マドレーヌ辺境領へ
翌朝、空はまだ薄暗かった。
宿場は静まり返っていて、人の気配はほとんどない。
(起きたら全部リセット、なんて魔法は当然なかったね。現実は続くのよ)
昨夜はあれほど疲れたはずなのに、目覚めは早かった。
鐘の音もなく、誰かに起こされることもない。ただ、出立の時間が来ただけ。
「出るぞ」
短い声が廊下から聞こえ、私は外套を羽織って部屋を出た。
昨日停まってたままの馬車は既に準備が整っていて、馬は白い息を吐いている。
空気が冷たい。
夜の名残が地面に残っていて、草はしっとりと濡れていた。
振り返っても、宿場は眠ったままだった。
見送る人もいない。
引き留める声もない。
私は黙って馬車に乗り込む。
すぐに馬車は動き出し、宿場は背後へ流れていった。
馬車の揺れが昨日より速い。
小さな建物が霧の向こうに溶けるように消えていく。
また一つ、通過点が終わった。
(よし、もうここからは生存ゲーム。難度ハード、報酬は”普通に生きる”)
クリア条件なんてどこにも無いけれど。
悪役令嬢、スローライフに転職します。誰も拍手してくれないけど。
私の事は気にせず馬車は速度を上げ、人気のない道を進み始める。
飛び地へ向かう道は、ここからさらに遠く、静かになっていくのだった。
宿場を出てから、しばらくは何も起こらなかった。
道はさらに細くなり、舗装もほとんど残っていない。
人の気配は消え、行き交う馬車も見なくなった。
あるのは、馬車の揺れと、風に擦れる草の音だけ。
やがて、前方に何かが見えてきた。
門、と呼ぶにはあまりに簡素なものだった。
低い柵と、小さな詰所。
石造りですらなく、木と土で作られた仮設のような構え。
旗が二本、はためいている。マリーデグリー王国とレグニン王国の国旗。
戻ったのかと思ったけれども違っていた。
その少し奥に、見慣れない紋章の布があったから。
「ここが、マドレーヌ辺境領だ」
護衛の声は低く、事務的だった。
私は窓の外を見つめる。
(ここが、ゲームで”ただの背景扱い”だった場所)
グラフィック粗いとか言っててごめん、現実だと普通に迫力ある。
境界線は、拍子抜けするほど曖昧だ。
線も、壁も、明確な仕切りもない。
ただ『ここから先が違う』と示すだけの場所。
馬車が止まり、兵士が近づいてくる。
人数は少ない。
装備も、王都の兵士と比べると簡素だった。
「追放者の移送か」
確認するような声。
「そうだ。書類は揃っている」
渡された書類を、兵士は流すように目を通す。
私の顔を見ることはない。
「……間違いない。通れ」
それだけだった。
引き留める言葉も、注意もない。
戻るな、という警告すらない。
馬車はゆっくりと動き出し、柵の横を通り過ぎる。
車輪が境界を越えた瞬間も、音は変わらなかった。
でもーー
空気が、わずかに違う。
湿り気が減って、風が強くなる。
土地の色が、少しだけ暗い。
私は、その変化を言葉にできないまま受け止めていた。
ここから先は、マドレーヌ辺境領。
マリーデグリー王国の一部でありながら、切り離された場所。
追放の行き先。
ゲームであった破滅の一つ。
命令がなければ戻れない。
馬車は進んでいく。
背後で、国境の詰所はすぐに小さくなり、やがて見えなくなった。
「……ここがマドレーヌ辺境領ね」
そう呟いた言葉は、馬車の揺れに吸い込まれた。
ここから先が、私の居場所になる。
スローライフはここからなのね。




