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三章

3



 恋に他人を巻き込んではいけない。

 あたしの自論だけど、恋は多対多のスポーツみたいなものじゃない。一対一の真剣勝負なんだ。

 そもそも、あたしたちはふたり以上の人間と同時に向き合えるようには作られていない。人間の顔はひとつだけ。阿修羅みたいにいくつもついてるわけじゃない。

 だけど、手はふたつついている。ひとりしか見えなくても、ふたりと繋がっていることはできるんだ。

――透はあたしと同じように、すなおにその両手を費やした。

 下校についてくるのはもちろん、暇さえあれば透はすなおと話そうとした。もちろん割り込むことは簡単だったし、やろうと思えば無理やりふたりを引き離すことだってできた。

 あたしがそれをしなかった理由は至極単純。すなおへの信頼を示すためだ。透のように下劣な人間にすなおが揺らぐなんてありえない。そう信じているんだと、あたしは示さなきゃいけなかった。実際信じているかどうかは別として。

 他人を信じることは、それだけ自分を信じないということだ。あたしは心からすなおを信じきって、自分の不安には耳を貸さなかった。けれど、聞こうとしなくても耳に入ってしまうものはあるし、見ようとしなくても見えてしまうものはある。

 当たり前の話だけど、あたしたちには耳と目がふたつずつあって、蓋になる手のひらはふたつしかない。全部断ち切るには足りないように作ってあるんだ。

 あたしがずっと耐え切れなかったのも、至極当然のこと。


 入学式から一週間ほどが経って、新しい生活にも落ち着きが出始めた頃。

 膨らむ疑念を抑えつけられなくなったあたしは、全てを問いただすつもりですなおの家を訪れた。元来あたしは我慢強いほうじゃない。忍耐や躊躇なんて、素直さからは程遠い言葉だ。

 「いらっしゃい、さらかちゃん」

 出迎えてくれたすなおの姿を見て、あたしは一瞬息を呑んだ。

 白いブラウスの上に爽やかな水色のベスト、いまにも浮かびそうなほどフリルがついた薄手の真っ黒なスカート。女の子というよりは、女そのものといった雰囲気だ。

――いつか、すなおがあたしに話してくれたことがある。

 『服って、自分を作るために着るものでしょ? 場所とか人に合わせて、自分じゃない自分も作るものだと思うの。それがね、なんだか嘘をついてるみたいで、私はあんまり好きじゃないんだ』

 すなおらしいと思いつつ、『だったら裸で暮らす?』とあたしが茶化したら、すなおは真っ赤になって怒ってたっけ。

 「どうしたの、オシャレしちゃってさ」

 あたしはからかうように言ったけれど、すなおには言葉の裏まで伝わったらしい。

 「ちょっとだけ、長い話になるよ」

 それきりあたしたちは言葉を交わさないまま、足音も立てずにすなおの部屋へ向かった。

 すなおの部屋の大きな窓には薄いレースのカーテンがかかっているけれど、あまり外からの視線を遮る用は成していない。ピンクの遮光カーテンもあるのに、すなおはほとんどそのカーテンを閉めなかった。自分を隠すことを恐れているのか、それとも外との繋がりを失くすのが怖いのか。なんにせよ、開けた場所というものにすなおは執着を持っていた。

 それなのに、すなおは部屋に入るなりカーテンをぴしゃりと閉める。明かりはつけていないから、あたしたちを照らすものはカーテンから漏れ出すわずかな光だけだ。暖色が満ちて色鮮やかだったすなおの部屋は、いまや殺伐としたグレースケールに沈んでいる。

 「どうしたんだよ。今日はなんか、らしくない」

 「らしくないって、なに?」

 すなおの言葉には季節外れのつららみたいな雰囲気があったけれど、暗さとわずかな逆光でその表情はわからない。

 「いつものすなおじゃないって言ってんの」

 「さらかちゃんは、いつもの私じゃないとだめなの?」

 「……そういうわけじゃないけど」

 「なら、私が変わっても好きでいてくれる?」

 なにかが、喉に詰めこまれるような心地がした。

 「入学式の日、さらかちゃんは私のことをずっと好きでいてくれるって言ったよね。でも、あれは心からの言葉? いまここで、もう一度同じこと言える?」

 確かに、あの日のあたしは甘かった。あたたかい春風にのぼせて、なにも考えちゃいなかったんだ。

 これまでのすなおが好きだといえば、これからのすなおを否定することになる。けれど、これからのすなおを簡単に受け止めるのは、いまのすなおを軽く見ることだ。

 どちらにせよ、すなおの一部を否定することは避けられない。あたしはナイフを手渡され、突き刺す場所を選べと言われているんだ。ナイフを放り投げて逃げる事も、自分に突き刺す事もできる。けれど、すなおが求めているのはそんなことじゃない。

 「……正直、あたしはいつものすなおが好きだよ。変わっても好きだって言ってあげたいのは山々だけど、言えない。すなおがどう変わって、その時のあたしがどう変わってるかなんてわかんないんだ。まだわかんない未来のことを決めてかかるのは不誠実だった。ごめん」

