【短編】わらしべ令嬢ですが婚約破棄をされるたびに、わらしべっていたら最強令嬢になっていました
◇1つ目の婚約破棄◇
クラウゼル侯爵家のダンスパーティは、噂で聞いていた以上に華やかだった。
この地方を取り仕切っているクラウゼル侯爵は、定期的にパーティや晩餐会を開いて、派閥の結束を示したいのだろう。
私の家、ベルフォード男爵家も、古くからクラウゼル侯爵家を中心とする西部派閥に属している。
本格的な楽団が奏でる音楽に合わせて、皆、楽しそうに踊っている、そんな中、私は隠れるようにダンスホールの壁ぎわにいた。
「ダンスかぁ……。練習も大してしていないし、踊ってくれる相手もいないものね……」
正直なところ、ダンスに誘われても困るのだ。
婚約者のセドリックに、パーティに参加するようにと連絡がきたのは昨日のことだった。
――エリス・ベルフォード男爵令嬢、急な話で悪いが、明日のクラウゼル侯爵家ダンスパーティには、必ず出席してくれ。
どこかのカフェの紙ナプキンに走り書きされた手紙をもらったときは、本当に驚いた。
そんな風に急に決まったことなので、新しいドレスを準備する時間もなく、徹夜で古いドレスを手直しして着てきたのだ。
靴もボロボロだし、しかもドレスの色に合っていない。
髪にいたっては、年老いた侍女のマーサが結い上げてくれたのだけど、すでに崩れ始めている。
もし母が生きていれば……と思わずにはいられない。
きっと色々と助けてくれただろう。
でも母は、私が幼い頃に、流行り病で亡くなっている。
「はぁ……こんなパーティ、来たくなかったな……」
参加すれば恥をかくだけだと分かっているパーティに出席したのは、婚約者のセドリックから強く勧められたからだった。
セドリック・バルモア男爵令息と婚約したのは、ちょうど三か月ほど前のこと。
クラウゼル侯爵夫妻から持ちかけられた縁談で、私も父も断ることができなかった。
バルモア男爵家は、外国から香辛料を輸入して、最近、力をつけてきた家だ。
貴族は香辛料を富の象徴だと考えているから、儲かって仕方がないらしい。
そんな勢いのあるバルモア男爵家を、クラウゼル侯爵家の味方につけるべく選ばれたのが、私だったというわけ。
実際のところ、クラウゼル侯爵家の傘下の貴族家で、まだ婚約者のいない令嬢が私しかいなかったというだけの話なんだけどね。
私の家、ベルフォード男爵家は代々、王国の橋や街道、堤防づくりを任されてきた家だった。
父と兄は王国建設局に勤めており、王宮よりも工事現場にいる日のほうが多い。
橋と街道と堤防を作る家。
地味だけど、国には必要な家。
けれど社交界では、貧乏男爵家でしかなかった。
そんなわけで婚約して三か月になるセドリック・バルモア男爵令息なんだけど、正直、あまり仲は良くない。
今日だって、迎えにもこなかった。
もっというと、このパーティ会場でセドリックに会っていない。
私はてっきりセドリックが迎えに来てくれると思っていたのだ。
だって、向こうから誘ってきたのだし、婚約者同士でパーティに出席するなら、迎えにくるよね?
なのに時間になっても来なかった。
パーティに遅刻するとまずいと思い、ひとりでここまで来たのだ。
うちの執事ウォルターが、念のためと言って馬車の準備をしておいてくれてよかった。
「もう美味しいものでも食べて、サッサと帰ろう……」
そんなわけで、ホールに準備されたビュッフェへ行こうと、歩き出したときだった。
「あらー! エリスじゃない! なんであんたがここにいるのよ?」
うわー。嫌な奴に会っちゃったなぁ。
盛りすぎじゃないかというくらい、髪を高く結い上げた令嬢は、私の幼馴染のヴィオラ・クレメンス子爵令嬢だ。
クレメンス子爵家は領地が隣なので、昔からの知り合いだ。
でも、家族ぐるみの付き合いはしていない。
クレメンス子爵は、王宮務めの私の父を小役人と陰で呼んで見下しているのだ。
そんな父親を見て育ったヴィオラも、当然のように私を見下して、マウントを取ってくる。
「ねえ、見て! ドレス、新調したのよ。王都へ遊びに行ったとき、仕立てたの。素敵でしょ?」
ヴィオラは自分のドレスを見せつけてから、わざとらしく私のドレスを覗き込んだ。
「あらあら、エリス! ドレスのここ、破れてるわよ? いえ、ちゃんと繕ってはあるのね」
ヴィオラがチラチラと周囲を見ながら、大きな声で話す。もちろん、わざとだ。
繕ったドレスしか着てこられない貧乏貴族の娘――そう印象づけたいのだろう。
周囲から、くすくすと笑い声が聞こえる。
もう恥ずかしくて、下を向くしかなかった。
「待ってよ、エリス。実はあなたに大切なお話があるのよ。あ、セドリック! こっちよ、こっち!」
セドリック?
