隣国の宿
どれくらい進んだのだろう。
太陽が沈もうとしていて、空が茜色に染まり始めていた。
揺れと音だけを数えているうちに、外の景色が少しずつ変わっていくのに気付いた。
草原の中に、ぽつぽつと低い建物が見え始める。
道の脇には柵があり、干し草が積まれている場所もあった。
ーー集落。
王都のような賑わいはないけれど、人が暮らしている痕跡が確かにある。
馬車の速度が、わずかに落ちた。
がたん、がたん、という揺れが、ゆっくりとしたものに変わっていく。
外から、人の声が聞こえた。
遠慮がちで、短いやり取り。
私は窓の外を覗いた。
街、と呼ぶには小さすぎる。
宿屋らしい建物が一軒。
厩舎と、簡単な井戸。
行き交う人も少なく、皆こちらを一瞬見るだけで視線を戻していく。
特別なものを見る目ではなかった。
興味も警戒も薄い、通りすがりを見る視線。
それが、少しだけ不思議だった。
王都では、私は常に『誰か』だった。
婚約者。
悪役令嬢。
噂の中心。
でもここでは、ただの旅人の一人でしかなかった。
馬車が完全に停まる。
「休憩にする。少し待っていろ」
短く告げられて、護衛の兵士は外へ降りた。
彼は職務を遂行するために淡々と動いていた。
馬の足音と、革具の擦れる音が遠ざかる。
私はすぐには降りなかった。
スマホで遊んでいたんじゃない。というか、そんなもの持っているわけがない。
馬車の中に座ったまま、深く息を吸う。
空気が違う。
王都よりも乾いていて、少し冷たい。
ここが、途中の宿場。
まだ目的地ではないけれど、確実に王都から離れた場所。
私は窓から視線を外し、手元に置いた鞄を見た。
この先も、こういう場所をいくつも通るのだろう。
小さくて、名前も覚えきれない宿場を。
ーーそれでいい。
馬車の音では、馬が水を飲む音がしていた。
本当なら今ごろ、大学の最寄り駅で友達と『明日、どの講義サボる?』とか言ってたんだろうな。
もう叶わないけれど。
「降りろ、今日はここで休憩にする」
しばらく馬車の中で座っていたけれど、兵士に呼ばれて馬車から降りる。
夜通し移動する訳じゃないんだ。
宿場で与えられた食事は、簡素なものだった。
堅めのパンと、温かい汁物。
塩分は控えめで、香辛料もほとんど感じられない。
転生前に食べたカレーやラーメンとは味が大きく違う。
それでも、冷え始めた身体にはありがたく、私は黙ってそれを口に運んだ。
周囲はある程度の賑わいがあった。
宿屋の中には他にも旅人がいるため、私や兵士以外は会話が弾んでいるようだった。
酒を飲んでいる旅人もいた。
でも私には会話へ入る許可は無かった。
ああ、前だとランチの時間だったら、友達の会話に入ったのにな。
寂しい。
用意された部屋は狭く、寝台と小さな卓があるだけ。
護衛の兵士は部屋の前にいない。
私は外套を脱ぎ、鞄を足元に置くと、寝台に腰を下ろした。
窓の外では、風が草を揺らす音だけがしている。
(……静か、本当に、何も無い)
スマホの無い生活って、思ってたより静かすぎるんだけど。
デジタルが一切無い。
乙女ゲームの世界と同じ以外は。
(友達のグループチャットとか、もう返すことはないんだよね)
アプリどころかスマホすらないからね。
彼女達って元気で過ごしているのかな。
でも、不思議。泣くほどじゃない。
たぶん、もう疲れ切ってるだけ。
灯りを落とすと、闇はすぐに部屋を満たした。
王都の夜のような喧騒も、明かりもない。
私はその静けさを受け入れるように目を閉じ、明日の移動に備えて眠りについた。




