二章
2
割れや欠けに気付くのは簡単だけど、歪みに気付くのは難しい。
気付いたとしても、簡単に見過ごしてしまうんだ。この程度なら大丈夫だろう、問題は起きないだろうって。
でも、歪みってやつは見た目以上に深刻なんだ。音も立てず、欠片一つこぼさずに、歪みは少しずつ大きくなっていく。目に見えて危険がわかるほど大きくなったらもう遅い。あとは耐えきれずにぽっきりと折れるだけだ。
――始業式が終わり、新しいクラスの顔合わせもだいたい終わった。
初日の印象はまずまずといったところ。尖りすぎたやつはいないし、変に馴れ馴れしいやつもいない。さすが進学校、ほどよく打ち込まれた杭ばかりだ。
ただひとつ気になったのは、面倒なやつが紛れていたこと。
「沙羅華、いま帰るとこ?」
教室を出ようとしていたすなおとあたしを呼びとめた男は影近透。あたしのいとこで、あたしがこの世で最も嫌う人間のひとりだ。
透はいつもへらへらと薄く笑い、感情を表に出そうとしない。体つきはひ弱で、意志の弱さがそのままにじみ出るようだった。けれど、なによりあたしを苛立たせるのは、なにもかも見通したような視線だった。人を見ただけで理解したとタカをくくるような、最悪の人間がする目つき。
「なんの用だよ」
「一緒に帰らないかと思ってさ」
そう言って、透はいつもの平たい笑顔を向けてくる。どこに感情があるのかわからない、まっさらな顔。普通の人間の表情がテレビの画面だとすれば、こいつはただのもライトだ。点いているか消えているかのふたつしかない。
あたしは湧きあがる嫌悪感を隠さずに透を睨みつけた。これ以上あたしに関わるなと、心からの忌避を込めて。
「悪いけど、あたしはすなおと帰るから」
残念だよ、とさして残念そうでもない声で呟くと、透はそのまま歩き去ろうとした。あたしは逃げる敵の背中に矢を放つような清々しい気分でその背中を見送る。いいざまだ。
ところが、あたしは敵に気を取られて、背後にいる味方が放った矢に気付かなかったんだ。
「いいよ、透くんも一緒に帰ろう?」
ざくり、と音を立てて言葉の矢があたしの心臓を食い破る。
「すなお、こいつはひとりで帰るよ」
「どうしてさらかちゃんが決めるの?」
すなおにはこういうごまかしが一切通用しない。迂回やカーブで障害物を避けることができないんだ。とりあえず、まっすぐ当たってみてから判断する。そのまっすぐな生き方はすなおの美点であり、弱点でもあった。
「……わかったよ。行くぞ」
これ以上食い下がっても、すなおは折れないしあたしは無様なところを見せるだけだ。微笑むすなおと面食らった顔の透を置いて、あたしは先に教室から出た。
透があたしたちの世界に入り込んできたことに対する苛立ちはあったけれど、危機感はさほどなかった。あいつも男だからすなおに惚れることはあるかもしれない。それでも、すなおが透に恋することだけは絶対にないと確信していたんだ。
その帰り道、あたしは心の中で数え切れないほど舌打ちをしていた。
「へえ、透くん、さらかちゃんのいとこなんだ」
「まあね。家も近いから沙羅華とは幼馴染みたいなものだよ」
それほど抑揚もなく喋っているのに、透の言葉からは得意げなものを感じてしまう。昔から知っているだけで、あたしのことを知り尽くしているかのように。
「じゃあ、私よりずっとさらかちゃんのこと知ってるんだね」
すなおの笑顔から、寂しさがどろどろと溶けだすようだった。今すぐに抱きしめなければ、そのまま寂しさごと溶けて消えてしまいそうで。
「こいつはなにも知らないよ。隣に住んでただけで、学校もずっと違ったんだから」
手で抱きしめられない代わりに、言葉で抱きしめる。実際、透なんかよりもすなおと過ごした時間の方がよっぽど長いんだ。私立の学校に通い続けていた透なんて、ただの隣人、親戚以上の何者でもない。
あたしの言葉ですなおの表情から寂しさの影は少しだけ引いたように見えたけれど、それでもなくなるわけじゃない。できるなら、全ての時間をすなおに捧げてしまいたい。すなお以外にあたしを知る人間なんて、いなくていい。
「ま、そうだね。直ちゃんはずっと沙羅華と一緒な学校なの?」
「うん。昔からずっと、さらかちゃんは一番の親友だよ」