まさかと思ってヴィオラが親しげに手を振った先を見ると、そこには私の婚約者セドリックがいた。
「セドリック! あなた、今までなにをしていたの?」
私が問いかけると、彼はにやにや笑いながら近づいてきて、なぜかヴィオラの腰に手を回した。
ヴィオラもセドリックにしなだれかかりながら、私のほうを小馬鹿にしたように見てくる。
私を笑っていた周囲の貴族たちも、面白いものが始まると思ったのか、静かになり、私たちを囲むように円を作った。
「エリス・ベルフォード男爵令嬢、お前との婚約をここに破棄する!」
「はい? 婚約破棄……」
セドリックが大声で婚約破棄を宣言すると、周囲から「キャア!」「本物の婚約破棄だわ!」などと令嬢たちの興奮した声が聞こえる。
みんなから見られていると思うと恥ずかしい。
でも、ここで黙って引き下がるわけにはいかない。
この場に父と兄がいない以上、ベルフォード男爵家を代表するのは私なのだから。
「セドリック様、あなたとの婚約はクラウゼル侯爵夫妻からいただいたお話ですわ。侯爵夫妻にお話は通してありますの?」
「もちろんだよ。君のぼんくらな父親や兄と一緒にしないでくれるかい? 先週には侯爵夫妻から許可をとってあるよ」
父と兄を馬鹿にされた。
その瞬間、恥ずかしさより怒りが勝った。
けれど、セドリックは私を見ていない。
周囲を取り囲んだ貴族たちに向かって話している。
「まず、ベルフォード男爵家が貧乏なことだ。堤防の修復に金と時間ばかり取られて、発展性もない。お先真っ暗だ。うちが縁をつなげる必要があるとは思えないね」
「なっ! なんということをおっしゃるのです! 失礼な!」
「それから、エリスは地味すぎて私の妻にふさわしくない。僕は香辛料を扱う商会をやっている。他国の商談や夜会に出る機会も多い。社交的で華やかな人じゃなきゃ務まらないよ」
周囲から一斉に、笑いが湧き起こる。
「これだけ理由があれば、皆さんにもお分かりでしょう。僕がエリスに婚約破棄を宣言しても、仕方のないことだと」
拍手まで起きた。
なんなのこれ?
婚約破棄をすることが、こんなに称えられるってどうなっているの?
私は思わずキッと周囲を睨みつける。
笑った奴ら、絶対、忘れないから!
「さて、ここで皆さんに、僕の新しい婚約者を紹介したいのです。こちらにいる、ヴィオラ・クレメンス子爵令嬢です!」
ヴィオラが新しい婚約者ですって?
でもヴィオラには、正式な婚約者がいたはずなんだけど……。
「うふふ、セドリック様の新しい婚約者ヴィオラですわ! ねえ、エリス、悪く思わないでね。しょうがないじゃないの、私とあなたでは出来が違うんだから」
わーっ! とセドリックとヴィオラの婚約を祝う歓声が上がる。
もう、誰も私のことなんか見ていない。
――もう帰ろう。
でも悔しい。
私は涙をこらえることができなかった。
※※
「そのようなことが、あったのですね……エリスお嬢様、よく我慢なさいました」
パーティから帰ったあと、執事のウォルターと侍女のマーサが優しく慰めてくれた。
マーサが入れてくれた薬草茶が、じんわりと体を温めてくれる。
「お父様とお兄様のことまで馬鹿にされて、本当にムカついたわ!」
「お嬢様、ご令嬢が、ムカついたなどと言ってはなりません」
「分かってるわ、マーサ。ごめんなさい。でも腹が立ったのは本当よ」
セドリックが誰からも責められないのは、クラウゼル侯爵に重用されているためだ。
なぜそうなるのかというと、セドリックが香辛料の商会を持ち、これから大きくなりそうだからだ。
「やっぱり、将来性があるかどうか……そこが問題なのかしら……うちに将来性なんてある?」
セドリックは私の家、ベルフォード男爵家に将来などないと断言していた。
悔しい……。
セドリックやヴィオラの家より、ベルフォード家のほうに将来性があるのだと見返してやりたい。
セドリックの商会で扱われる香辛料は、胡椒、シナモン、クローブ、ナツメグといった庶民には手の届かない高級品だった。
「うちの領地に、胡椒やシナモンが生えていればいいのになぁ……」
思わずつぶやいた一言に、マーサが眉をピンと上げて反応した。
「まあ! お嬢様、そのような香辛料の名前を、なぜご存知なのです?」
「もう婚約破棄しちゃったけど、一応はセドリックと婚約してたじゃない? 結婚したら必要かと思って、香辛料について勉強したのよ」
勉強したといっても教科書のようなものがあるわけではない。
王都にある王立図書館に手紙を出して、香辛料について情報を送ってもらったり、セドリックの商会も見学させてもらったりしたのだ。
香辛料を使った料理が得意な料理人の話も聞いた。
「ところでエリスお嬢様、その胡椒とかいうものは、どのようなお味なのでしょう?」
「実はね、私も食べたことがないのよ。でも、調べた資料では、ピリッとした辛さがあって、鼻に抜ける強い香りがするって書いてあったわ」
「ピリッとした辛さに、鼻に抜ける香りねぇ……」
マーサが人参の皮をむく手を止めて、なにか考え込んでいる。
「ねえ、あなた。ピリッとした辛さなら、青火の実もそうよね?」
マーサにそう言われたウォルターが、ポンと手を叩いた。
「確かにお前の言うとおりだ。あれは食べるものではないが、確かにピリッとした味がするな」
青火の実とは、ベルフォード領ではよく取れる濃い緑色をした木の実のことで、大きさは親指の爪ほどだ。
茹でてから天日干しにすると爽やかな香りが出る。
それを夏の暑い時期、飲料用の水に浮かべておくと、水に爽やかな香りが移り、軽いピリッとした刺激のある味になるのだ。
「それから、お嬢様。甘い香りなら、甘樹皮もございますよ」
「甘樹皮?」
「木の皮を乾かしたものでございます。ここらでは腹痛に効く庶民向けの薬として飲まれておりますが、湯に入れると甘く温かい香りが立つのです」
青火の実に甘樹皮。初めて聞く名前だ。
でも香辛料の代わりにならないか、試してみる価値はある。
「青火の実と甘樹皮……。ねえ、マーサ、ウォルター。これって香辛料みたいに使えるかも!」
「ええ、ええ! 毒があるわけではないのですから、工夫すれば使えるやもしれません!」
「エリスお嬢様、ちょうどタイミングよく、青火の実がなり始める時期でございますよ。色々と実験してみましょう」
「もちろんやるわ! 何としてでも誰からも馬鹿にされないベルフォード男爵家にするのよ! ついでにドレスだって好きなだけ買っちゃうんだから!」
ベルフォード領には、まだ誰も知らない価値があるのかもしれない。
そう思うとわくわくしてきた。
◇第二の婚約者、現る◇
青火の実と甘樹皮の試作品づくりを始めて、数日が経った。
私たちは、領民にも協力してもらいながら、茹でる時間、干す日数、粉にする細かさを何度も試していた。
そこへ、招かれざる客がやってきた。
執事のウォルターから至急、屋敷に戻るようにと連絡が来て、作業を中断して急いで帰ってみた。
そうしたら屋敷の古びた応接室に、クラウゼル侯爵閣下がふんぞりかえっていたのだ。
「エリス嬢! ようやく来たか。遅いではないか! 私も忙しいのだぞ」
いや、そう言われましても……。
そっちが勝手に来たのではありませんか?
