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六章

6


 一段と強い風が、眼下の校庭に渦巻いた。

 桜の絨毯が引き剥がされて、切り刻むような風音と共に舞い上がる。けれど、ここまで届くものはひとひらもない。どこにもたどり着けずに、花びらはまた地面へと落ちていく。

 「話さなきゃいけないことがあるの」

 その声に怯えや戸惑いの色はない。例えるならそれは、冷たく透き通った純水の氷。

 あたしはその冷たさに心地よさと同じだけの恐怖を感じながら、振り向かずにちいさく頷いて応えた。言葉を尽くす必要はない。姿を見る必要もない。あたしたちが目指し、手に入れたものは、これだけ強いつながりなんだ。

――それがいま、壊れようとしている。

 「ねえ、さらかちゃんは私のこと、好き?」

 好きだよ、とあたしは軽く風に乗せるように呟いた。

 何度言葉にしてきたことだろう。何度心の中で呟いたことだろう。

 繰り返せば繰り返すほど言葉は変わっていく。思いの重ね塗りが強さを与えてくれることもあるし、塗りすぎた思いは陳腐になってしまうこともある。

 でも、あたしの気持ちはずっと強くなってきた。今になっても、繰り返すたびに強くなっていくのを感じる。炎は油を注ぐほど強くなるんだ。

 注ぎすぎた先に待つものは、なにもかもを焼き尽くす破滅だ。けれど、それも悪くない。

 焼けるものなら焼き尽くしてしまおう。あたしの恋で、このどうしようもなく冷たい世界を。

 「すなおはどう? あたしのこと、いまでも好き?」

 「……ひどい言い方」

 あたしはちょっと大げさに肩をすくめて見せた。ああ、嫌だろうさ。あたしだってこんな皮肉みたいな言い方は大嫌いだ。

 「言わせたのはすなおだよ。ひどいことをしたのは、そっちが先」

 「さらかちゃんは勘違いしてるよ。私、さらかちゃんのことが嫌いになったわけじゃない」

 氷漬けにしていた感情の塊に、すなおの言葉がアイスピックのように突き刺さる。がり、がり。がり、がりと、あたしの虚飾が削り落とされていく。

 「でも、あたしより好きな人ができたんでしょ」

 そうだ、という答えが返ってくるはずだった。信じるだけではなく、あたしはそれを望んですらいた。そう、望んでいたのに。

 「違うよ」

 あたしは思わず振り返り、怒りと驚きを隠しもせずにすなおを睨みつけた。もっとも、あたしはそういうものの隠し方をよく知らないけれど。

 「あたし、すなおのこと勘違いしてたかもね。その場しのぎのくだらない嘘だけは言わないと思ってたよ」

 殴りつけるような悪意の視線と言葉にも屈さず、すなおはあたしに負けないほど強くこちらを見つめてくる。瞳の奥には刃のようなきらめきがあって、曇ることはない。

 「嘘じゃないよ。私、さらかちゃんにだけは、どんな嘘もついたことないって言い切れる」

 「じゃあ、透への気持ちが嘘なのか!」

 荒々しく燃え上がる炎は、もうあたしの手から離れている。自分の口から出る言葉のひとつひとつが、自分の身をも焦がしていく。

 「それも違う。ねえ、さらかちゃん。好きって気持ちはひとつじゃないんだよ」

 「そんなこともわからないほど子供じゃない!」

 「わかってないよ。絶対、わかってない。さらかちゃんは私よりもずっと賢いけど、言葉しか知らないんだから」

――心臓を、じかに掴まれた。

 あたしはたくさんの言葉を知っている。それを使って身を守り、小狡く立ち回ってきた。けれど、その背後にある気持ちは、いつでも冷え切ったままで、子供のように弱かったんだ。

 そして、そんな弱さを隠し通せるほど、あたしは強い人間ではなかった。自分の弱さを赦し、受け入れてくれるひとが必要だったんだ。誰よりもあたしの心に近づいてくれて、偽りなくあたしを愛してくれるひとが。

 「言葉でごまかすのは上手くなったけど、根元はなにも変わってないよね。誰かが与えてくれるのを待って、自分から手に入れようとなんてしない。それじゃ赤ちゃんと同じだよ。親のことだけ見てて、自分の望みなんてまるで考えられないんだから」

 日が刻々と沈んでいき、周囲の色がどんどん青に近づく。昼と夜の境に満ちる海に、あたしは飲み込まれていく。空気を失ったあたしの口からは、どんな言葉も出てこない。暴れ狂う炎も、空気を奪われればそれまでだ。

 「さらかちゃんは好きになりたいんじゃなくて、好きになってほしいだけなんだよ」

 水が満ち満ちて、あたしを溺れさせる。水はあたしをこじ開けるように流れ込んできて、身体の隅から隅まで行き渡る。心の氷は水に溶け出し、あたしはどんどん自分を失っていく。

 「その『好き』を与えてくれるひとは、私じゃなくてもいいんだよ。たまたま近くにいたから、わたしがその場所に納まっただけ。さらかちゃんがわかっていないだけで、ここにいるのは男のひとでもいいんだと思う。もう少し大人になれば、きっとわかるよ」

 「どうして……どうして、ひとりで大人になっちゃうんだよ。あたしたちだけは特別だったはずなのに……」

 「ごめんね。でも、気づいちゃったの。私たちは特別でいたかったけど、特別にはなれなかった。みんな大人になるんだよ。例外なんて、ひとつもないの」

 今ばかりは、すなおとの繋がりが憎らしかった。信じたくないのに、認めたくないのに、すなおの想いがわかってしまう。その揺るぎない決心の固さが、伝わってしまう。

 「だから、ね。もう、大人になろう? 一緒になって恋の夢を見るのはやめようよ。普通に友達を作って、普通に男のひとと恋をして、それでいい……ううん、それがきっと正しいよ」

 「正しいって、なんだよ」

 「そうしないと、生きていけないってこと」

 すなおの苦々しい言葉を聞いてようやく、あたしは知った。この子は現実と戦い続けることをやめたんだ。

 すなおに越えられない壁を示したやつがいる。乗り越える事を考えられないほどに叩き潰し、その上でちいさな救いを与えて、すなおを挫いた男が。

 「そういうことだよ、沙羅華。最初から僕が賭けに勝つのはわかっていたんだ。だって、それが正しい事だからね」

 屋上に現れた男は、勝利を確信した様子であたしをあざわらった。

 恋の炎を消しとめ、自分の思いのままにすべてを飲み込む水。それが、透という男の正体だったんだ。

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