも、お互い様だよね。さらかちゃんだって思い通りの私を望んでた。それって、ひどい裏切りだよ」
二の句が継げずに口ごもるあたしを見て、透は口の端を醜悪に歪めた。
「そういうことだよ、沙羅華。君が裏切って、僕が救っただけの話さ」
飲ませてやろうとしていたはずの毒が、自分の身体に染みこむ。あたしは血とも絶望ともつかない透明ななにかを吐き散らし、少しずつ、死んでいく。
「はは……はは……」
あたしは笑っているだろうか、泣いているだろうか、それとも、表情を失っているだろうか。
わからない、わからない。
「わかったよ。すなおの気持ちはよくわかった。なんにも間違ったことはない。悪者はあたしだ。あたしが裏切ったんだ。あたしが離れたんだ。いいよ、全部わかったよ」
あたしが敗北を認めたと受け取ったのか、透は口に浮かべた笑みをさらに深めた。すなおは泣き出しそうだけれど、無理に涙を抑えた様子であたしを見つめている。
このまま、あたしは走り去ればいい。
それで全てが終わる。あたしもすなおも、普通の生き方をして、普通の流れの中に組み込まれるんだ。報われない、強すぎる恋に身を焦がすことなんてない。ぬるま湯みたいに生暖かい現実に浸かって生きていけばいいんだ。
――けれど、その先になにがある?
ポケットに手を突っ込むと、あたしと同じくらい冷え込んだジッポーに触れた。火をつけようかと思ったけれど、やめておいた。ジッボーの炎よりも強く大きな炎が、身を包んでいくのを感じていたから。
「でも、認めないよ。すなおがどうしたいか、あたしにどうして欲しいかはわかってるよ。その通りにすることはできるけど、それこそ裏切りだ。あたしはもう二度と、あたしを裏切らない」
「そんなの、そんなのっ! いまさら遅いよ!」
すなおの頬を伝うものが見えて、あたしは彼女を泣かせてしまったことを悟ると同時に、少しだけ安心した。まだ、すなおはあたしのために涙を流してくれるんだ。
「わかってる。だから、すなおに思い直してくれなんてわがままは言わない。あたしの気が済むようにするだけだよ」
一歩、後ずさる。まだ距離には余裕があるとわかっていても、柵のない屋上は端へ近づくだけで寒気がする。
すなおは目を見開き、あたしに向けて手を伸ばそうとしたけれど、その手は空を掴んでだらりと力を失った。
これでいい。すなおはこっちに来ちゃいけない。でも、来なかったことを一生悔やむんだ。その傷があたしの恋の証になる。
次の一歩に踏み切る頃にはもう、ためらいは決意に焼き尽くされていた。信念を裏付けるために、あたしは力強く歩を進める。
「なにをしてる!」
さっきまでの余裕綽々たる態度が嘘のように、透は焦燥をあらわにしてわめきだす。
「こんなはずじゃないんだ! 僕は、ここまで沙羅華を追い詰めるつもりなんて、少しも」
「寄るな。お前がどう思おうと関係ない。あたしはお前のものじゃないんだから、お前の好きにはならないよ」
それ以上透の顔を見るのもばかばかしくて、あたしはふたりに背を向けた。もう、太陽は山並みに飲み込まれていて、赤い光の残滓も夜に塗り潰されようとしている。
「やめろ……やめろ! やめてくれ!」
あたしを救うための懇願というより、むしろそれは自分を救おうとしているように聞こえた。結局はそういうことだ。あたしには他人しか見えていないかもしれないけれど、透には自分しか見えていないんだ。
「お前じゃあたしには届かないよ。火に飛び込む覚悟がないなら近づくな。一緒に燃え尽きてくれる人間しか、あたしは受け入れない」
屋上の淵から見渡す世界が、青い光で満たされ始めた。真っ黒な夜と、赤々と燃える夕方のはざま。青だけが満ち溢れるブルーモーメント。
「さらかちゃん」
こんなに揺らいでいるすなおの声ははじめて聞いた。あんなに純粋で強かったすなおが、無力な子供のように泣いている。
「そんな申し訳なさそうにしないで。あたしはいま、すなおを傷つけるんだよ? もっと怒ればいいんだ」
「怒れるわけない。恋して傷つかない人なんて、いないよ……」
「あはは、うれしいな。やっとあたしの気持ちを恋だって認めてくれた」
唇を軽く噛むと、まだ新しいかさぶたが破れて、口の中に鉄の味が広がった。すなおとの恋で負った傷が、今はどうしようもなく愛おしい。
「幸せになってね、すなお。でも、あたしのことは忘れさせない」
虚空へと足を踏み出そうとした、その瞬間。
「沙羅華!」
振り返ると、すなおを救うはずだった男が、こちらへ駆け寄ろうとしていた。
お前は、お前だけは、そこにいなくちゃいけないんだ。砕け散ったあたしを見下ろしてにたにたと勝ち誇り、すなおの手を引いてどこかへ消える。それがお前の役目なんだ。それなのに、それなのに。
最後くらい、思い通りになったっていいじゃないか。最後まで思い通りにならないのか。そんなのってないだろ。
「来るんじゃない!」
あたしの叫びは、思いもよらない形で現実になった。
透の横で縮こまっていたすなおが、走る透の袖口を掴んで強引に引き倒す。そして、あたしと透が呆気に取られているうちに、こちらへと駆け出してきたんだ。
この期に及んで、すなおがあたしを止める? いいや、そんなこと、あるわけがない。
なんにせよ、もう遅いんだ。なにもかもが遅すぎた。ここに留まる時間が惜しい。
「大好きだよ。さよなら、すなお」
絶望的な表情で地面を這いずる透を一瞥してあたしは笑い、駆け寄ってくるすなおには人生で最後の、けれど最高の笑顔を贈った。
もう、足は地面から離れかけている。背中から倒れこむようにして、あたしは青い光の中へ落ちようとしていた。
全身を冷たい風が殴りつけていくけれど、あたしの身体を焦がす恋の炎は勢いを増すばかりだ。
――焦がせ、燃やせ。焼き尽くして、灰にしろ。
かかとに掛かる重みがなくなって、遂にあたしと世界との繋がりが焼き切られようとしたその時。
「さよならじゃない!」
燃え上がるあたしに向かって、ひとりの勇敢な女の子が飛び込んできた。
一緒に燃え尽きてしまうのはわかりきったことなのに、破滅しか待っていないのに。
それでも、すなおはあたしを選んだんだ。
怒りよりも喜びの方が破裂しそうなほど膨らんで、あたしはすなおを抱きしめた。少しも燃え残ることのないように、つよく、つよく。
「もっと早く、勇気が出せたらよかった」
そんなことを言って笑うすなおに、あたしはなにも気の利いた言葉を返せず、ただ一言呟いた。
「……遅いよ、ばか」
青い静謐を切り裂いて、あたしたちは燃え上がり落ちていく。
生きたまま身を焦がすことは、なにより痛みを伴う。そしてあとには灰が残るのみ。そんな残酷な宿命が、ずっとあたしの頭のどこかでくすぶっていた。熱くて痛い、恐怖の象徴が燃えていたんだ。
だけど、恋の炎はこんなにも優しくて、こんなにも暖かい。
――ふたりのくちびるが触れて、世界は燃え尽きた。