しかも貴族の礼儀とされている先触れもなしに。
私は作り笑いをしながら、腰をかがめて貴婦人の礼をとる。
「クラウゼル侯爵閣下におかれましては、ご機嫌麗しく。お待たせして申し訳ありません。先触れをしてくだされば、お待たせすることはありませんでしたのに……」
まさか年若い私から嫌味を言われるとは思わなかったらしく、侯爵閣下は「いや、それは……急ぎの用でな」などともごもご言っている。
公衆の面前で婚約破棄されてから、私も強くなったのだろうか。
自然と嫌味が出てくる。
「まあよい。今日はな、エリス嬢の新しい婚約者を連れてきたのだ。なに、心配することなどない。既にベルフォード男爵には手紙で知らせてある」
「はい? 新しい婚約者ですって?」
気がつけば、クラウゼル侯爵閣下の隣には、青白い顔をした、ガリガリといってもいいくらいに痩せた青年が座っている。
存在感がなさすぎて、気づかなかった。
「ご、ご紹介にあずかりました、ジュリアン・エヴァンス……と申します。お見知りおきを……」
小さなかすれた声で名乗った、この人が私の新しい婚約者なのだろう。
「ジュリアン君はな、子爵家の嫡男なのだ。将来は子爵様だぞ? 貧乏男爵家から子爵家に嫁入りなど、なかなか望んでもできんことだ。めでたいのぅ」
人の家を、貧乏男爵とか言うな!
でも子爵家という言葉、なにか頭の隅に引っかかるものがある。
最近、聞いたような……。
「あのぉ、子爵家とおっしゃいますと、まさかヴィオラ・クレメンス子爵令嬢の元婚約者の方では……?」
私がそう言うと侯爵閣下もジュリアンも、そろって渋い顔をした。
「ま、まあそうなのだが。だが、これは君にとってもチャンスではないかね? 婚約破棄された令嬢に、これほど良い縁談が来るなど、めったにない話だ」
やっぱりそうか!
ヴィオラに婚約破棄されて、婚約者がいなくなったジュリアンが、慌てて残り物で間に合わせようとしているとしか思えない。
侯爵も、捨てられた者同士でくっつけばいい……そんな安易な考えなのだろう。
聞けば、ジュリアンの家は領地を持たない文官の家系で、代々、法務に携わっているらしい。
「祖父は引退する前、王宮の法務局本部の副局長を務めていたんだ。父も今は王都で法務局に勤めている。私はまだまだで、侯爵閣下のもとで見習いをしているよ……」
「まあ、素晴らしいお仕事ですわね。私の父と兄も建設局に技官として勤めておりますの」
「エリス嬢のお父上と兄上は、たいそう秀でた技官だと聞いているよ。残念ながら、私はそこまで優秀じゃなくてね……」
ジュリアンは、そう言って力なく笑った。
どうやら悪い人ではなさそうだ。
少なくとも、元婚約者のセドリックとは雑談すらなかったのだから、ジュリアン様が婚約者になってくださって、かえって良かったんじゃないかしら。
ジュリアンは領都クラゼルで、引退なされたエヴァンス前子爵夫妻と一緒に暮らしているという。
領都クラゼルなら、ここから馬車で三時間ほどでいける。
私はジュリアンと、近いうちにエヴァンス子爵家を訪問することを約束して別れた。
※※
領都クラゼルへ向かう日、私は少し浮かれていた。
ジュリアンはなんと、迎えの馬車まで送ってくれたのだ。
それだけでもありがたいのに、訪問用のドレスと靴まで贈ってくれた。
これよ、これ!
これこそ、婚約者ってものじゃないの?
