夕方の丘で
私はセシリアが持ってきた紅茶を飲む。
砂糖は少ないけれど、はっきりとした甘さを感じた。
そこそこ良い茶葉を使っているのかな。
飲みながら、この屋敷の事を思った。
倉庫、廊下、客間、掃除されているけれど、最低限。
豪華でも、温かくもない。
けれど、住める。
(ほんと、”生きるための家”って感じだなぁ)
王都の屋敷とは全然違う。
ビュージンゲン邸では気楽で何も考えずに過ごす事が出来たけれど、ここでは私も考えないといけない。
気楽って言っても、記憶を取り戻す前だよ。
ああ、もっと前から思い出せば良かった。どうして前日なのよ。
追放される前の記憶を思い出す度に、神様を恨みたくなる。
転生特典なんか無いみたいだし。
「とりあえずーー必要な事をしましょう」
頭の中で愚痴を言ったって、何も動かないので。
紅茶を飲み終わったので、私は机の上の書類を片付けようとした。
ずっと書類がこっちを見ているから。
逃げても追ってくるタイプの現実。
「メリッサ様、今日のところはこの辺りで区切りにしましょう」
ミカエラが静かに言う。
「そうなの?」
「いきなり全てを理解する必要はありません。この地は、一日で壊れるほど脆くも、一日で変えられるほど単純でもありませんから」
面倒なのね、このマドレーヌ辺境領って。
「……助言としては、優しい方ね」
「事実を述べただけです」
そう言って、彼は軽く頭を下げると部屋を出ていった。
入れ替わるように、セシリアが紅茶の器を回収しながら私を見る。
「今日は、とても良い一日だったと思いますよ」
「えっ、これで?」
「はい。”逃げ出さずに机に向かった初日”は、だいたい良い日です」
さらっと言う。
「……基準、低くない?」
「この領地の基準に合わせました」
にこっと笑うその顔は、なえか負けた気分にさせてくる。
「でも、ありがとうございます。助かっているわ、あなたがいて」
「その言葉は、明日以降も繰り返しお願いいたしますね」
「努力します」
軽口を交わしてから、私は書斎を後にした。
屋敷の外に出る。
丘の風が頬を撫で、遠くに港町が見えた。
でも、あの港町はまだ知らない場所。
明日は、ちゃんと向き合わなきゃね。
夕焼け。
少しオレンジが強い。
風は冷たいのに、不思議と心が落ち着く。
(……変なの)
今日は人生の大分岐点。
追放。
失脚ルート確定。
本来なら、もっと泣いててもおかしくない。
もっと折れててもおかしくない。
(なのに、なんで、こんなに息しやすいんだろう)
胸が軽い。
王都を出た不安。
これからの生活の苦労。
本当にやっていけるのかという恐怖。
全部あるのにーーそれでも心が何故か、静かだった。
日本で一人暮らししてた時より、なんかメンタル安定してるの何。
「まあ、いいか」
私は小さく笑った。
「とりあえず、今日のところは生存。それで充分よね」
「はい、充分です」
「居たのね」
振り返ると、いつの間にかセシリアがいた。
いつもの落ち着いた笑顔。
「この屋敷、なんだか……落ち着くわね」
「そうでしょう?」
セシリアは、少しだけ遠くを見る目をした。
「昔から言われているんです。このマドレーヌの丘は、”見ている誰か”に守られているって」
「守られている?」
ホラーじゃないよね、それ。
「大丈夫ですよ。怖いものではありません。むしろ、この土地が生きていられる理由、かもしれません」
それだけ言って、セシリアは深くは語らなかった。
でも、不思議と。
怖くなかった。
(見られてる、って言われれると普通は嫌なはずなのに)
むしろーー
(少し、安心するって何)
自分で自分にツッコミを入れながら、私はもう一度港町を見下ろす。
「じゃあ、これからよろしくね。マドレーヌ辺境領」
港町に向かって、軽く手を広げて言ってみた。
もちろんーー返事なんて来ない。
風だけが、少し強く吹いた。
それで終わり。
私は屋敷へ戻るために踵を返した。
背後で、丘が静かに揺れる。
薄い夕暮れの空に、雲がひとつ流れていた。
誰も気づかない場所で。
誰にも聞こえない、小さな声が。
そっと、風に溶けた。
「よかった。今回は、割とまともそうな子」
そして、ほんの少しだけ嬉しそうに。
「ちゃんと、生きてね。あと、ほどほどに幸せになって。できれば、ちょっと楽しく。私も楽になるから」
風が笑うように丘を撫でた。
それでも世界は、何も起きていない顔で夕暮れを続けていた。