恋人だ、なんて言えるはずはないのに、あたしはまるで無数の釘の上で寝そべっているような気分だった。身体に釘が刺さることはないけれど、寝心地は最悪。痛みに満たない、ぞわぞわとした不快感が全身を這いまわる。
――それからしばらく、地獄のような時間が続いた。
透はすなおのことや、あたしとすなおの関係についてしつこく聞いてきた。もちろん、あたしはまともに取り合おうともしなかったが、すなおは真っ正直に答えていた。けれど、あたしたちの関係まで正直に言うわけにはいかないから、喋るのは当たり障りのないことばかり。
すなおにただの友達扱いされるのは、あたしにとってはひどい苦痛だった。
「あ、私夕飯の買い出しがあるから、今日はここで」
すなおの言葉がもう少し遅かったら、あたしはその場から逃げ出してしまっていたかもしれない。
「そっか、じゃあまた明日、直ちゃん」
「またね、すなお」
「うん、じゃあね」
あたしはすなおの背中を見送ることもなく、すぐさま歩きだした。とにかく足早に、できたら透を追いつかせないくらいの気持ちで。
「どうしてそんなに急いでるの?」
「用事があるんだよ、じゃあな」
遠くから聞こえてくる透の声に振り向きもせず、あたしは脇道へ入った。それからいくつかの角を曲がって戻ってきたのは、すなおが歩いていった道。
案の定、すなおはまだ見えるところにいた。背が低くて歩幅が小さいから、歩くペースが人よりも遅いんだ。それなのに、さっきは歩調の速い透に合わせようとして、ずいぶん早足になっていた。透はそんなことにも気付かず、自分のペースで歩き続けていたんだ。なんて気の回らない男。
「すーなおっ。あたしも買い物付き合うよ」
声をかけながら隣に並ぶと、すなおは面食らった顔であたしを見つめ、やがてフグみたいに頬を膨らませた。
「もう! 透くんはどうしたの?」
「あいつは帰ったよ。なんか用事でもあったんだろうさ」
嘘ではないけれど、ごまかしてはいる。透に対しての罪悪感は全くなかったけれど、すなおに本当のことを言わない罪悪感は強くて、すぐに感づかれてしまう。すなおと一緒にいると、どれだけ押さえつけても感情が表に浮かんできてしまう。
「……置いてきたんでしょ」
「そうとも言う」
もう、と言いながらもすなおはあたしの方へ手を差し出す。グーでもなく、パーでもなく。ふたつでひとつになる形。
「あたしはただの友達じゃなかった?」
透のことで心が荒んでいたあたしは、つい余計なひと言を付け加えてしまう。黙って手を出せばいいのはわかってる。それで仲直りして、いつもみたいに笑いあえるのも。
だけど、あたしはわがままなんだ。このやりきれない気持ちをすなおには受け止めて欲しくなる。
「友達でも手は繋ぐよ、でも……」
すなおはあたしの手を取ると、指を絡めるようにあたしの手のひらを握った。いわゆる、恋人つなぎというやつ。
「恋人じゃないと、こんな繋ぎ方できないよ」
意地悪を言った手前、あたしはそう簡単に折れることができずに平静を装っていた。それでも、繋いだ手のひらからすなおの脈が感じられて、すなおも同じようにあたしの脈を感じているんだと思うと急に恥ずかしくなって、耳まで熱くなってしまった。
ここで負けるわけにはいかない。すなおに主導権を握られるのも悪くないけど、あたしはすなおの恥ずかしがるところが見たい。
周囲を見回すと、ちょうどよく人影がなかった。今なら大丈夫。安全確認をするや否や、あたしはすなおのつやつやした頬に口付けた。
つつくような一瞬のキス。でも、すなおを茹で上げるにはそれだけで十分だった。
「さ、さらかちゃん! こんなところで……」
「恋人だから、こんなところでもキスできるんだよ」
すなおは真っ赤になって、もう喋ることもできなくなってしまう。
――いつになっても、あたしたちは付き合いだしたばかりの恋人のようだった。
他人の前では友達で、ふたりきりの時は恋人。そんな不思議な関係が、あたしたちを常に恋する女の子でいさせてくれた。きっとそれは、これからも続いていくのだと思っていた。
けれど、全てを壊す歪みはすぐ近くまで迫っていて、あたしはそれに気付くことができなかったんだ。