元婚約者のセドリックは、ジュリアンの足元にも及ばない。
そういうわけで、私の気持ちも舞い上がっていた。
馬車の窓から領都クラゼルの賑やかな街並みを見ていると、見知った人に似た姿が目に入った。
「あれ? あれは――ジュリアン?」
ひょろっとした長身が、街路を歩いていたような気がする。
でも、その隣には、垢抜けた雰囲気の若い女性がいたような……。
……まさかね。
今日、ジュリアンは子爵邸で私を出迎えるはずだもの。
このときの私は、そう思っていた。
エヴァンス子爵邸では、ジュリアンの祖父であるヴィクトル・エヴァンス前子爵と、祖母のマリア様が出迎えてくださった。
エヴァンス前子爵は、口は悪いが、王宮の法務局本部で副局長まで務められた御方だ。
マリア様は穏やかな貴婦人だが、貴族家運営と法務の知識が驚くほど豊富だった。
「まあ、それではエリスさんは、法務を学ばれ始めたのですね?」
「はい。将来の夫が法務局務めの文官なら、妻である私も、簡単な知識くらい知っておかなくてはいけないだろうと思いまして」
「素晴らしいわ。貴族家を守るには、礼儀だけでは足りません。法務のことを知らない者は損をするのですよ」
マリア様の話は、私にとって初めてのことばかりで刺激的だった。
私ももっと勉強しなくてはいけない。
生徒になった気分でマリア様の話を聞いていると、子爵家の執事が一通の手紙を持ってきた。
「ジュリアン様から、急ぎの連絡でございます」
エヴァンス前子爵が手紙を受け取り、不機嫌そうに目を通していたが、途中で顔色を変えた。
「……馬鹿な。あいつはなにをやっとるんだ」
低くつぶやいた声に、マリア様が不安そうに身を乗り出す。
「ヴィクトル? ジュリアンに、何かあったのですか?」
エヴァンス前子爵は答えず、ただ黙って読み終えた手紙をマリア様へ差し出す。
手紙を読んだマリア様は、見る見るうちに顔色を失い、手から手紙が滑り落ちた。
「マリア様!」
マリア様が長椅子に崩れ落ちたので、私は思わず立ち上がり、マリア様の元へと走った。
ずるりと床へ落ちそうになっている彼女を、私は必死で抱き上げる。
エヴァンス前子爵も駆け寄ってきて、他の使用人も呼ばれ、なんとかマリア様は自室へと運ばれていった。
ひとり残された私は、床にまだ手紙が落ちているのに気がつく。
自分宛てではない手紙を読むのは気が引けたが、自分の未来に関わることなので、手紙を拾い上げ読んでみた。
お祖父様、お祖母様、私は真実の愛を見つけてしまいました。
エリス嬢と結婚することはできません。
彼女との婚約は、破棄させてください。
愚かな私を、お許しください。ジュリアン。
「真実の愛……なによそれ」
そういえば、領都へ向かう馬車の中から、ジュリアンによく似た人が若い女性と歩いているのを見た。
あれは見間違いではなかったのだ。
きっと、あの女性が手紙に書かれていた真実の愛の相手なのだろう。
「ジュリアン、婚約者の私に直接、婚約破棄を言えないなんて……。あなた、どれだけヘタレなのよ。はぁ……」
今はもう、怒る気力も悲しむ気力も湧いてこない。
ただ、ため息だけが出た。
「婚約破棄、二回目かぁ……お父様になんて言えばいいのよ」
※※
数日後、体調を取り戻したマリア様は、私に書類を渡してくれた。
「エリス。あなたとジュリアンの婚約は、白紙に戻させてもらいたいの。いつまでもあなたをジュリアンに縛り付けておけないわ。その代わりに慰謝料を支払わせて欲しいのよ」
「慰謝料?」
渡された書類には見たこともない金額が、書かれていた。
「ぶっ! ゼロが並んでる!」
「あらあら、令嬢がそのように吹き出してはいけませんよ。ふふふっ」
マリア様は笑ったあと、ふと真顔になった。
「エリスは前に一度、婚約破棄されたのではなくて? そちらの慰謝料のほうが多いはずですけどね」
「え? 元婚約者のセドリックから、そんなものもらってませんけど……」
マリア様の顔が、少し怖くなる。
「エリス。婚約破棄された話、全部、話してちょうだい」
私は全部話した。洗いざらい、なにもかも。
セドリックが、ヴィオラが、クラウゼル侯爵家のパーティで何をしたのか。
そこで私が、どんな思いをしたのかも、全て。
「エリス、あなたの元婚約者に慰謝料を請求しましょう」
「ええー? セドリックにですか?」
「彼だけじゃないわよ? 彼と婚約したヴィオラ嬢にも請求します。それから、婚約破棄の許可を出したクラウゼル侯爵閣下にもね」
ぽかんとする私に、マリア様はにっこり微笑む。
「エリス、婚約は契約なのです。破れば、責任が生まれるのですよ」
私の頭の中に、これまでマリア様が話してくださったことが蘇る。
そうか。法とは、こうやって自分を守るために使うものなのね。
でも、セドリックやヴィオラの事だもの。きっと文句を言いに来るに違いないわ。
それにクラウゼル侯爵閣下にも請求するなんて、大丈夫なのかしら。
知識と経験のない私には、そのあたりがよくわからない。
なのでマリア様には、私の父に話してみて欲しいとお願いすることにした。
「大丈夫よ、私に任せておいてちょうだい」
不敵にすら見える微笑みを浮かべながら、マリア様は自領へ戻る私たちを見送ってくれた。
◇違いの分かる男◇
マリア様とエヴァンス前子爵様に挨拶をしたあと、私と執事のウォルターは領都クラゼルの街を歩いていた。
「はぁぁ……やっぱり無理なのかしら。どの香辛料店でも、話すら聞いてもらえないなんてね」
青火の実と甘樹皮。
せっかく試作品を持ってきたのだ。
帰る前に、少しでも売り込みをかけようと頑張ってはみたものの……。
「胡椒じゃないなら、いらない」
「令嬢のお遊びかい?」
「商会でもない家が何を言っている」
そんなことを言われ、誰もまともに相手にしてくれなかった。
売り込みで歩いたので、私も疲れているけれど、並んで歩くウォルターも疲れ切っているようだ。
いくら元気とはいえ、ウォルターももう若くない。
カフェに入って休ませてあげたいけれど、その時間も惜しく感じてしまう。
すぐ売り込みに行けるよう、広場のベンチで休むことにした。
領都クラゼルは、うちの領地に比べたら大都会で、人もお店も多い。
皆、楽しく暮らしているように見えていた。
でも、この広場に来てみれば、隅っこに汚れた格好をした人がいたりもする。
「ウォルター、のどが乾いたでしょ? なにか飲み物を買ってくるから、待っていてちょうだい」
広場に出ていた屋台から、果実水を買う。
そのままウォルターの元に帰ろうとして、串焼きの屋台が出ていることに気づいた。
ずっと歩き続けていて、少々、お腹も減ってきた。串焼きも買っていこう。
「可愛いお嬢さん、いらっしゃい! 美味しいモデナ牛だよ!」
「……二本、ください」
可愛いなんて言われたことがないので、社交辞令だと分かっていても、ちょっと照れてしまう。
屋台のおじさんが手早く串焼きを裏返すのを見ていて、ふと思いついた。
――この串焼きに、青火の実と甘樹皮の粉をかけて焼いたら、美味しいんじゃないかしら?
