書類仕事
私は屋敷へと戻って、机の上に溜まっていた書類を片付けていく。
逃げたって消えない現実。
朝の風で立ち向かおうという気持ちが起きていた。
(それにしても多い。やっぱり多い)
ため息が一回。
でも逃げない。昨日よりは、少しだけ自信がついている。
収支、港町との記録、備蓄の確認。
様々な種類の書類。
誰かが”とりあえず”で乗り切った痕跡が、この書類達にはあった。
(ここ、本当に”誰かが何とかしようとした領地”だったんだ)
ペンを走らせていると、静かに紅茶の香りが漂った。
「メリッサ様、顔が本気です」
セシリアが軽く笑った。
「最初から完璧じゃなくて構いません。”見ようとしている”だけで、もう立派です」
「ハードル低くない?」
「この領地基準です」
またそれ。
でも、不思議と嫌じゃない。
数字を見て、現実を見て、少しだけ未来を考える。
(全部は無理。でも、”今日の分だけ前に進めるなら、私でもできる)
そう思った瞬間、胸の中に小さな火が灯った。
「……よし。今日の私は、”逃げない令嬢”で行くわ」
「はい、素敵です」
セシリアはお辞儀しながら、ほんの少しだけ誇らしそうだった。
窓の外では港町の朝が始まっている。
波の音。生活の音。遠くの笑い声。
(ここは破滅ルートなんかじゃない。ちゃんと”生きる場所”なんだ)
私は新しい書類を手に取った。
小さく息を吸い、静かに笑う。
「今日も、一歩ずつね」
机の上の紙はまだ山のようだけれど。
昨日より、ほんの少しだけ軽く見えた。
「で、これをこうして」
少しずつだけれども、書類を片付けていく。
一枚、また一枚と山の高さを減らしていった。
肩こりが鈍く起こる。
「ふぅ……」
書類の山から一段落ついたところで、私は椅子の背にもたれた。
小さく息を吐く。
目がちょっと疲れた。目頭を押さえる。
「ちょっとだけ、世界が数字で殴ってくる感じね」
「はい。ここはだいたい、毎日そんな感じです」
セシリアがさらっと肯定した。
「励まして?」
「現実は優しくなりませんので」
「そこ、少しは誤魔化しなさいよ」
思わず笑ってしまう。
笑える余裕がまだあるのが救いだ。
「でも、驚きました」
「何が?」
「逃げませんでしたから」
セシリアの声は、淡々としているのに、どこか温かかった。
「昨日いらしたばかりなのに、数字を見て、理解しようとして。”見なかったことにしない”のは、けっこう難しいんですよ」
「そう見える?」
「はい。少なくとも、前任の何人かよりは」
セシリアはどれくらい領主を見ているんだろうか。
「比較対象が怖いんだけど」
「大丈夫です。地獄に慣れた人よりは期待できます」
「フォローになってないわよそれ」
でも。
悪くない気持ちだった。
「セシリアは、この領地……好きなの?」
一瞬、彼女の目が柔らかくなった。
「ええ。手間かかって、不器用で、ギリギリで生きていて。でも、ちゃんと”息をしている土地”ですから」
胸の奥に、静かな熱が落ちる。
「だったら、私も少しは、息をしやすくあげられるといいわね」
「それは、とても素敵な目標です」
セシリアが微笑む。
「大丈夫ですよ。メリッサ様は、ちゃんと”笑いながら文句が言える人”ですから」
「それ褒め言葉?」
「もちろんです。折れてしまう人は、笑えませんから」
その言葉に返事をする代わりに、私は小さく息を吸い込んだ。
机の上の紙に手を伸ばす。
「じゃあ、まだ少しだけ頑張るわ。”今日の分だけ”」
「はい。”今日の分だけ”です」
飲みかけの紅茶、温かい湯気が揺れた。
窓の外で港町は朝から昼になろうとしている。
世界はすぐには変わらない。
でも、少しずつならーー変えていけるかもしれない。