 「ありがと。さらかちゃんは昔から変わらないね。そういうところ、大好き」

 まだまだ言葉を重ねようと思っていたのに、すなおのその一言であたしの口は縫い合わされてしまう。聞きなれた、そして言いなれた言葉なのに。好きって言葉は聞くたびに違った色をしている。

 「私ね、自分でも高校に入ってから少し変わったと思うんだ。いろんな人に会って、自分が少しずつ変わってるの」

 すとん、とベッドに腰掛けたすなおに合わせて、あたしも向かい合ったソファに身体を預けた。なにかに寄りかかると、少しだけ不安が紛れる。

 「いろんな人っていうのは、透とか?」

 極力自然に聞いたつもりだったけれど、意識せずとも言葉にはトゲが混じってしまう。そして、すなおはそういうところを見逃さない。

 「さらかちゃん、隠し事が苦手だよね」

 くすくすと笑ってから、すなおははっきりと言い切った。

 「さらかちゃんが心配しているようなことはないから、安心して」

 「……じゃあ、どうしてあいつと一緒にいるの?」

 「さらかちゃんのことをもっと知りたいからだよ。それじゃあ、いけない?」

 太陽に雲がかかったのか、窓から差し込む光が一瞬和らぐ。逆光が薄れてようやく見えたすなおの表情は、凪いだ水面のように穏やかだった。あたしはその微笑みに包み込まれそうになって、慌てて視線を逃がす。

 「さらかちゃんとはずっと一緒にいるけど、私は自分の目から見たさらかちゃんしか知らないの。それってすごく、寂しいことだよ」

 「だからって、どうして透じゃなきゃいけないんだよ。正直言ってあたしはあいつが嫌いなんだ。できれば、すなおには近づいて欲しくない」

 「近づくな、って言わないんだね」

 「強制はしたくないし、できないから」

 相手を自分の思い通りにする関係なんて、恋とも信頼とも程遠い。ただの主従関係だ。

 「でも、お願いはする。頼むから、あいつにだけは近づかないで」

 「ごめんね。そのお願いは聞けない」

 どうして、というあたしの乾いた声を、すなおが上塗りする。

 「どうしても、さらかちゃんの嫌いな人のことが知りたいの」

 「あたしの言葉じゃ足りない?」

 「言葉なんて足りないものばっかりだよ。なにかを伝えるのって、そんなに簡単じゃないの」

 すなおはあたしが足りないって言ってるわけじゃない。言葉が足りないって言ってるだけなんだ。あたしが不安がることなんてなにもない。それがわかっていても、あたしは自分を抑えることができなかった。

 ちいさな不安が胸の中で爆発的に膨らんで、やがてそれは行き場のない怒りへと姿を変える。あたしは跳ねるようにソファから立ち上がり、すなおをベッドの上に突き倒した。左手ですなおの華奢な肩を押さえつけ、右手はベッドに突き立てる。すなおの柔らかさと、シーツのなめらかさがあたしの中で混ざり合い、理性を優しく蝕んでいく。

 「足りないなら、いくらでもぶつけてやるよ。すなおがあたしでいっぱいになるまで、いくらでも」

 勢いですなおを壊してしまいそうなほどに気を荒立たせるあたしとは対照的に、すなおは縮こまることもなく、顔の前にかかったあたしの髪を嬉しそうに撫ぜてみせる。そして、半ば恍惚とした口調で呟いた。

 「喋っても、触れても、足りないものは足りないよ。私たちの繋がりはそんなものじゃないって、さらかちゃんだってわかってるでしょ?」

 わかってても、不安なものは不安なんだ。

 そう口にする代わりに、すなおに唇を押し付けた。奪うように、傷つけるように、乱暴なキス。あたしはただ、気持ちの行き場を求めていた。

 短く力強いキスで全身の力を使い果たし、あたしは力なくすなおから離れる。

 「……今日はもう、帰るよ」

 またね、という短い言葉すらまともに聞かず、あたしは逃げるようにすなおの家を去った。


 家に帰ってから、あたしはふと違和感を覚えて指で自分の唇を触った。

 べとり、と指を汚したのは、蛇の舌みたいに鮮やかで醜悪な口紅。あたしはそれを見るなり洗面所へ駆け込み、擦り切れるほど執拗に唇を洗った。洗っても洗っても口紅が残っている気がして落ち着かず、唇から血が出てきてようやくあたしは手を止めた。

 洗面台の鏡に映るあたしの顔は死人のように青ざめて、肩は小刻みに震えている。口紅よりも赤くなった唇から血が一筋したたって、白い陶製の洗面台に一点の赤い汚れを作った。

 あたしは、口紅が大嫌いだ。化粧は嫌でも女を意識させる。中でも口紅は最悪だ。嘘をつくやつら、自分を作るやつらはみんな口紅をつける。自分の口で喋るつもりがないから、きれいな毒を塗りたくるんだ。

 ぼたり、ぼたりと血のしずくが落ちるたび、脳裏にすなおの笑顔が浮かぶ。

 あんなに可愛らしい笑顔。あんなに愛しかったはずの笑顔。今やそれは恐怖となって、あたしの身体をいつまでも震えさせていた。

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