「おじさん、私が買う分にだけ、この粉をかけてちょうだいな」
「ああん? 香辛料かい? こりゃまた贅沢な串焼きになるぜ」
試作品の粉は、タレと混じり合って炭火で焼かれ、独特の爽やかで甘い香りを放った。
「こりゃ、いい匂いだ! さすがお高い香辛料様だな。さあ、できたよ!」
「うわあ! 美味しそうな匂い! 焼く前にかけると、香りが際立つ気がする」
ベンチに座って待っているウォルターの元へ、急いで帰った。
「ウォルター! ねえ、ちょっとこの串焼きの匂い、嗅いでみてちょうだい!」
私がウォルターに串焼きを渡そうとしたとき、ウォルターがふいに立ち上がり、私を背にかばうように立った。
「お嬢様、私にかまわず、そのまま後ろに下がってお逃げください! さあ、早く!」
急にどうしたのだろう。
私がウォルターの脇から顔を出して前を見ると、そこには薄汚れた格好をした男が一人、立っていた。
あれ? この人、さっきまで広場の隅っこに座り込んでいた人じゃないかしら。
男は片手を前に差し出し、なにかぶつぶつと言っている。
「……それを……寄越せ……」
きっと、私が持っている串焼きが欲しいんだ。
こんなに汚れた格好で、広場にへたり込んでいたのだから、お腹が空いているのだろう。
「あなた、お腹が空いているんじゃない? さあ、これを食べるといいわ」
私が差し出した串焼きの乗った薄い木板を、男は物も言わずに奪い取ると、顔の前に持っていき、それから目をつぶって、なぜか大きく息を吸った。
まるで串焼きの香りを思うがままに堪能しているようにも見える。
もしかして、青火の実と甘樹皮のこと、気づいてる?
男は串をつかんで、一口ずつ、味わうように食べ始めた。
「これは胡椒……ではない……もっと清涼な……甘い香り……」
男は串焼きを全部食べきると、ふぅっと大きく息を吐き出した。
「なあ、あんた! この串焼きになにをかけたんだ? 教えてく――ブホッ、ゴホゴホ……」
食べてすぐに大声なんて出すから……。
私は青火の実の粉を、手に持っていた果実水の中に振り入れる。
串焼きにかけた試作品の粉に気がついたなら、これも気がつくかもしれない。
試していることを気づかせないように、素知らぬ顔で、まだむせている男に果実水をそっと手渡した。
「すまない。ゴクッ、ゴクッ――これはっ! なんて爽やかな香りだ……串焼きにも同じものが……お嬢さんっ!」
男が今度は私に詰め寄ってきた。
「この果実水に入っているのは、なんなんだ? 教えてく――へぶっ!」
ウォルターの上品なパンチが男の頬に決まった。
「やるわね? ウォルター」
「ありがたき、お言葉……」
さて、この男、どうしようかしら。
青火の実と甘樹皮のことを、評価してくれているみたいなのよね……。
今のところ、この人だけが、ベルフォード領の特産品を認めてくれている。
そんな人を、そう簡単に逃がすわけにはいかないわ。
※※
結局、私たちはその男をエヴァンス子爵邸に連れ帰った。
マリア様は事情も聞かずに対応してくれた。
見知らぬ男のことは、私に何も聞かず、客室へ運ぶよう手配してくれた。
「試作品を売り込みにいくなら、私に相談してくれればよかったのに」
そんな、お小言をマリア様からもらっていると、子爵家の執事が一人の男性を連れてきた。
「エリス様がお連れになった方の、準備が整いましてございます」
そう紹介されて進み出た男性は、私のまったく知らない人だった。
私は思わず口走ってしまう。
「――えっと、あなた、誰?」
湯を浴びて身ぎれいになっただけで、人ってこんなにも変わるもの?
私たちの前に現れたのは、鮮やかな赤毛が眩しい、すらりとした体つきの、どこかの貴族の令息にしか見えない若い男性だった。
顔立ちは整っていて、若い令嬢が騒ぎそうだ。
少し垂れ目なところは、愛嬌を感じる。
貴族の令息にしては、ちょっと日に焼けている。
でも、そこが野性的に見えなくもない。
広場で見たときは汚れた茶色い髪だったのに、洗うとこんな鮮やかな赤毛になるなんてね。
でもよく見ると、片方の頬が少し赤くなっている。
まさか、ウォルターに殴られた跡?
片頬を少し赤くした若い男は、その場に片膝をつき、片手を胸の前に当てる紳士の礼をとった。
「レオン・アルヴァレスと申します。このたびは、見るも無残な姿であった私をお助けいただき、心より感謝申し上げます。このご恩、決して忘れません」
レオン・アルヴァレス。隣国アゼルジャン王国の伯爵家の令息だという。
伯爵家は兄が継ぎ、彼自身は祖父の持っていた男爵位を受け継いだらしい。
すでに自分の商会、アルヴァレス商会を持っていて、茶葉と香辛料を扱っているのだそうだ。
「このクラウゼル領のある方から、香辛料のサンプルが欲しいと頼まれたのですが……商談が終わり、宿屋に戻っているところを暴漢に囲まれ、身ぐるみを剥がされてしまいました」
この領都クラゼルは、とても治安のいい街だ。暴漢が十人も襲ってくるなんて、聞いたことがない。
そして、レオンの商談相手は――。
「セドリック・バルモア男爵令息です」
「セドリック!? 私の元婚約者……いえ、元・元婚約者じゃないの!」
マリア様とエヴァンス前子爵の顔つきが変わった。
私と同じく、セドリックが怪しいと感じているみたいだ。
でも現状、セドリックが犯人だと決めつけるだけの証拠がない。
それでもマリア様たちの強い勧めもあって、レオンは暴漢に襲われた件を、領都クラゼルの治安局に届け出ることになった。
暴漢に襲われたことも大事件だけれど、レオンが一番気にしていたのは、実は青火の実と甘樹皮だった。
「ベルフォード男爵令嬢。これは胡椒の代用品ではありませんよ」
青火の実を低評価するのかと気落ちしかける私に、レオンはにっこりと微笑みかけてくれた。
「胡椒の代用品などではありません。これはもう、新しい香辛料です。特に肉に合わせたときの香りが素晴らしい。甘樹皮も、菓子や茶だけでなく、酒や煮込みに使えます」
「本当に……そう思います? 売れると思いますか?」
「もちろんです! 売れますよ、それも驚くほどね」
気持ちいいほどの即答だった。
既に商会を動かしているレオンの言葉は、とても心強い。
今まで、そんなものは価値がないと言われ続けてきたのだから。
「でも、それ以上に価値があるのは、これらを見つけたあなたですよ」
「私、ですか?」
「ええ。あなたが日頃から使用人や領民と話していたから、新しい情報がもたらされた。そして、あなたが実際に動いて試作品を作った。ただの思いつきで終わらせなかった。何より価値があるのは、あなた自身だと私は思いますね」
盛大に褒められて、頬が熱くなるのが分かる。
私とレオンの話を、そばで聞いているマリア様がクスクス笑っておられて、なおさら恥ずかしくなる。
「レオン様、褒めすぎです……!」
「いいえ。まだ足りないくらいです。マリア様、そう思われませんか?」
「ええ! ええ! アルヴァレス男爵、あなたの意見に大賛成よ」
マリア様がにこにこ顔で、力強くうなずく。
黙って皆の話を聞いていたエヴァンス前子爵様も、うんうんとうなずいてくださっている。
三人の言葉と態度が、まるで薬のように私の心に染み込んでいく。
婚約破棄を立て続けにされている私は、自分で思っている以上に傷ついていたのかもしれない。
気づけば、ぽろりと涙がこぼれていた。
あわてて拭おうとしたのに、次から次へとあふれてくる。
私が急に泣き出したので、マリア様たちが慌てているのは分かっているけど、どうしても止められなかった。
ここまで頑張ってきて……よかった。
◇エリスの選択◇
「ジェイ爺ぃ~! もうちょっと左よ!」
私の声に、領民のみんなと大釜を据えつけていたジェイ爺が片手を上げて応える。
「はいよぉ、エリス嬢ちゃんが現場監督しとると手が抜けねぇな」
「違いねぇ! だけどよ、こんな立派な加工場ができるなんてなぁ」
皆、加工場が立派だと感心してくれるけど、実際は、ちょっと大きめの小屋でしかない。
大きな屋敷を持つ貴族の庭師小屋のようなものだ。
それでも、今まではジェイ爺の猟師小屋の庭先を借りて作業していたのだから、かなりの進化だと思う。
貧乏なベルフォード男爵家が、なぜ加工場をこんなに早く建てられたのか?
それは――慰謝料が、驚くほど早く支払われたからだ。
元・元婚約者のセドリックだけでなく、セドリックの新婚約者のヴィオラまでもが、私が領地に帰ってすぐに慰謝料を支払ってきた。
その上、クラウゼル侯爵閣下までもが、見舞金という名目で払ってくれた。
マリア様が、もし払わないなら法務局に訴えるつもりだとおっしゃっていたから、それが効いたのかもしれない。
もちろん、エヴァンス子爵家も慰謝料をくださった。
こうして、二度の婚約破棄で得たお金の一部を、加工場の建設費用として投入したのだ。
お金も手に入って、新規事業も始められて、良いことばかり!――とは、いかなかった。
慰謝料を手にした私を妬んでか、変なあだ名をつけられたのだ。
――わらしべ令嬢。
私は陰でそう呼ばれている。
わらしべとは麦わらのことで、収穫した麦から、穂を取ったあとの茎や葉のことだ。
一本の麦わらを拾った貧しい旅人が、それを少しずつ良いものと交換していき、最後は大金持ちになるという有名な童話がある。
人はその旅人を、わらしべ長者と呼んだ。
なので、わらしべ令嬢とは、婚約破棄されるたびに慰謝料を受け取り、お金持ちになっていっている令嬢のことになる。
まあ、一種の陰口よね。
「わらしべの何が悪いのよ! 麦わらは畑の肥料にもなるし、温かいから布団代わりにもなるのよ? 帽子だって作れるんだから! みんなに麦わらの底力を見せつけてあげるわよ!」
そんな風に強く言い切ってみせては、ウォルターとマーサを苦笑いさせてしまっていた。
悔しい思いをしていたのは確かだけど、でもこうして加工場が目の前で建てられていくのを見ると、そんな気持ちも吹き飛んでしまう。
「みんな、ちょっと休憩しましょう! お茶とお菓子を準備してあるのよ!」
「そりゃ、ありがてえ! 青火の実の粉を入れると、体がシャッキリすらぁ」
「甘樹皮のケーキがアタシは一番好きだねぇ。お腹にもいいんだよ」
加工場づくりを手伝ってくれている領民のみんなにも、うちの新商品候補は大人気だ。
男性には青火の実の炭酸水が人気。
女性には甘樹皮の焼き菓子が人気。
みんなの明るい笑顔と元気のいい声を聞いていると、ベルフォード領が、少しずつ動き出しているのを感じる。
そして、その動きを一気に外の世界へつないでくれたのが、レオンだった。
あの後、レオンはアゼルジャン王国へ戻る前に、ベルフォード領へわざわざ立ち寄ってくれたのだ。
加工場を見学し、青火の実と甘樹皮の状態を確認したうえで、正式に取引を申し込んでくれた。
さらに驚いたことに、レオンはベルフォード領に小さな出張所を置いた。
アルヴァレス商会ベルフォード出張所。
その看板を見たとき、私は胸がいっぱいになった。
誰にも相手にされなかった青火の実と甘樹皮が、隣国アゼルジャンとの取引につながった。
ジュリアンとの婚約は、結局、白紙になってしまったけど、彼がいなければ私は領都へ出向かず、レオンとも出会わなかっただろう。
それにマリア様やエヴァンス前子爵に会うこともなく、貴族家の運営や契約の重要性にも気づけなかったに違いない。
「ジュリアンとの婚約も、悪いことばかりじゃなかったわね……いや、いいことばかりかしら? 慰謝料ももらえたし……」
※※
その夜、私は屋敷の厨房で試作品を作っていた。
ちょうど商会のベルフォード出張所へ来ていた、レオンも招いている。
「ねえ、レオン様。ポテトも甘樹皮と合うと思うのよ。これ、食べてみて。味付けはシンプルに塩味だけよ」
「うん、エリス嬢、これは美味しい。酒のつまみにもなりそうだ。アゼルジャンの香実油を合わせると、高級感も出て貴族家の晩餐にも出せると思う」
「香実油?」
「香りのよい実から搾った油だよ。アゼルジャン王国でよく採れる実なんだ。今度、持ってくる」
レオンは、うちの執事ウォルターや侍女のマーサとも気さくに話してくれる。
商会の主として、色々な場所へ行っているせいか、相手が農民でも職人でも態度を変えない。
こういうところは見習わないといけない。
私は、これから商品を売り込んでいかなくてはいけない。
貴族の令嬢のような態度では、商人に相手にされないだろう。
「エリス、ジャムと甘樹皮で肉に添えるソースを作ったんだ。食べてみてくれないか……あっ、すまない。つい名前を呼んでしまった。エリス嬢と言わないとね」
小鍋とスプーンを持ったまま、申し訳なさそうに眉を下げるレオンは、垂れ目がいっそう目立って妙に可愛らしい。
「レオン様、どうぞ私のことはエリスとお呼びください。その代わり、私もレオンと呼んでもいいかしら?」
そう聞くと、レオンは目を輝かした。垂れ目がちょっぴり、キリッとする。
「もちろんだよ! どんどん呼んでくれ!」
「じゃあ、レオンレオンレオン……」
「エリス、それは呼びすぎだよ! あはは!」
料理の試作をしながら、レオンとふざけていると、執事のウォルターが厨房へとやってきた。
なにやら深刻な顔をしている。問題発生かしら?
「エリスお嬢様。クラウゼル侯爵閣下がお見えです。お嬢様は作業場の確認に出ており、しばらく戻られないとお伝えしてございます」
クラウゼル侯爵?
前に侯爵が先触れなしで来たとき、傍らにはジュリアンがいて、新しい婚約者だと紹介された。
今思えば、先触れなしで来るのは、私の逃げ道を塞ぎ、その場で承諾させるためだったのかもしれない。
となると、今回も私の婚約者とやらを連れてきているのかも……。
「侯爵は、お一人で来られたの?」
「いえ。それが……ご嫡男をお連れでございます」
クラウゼル侯爵の嫡男となれば、次期侯爵様だ。
嫌な予感が、さらに大きくなった。
そこへ、マーサがやってきた。
「お嬢様、たいへんでございます! 侯爵様の従者に飲み物をお出ししましたところ、エリスお嬢様と侯爵家の嫡男様の婚約が決まったと申しておりました」
婚約が決まったですって?
まだ話も聞いていませんけど?
私が断れないと思って、もう婚約が決まった気でいるのね。
「従者によりますと、エリスお嬢様の新事業を、今後は侯爵家で管理するそうですよ。セドリック様が販売を請け負うそうです」
なんですって?
マーサの言葉に、私の全身の血が一気に熱くなった。
私の立ち上げた事業を、横取りしようとしているんだわ。
そんなこと、絶対にさせない!
レオンも厳しい表情をしている。
「青火の実と甘樹皮を囲い込みたいんだろう。ベルフォード領ごとね」
そうとしか思えないわよね。
でも、侯爵閣下のご嫡男には、婚約者がいたはずだ。
その婚約は、どうなったのだろう。
まさか、私と婚約するために解消したりしてないわよね?
自分が公衆の面前で婚約破棄されたからこそ、分かる。
婚約を解消される側が、どれほど惨めで、どれほど悔しいか。
もし、誰かが私のせいで、そんなつらい目に遭わされるのだとしたら、見過ごすわけにはいかない。
そんなの、絶対に嫌だ。
「お嬢様。恐らく侯爵閣下は、すでに旦那様にも婚約を決定事項として手紙を出しておられるかと」
たぶん、侯爵の中では、これはもう決まったことなのだ。
私の婚約も。私の事業を奪うことも。
なんとか防ぎたい。できたら反撃したい。
でも相手は侯爵。私は、ただの男爵令嬢。正面から「嫌です」とは言えない。
この婚約、受けるしかないの?
ああ……こういう時、マリア様が側にいてくれたら相談できるのに。
マリア様なら、きっと契約書とか法務局とかを使って、華麗に格上の貴族を撃退するはずなのだ。
でも、私にマリア様のような知識はない。
今ある知識だけでなんとかしなくてはいけない。
――ひとつ、思いついた方法がある。
でも、できたらこの方法は使いたくない。
私はチラッとレオンを見る。
レオンは真剣な表情で、打開策を考えてくれているようだ。
とっさに思いついたのは、レオンから嫌われるかもしれない方法。
ああ、クラウゼル侯爵さえ、来なければ……。
いえ、エリス。今まで、何度も苦しい場面を乗り越えてきたじゃない。
自分を信じて。レオンにちゃんと話すのよ。
私はレオンの前に行き、淑女の礼をとった。
「えっと……エリス? 急にどうしたんだい?」
顔を上げ、まっすぐにレオンを見つめる。
「レオン、私と結婚して」
「…………え?」
レオンがその場で固まった。
試食の準備をする途中だったのだろう。お皿を手に持ったままだ。
ウォルターとマーサは、並んでなぜかにこにこしている。
「いま、私の申し出を受けてくれるなら、青火の実と甘樹皮の独占販売権がつくわよ?」
「ちょっと、待ってくれ!」
レオンは慌てて皿を調理台に置いて、私のほうに向き直った。
「求婚に商談特典をつけるなんて、どうかしてる!」
レオンが頭を抱えている。
そんなレオンの様子を見て、私は大事なことを言い忘れていたと気づき、慌てる。
「い、今さら言っても信じてもらえないだろうけど、レオンのこと、けっこう好きよ」
「けっこう?」
すぐさまレオンからダメ出しが入って、私はなおさら慌ててしまう。
「ち、ちがう! 言い間違えただけ! かなりよ、かなり好き! 本当なんだから!」
身振り手振りで、本当なんだと言い張る私を見て、レオンはため息をついた。
「はあ……私のほうから君に婚約を申し込むつもりだったのに、先を越されるなんて。その上、告白まで先を越された……なんたる失態だ」
「え? レオンが私に婚約の申し込みを?」
「ああ、そうするつもりだった……でも、言えなかったんだ。今申し込めば、青火の実と甘樹皮の販売権が欲しくて、エリスに近づいたと思われるかもしれない。そう考えると……怖くて言えなかったんだ……」
レオンは、少し苦笑した。
「なのに君のほうから、独占販売権つきで求婚されるとは思わなかったよ」
そう言うとレオンは真面目な顔で、すっと片膝をついた。
「レオン! 待って! 服が汚れるわ」
「君と出会ったときは、もっと汚れていただろう? このくらい平気さ」
確かに、広場の片隅にいたレオンは、ひどく汚れた姿だった。
なんだかそれも、遠い昔の話に思える。
「エリス・ベルフォード男爵令嬢。どうか、私にあなたの隣を歩く権利をください。商談相手としてではなく、夫となる者として」
厨房が、しんと静まり返った。
マーサとウォルターが抱き合って泣いているのが見える。
「エリス、イエスでもノーでもいい。早く返事をくれないか。私の心臓が破裂しそうだ」
胸を手で押さえて、苦しげな表情をするレオンは、ふざけているわけではなさそうだ。
私はそれから、ゆっくり数を三つ数えてから返事をした。
私の心臓の事情だってあるんですからね?
「レオン、あなたの申し込みを、お受けします」
レオンの顔が、ぱっと明るくなった。
「エリス、ありがとう! 私はこの世で一番の幸せ者だ。でも、まだ心臓が破裂しそうだよ……」
そうでしょう、そうでしょう。
私の心臓も、同じ状態だもの。
「さて、私はウォルターとマーサ宛てに手紙を書くわ。これは実質、クラウゼル侯爵閣下に読んでいただく手紙よ」
ウォルターは侯爵に、私は作業場の確認に出ていると伝えてくれている。
なら、手紙の中でもそこに話を合わせた方がいい。
そして私はこの手紙で、屋敷に戻ってこない理由を作り、 侯爵と新しい婚約者に会わないつもりだ。
私は急いで紙とペンを用意してもらい、手紙を書き始めた。
ウォルターとマーサへ。
レオン・アルヴァレス男爵様から正式に結婚を申し込まれ、お受けすることにしました。
これからさっそく、レオン様のご家族にご挨拶へ行ってまいります。
突然のことでごめんなさいね。
作業場で突然、求婚されたの! 私も嬉しくて、すぐさま承諾したわ!
婚姻の届け出は、お父様が以前くださった、婚姻承認の署名入り書類を使います。
この手紙と一緒に法務局へ書類を送ったから、明日には正式な婚姻になるはずよ。
お父様にも結婚のことを手紙で知らせておきました。
それから、マリア様とエヴァンス前子爵様にも、お手紙で結婚をご報告しました。
お二人ともレオンのことを気に入ってくださっているから、きっと喜んでくださるわね!
お友達にも、嬉しくていっぱい手紙を書いてしまったわ!
そういうわけで、しばらくそちらへは帰りません。
どうか心配しないでね。私、とっても幸せよ!
エリスより。
「この文面、ちょっと浮かれ過ぎかしら?」
「まさに恋に浮かれた令嬢の手紙でございますな。けっこうだと思います」
ウォルターが真面目な顔でうなずく。
「それに、法務局、旦那様、マリア様、エヴァンス前子爵様の名がしっかり入っております。これで侯爵閣下への牽制としては、十分かと……」
「あとで、マリア様とエヴァンス前子爵には、勝手にお名前を使ったことを謝らないといけないわね」
「マリア様なら、おそらく大笑いなさるかと」
確かに。きっと詳しく話せとせがまれるだろう。
ウォルターとマーサに後を託して、私たちは裏門からこっそり屋敷を出た。
外は満天の星空だった。
月明かりもあり、夜道を歩くには十分だ。
「ねえ、エリス。本当に私なんかと結婚してよかったのかい?」
歩きながら、レオンがぽつりと言った。
「むこうは次期侯爵様だよ?」
「爵位はむこうが上だけど、あなたほど私のことを認めてくれるとは思えないわ」
「私だって、エリスほど認めてくれる人はいないと思うよ。だって汚れた姿なのに助けてくれたんだから」
私とレオンの出会いは、本当に偶然みたいなものだった。
でも、その偶然が、互いを認め合う相手に巡り合わせてくれた。
とても幸運なことだと思う。
「さあ、今日はジェイ爺の猟師小屋に泊めてもらいましょう。もちろん、そこまで歩いて行くわよ! 馬車で行くほどの距離じゃないもの」
レオンが私の手をぎゅっと握ってくれた。
「君となら、どこまでだって歩いていけるさ」
「あら、私はジェイ爺の小屋あたりまでしか歩きたくないわよ?」
「あはは! 仰せのままに」
何度も婚約破棄されて、わらしべ令嬢なんてあだ名をつけられ、蔑まれた私。
でも、わらしべは別のものに交換できる。
新しい道を見つけることだってできるのだ。
クラウゼル侯爵との問題も、まだ解決したわけではない。
これからが大変だと思う。
でも、きっと二人ならやっていける。
私はそう確信しながら、レオンと一緒に歩き続けた。
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