胎動、帳尻合わせ
六段目
カペー一家は幾人かの護衛を連れて首都を離れ、友邦オスタリカへ逃亡しようとしていた。
これがかの有名なバレンラ逃亡事件である。
「お父様、そろそろカーテンを開けても?」
「あぁ、構わないよ。」
もはや怒声も歓声も聞こえない。軍人のシャポーも落ちる屋根瓦も何も無い。あるのは陽光と風に靡く草木。
首都から数キロ離れた離れただけでこれだ。結局、世界を焼き尽くして破壊せんばかりの憎悪も世界を見てみれば微かな烟りの跡にすぎないのだろう。
「何億マルクを拵えて造られた首飾りよりも、幾許の路銀を持ちてこうして陽光を浴びる方が僕は好きなんだな。」
「なんか今の貴方のほうが私好きですわ。」
「そうか、そりゃ、うれしいな。ホント。品位だとかマナーだとかクソ喰らえ。僕は雨の日に本に耽ってアトリエで絵を描いたり、工房で錠前を弄ったりしていたいんだ。」
「わかりますよ。本当は私だってバリー夫人と仲良くしたかったですもの。それにあの首飾りも豪華なシャンデリアも苦しいコルセットも嫌なのです。」
彼女のこぼれる本音に僕は寂しくなった。
なにせ僕は子宝を3人も授かって、革命によって都落ちしてやっと、マリア・アントワールという人間の輪郭を把握したんだから。
「お父さん泣いてるの?」
「寂しくて嬉しいのさ。やっと本音で語り合えたなって、なぁ、マリア。」
「えぇ、そうですね。でも私は寂しくはありませんことよ。だって芯が一緒、運命だったんですもの。」
「嬉しくて泣くなんて変なの。」
シャルル、君は幼いから知らんだろうが涙は悲しみではなく溢れた感情なんだ。
「ねぇ、兄ちゃん曇って案外速いんだね。」
「ん、あぁ、本当だ。曇ってあんな速いんだな。知らなかった。」
二人が入道雲を眺めてそう呟く。私も釣られて見上げ、子供らと同じ感想を抱いた。
そうか僕はいつも下を向いてのかもしれない。
自信が無かったか、それとも純粋に窓から捨てられる糞尿を避けるためかは定かではないが、こんな簡単なことも忘れていたのならそうなんだろうな。
「陛下、カーテンを。第三身分の者でしょうが、一応。」
馬車の運転手がそういうのでカーテンを閉める。しかし第三身分か、もうその言い方はしないんだがな。
国に住むものは一律に国民と定義されるようになったらしい。
「お父様、僕は貴方ほど有名人では無いので少し外を覗きたいのですか。」
「いいだろう。程々にしろよ。」
「勿論です。」
この時テレーズの瞳に映った映像をオーギュスト・カペーは生涯知ることはなかった。
それはテレーズの瞳に映ったものは彼の父の、はたまた彼と父その父とその父による成果物だったからだ。
他人のあるいは娘の墓だろうか。老婆がそれを暴いて中の着物やら金品やら髪の毛やらを集めている。
こんな光景がブルボン=ラソレイユ王朝が辿り着いた結末と言っていいのだろうか。
そうして彼は一つの事案に辿り着いてしまった。
我が父オーギュスト・ブルボン=ラソレイユが王としての務めを果たせるだけの力がなかったからこうなったのではないか。
だがその思案も空に消えた。
例え父がどんなに王として無能でも、理想的な父親であったのは確かだったからだ。
むしろせいぜい二人の息子と愛する妻に対して理想的な父親を演じるのが限界であった人間に絶対君主という重責を課してしまう現行のシステムの方に問題があったのではないか。
テレーズは聡かったのである。
だからテレーズは知っていた。この逃亡がもし失敗すれば、民衆の怒りによって父も母も自分も、弟すらも殺されると。
何故なら民衆の心を満たすのは思想でも信仰でもなく血とパンだからだ。
「…なんとも度し難いものか。」
テレーズは誰にも聞こえぬように小さく呟いた。
何故か
それは父に聞かれたくなかったという訳でもあるし、第一自分で聞きたくなかったのだ。
それはテレーズが"愚か愚かと人に対して思考停止するのは嫌だ。そんな楽を俺はしたくない。"と思っていたからであり、自分の呟きをはっきりと受け止めたら自分は人を信じれなくなってしまうだろうなと自覚していたからだ。
「テレーズ?」
「いえ、なんでも。ただまぁ、なんとのどかなところだろうと思いまして。」
「少しお父様の気持ちが分かりましたよ。」
どんなに頑張って頑張って頑張っても結果がこんななのであれば理想に燃えるなど馬鹿らしく感じてしまう。
そうであるのなら父が全てを捨てて世捨て人ならんと望んでいる気持ちもよくわかるのだ。
再びテレーズはカーテンをめくって外を見る。
もうそこには誰もいなかった。あるのは崩れた小屋と荒れ果てた農地だけだったのである。
まさに寂寥の感。ある種退廃的ともいえる光景。ノスタルジックに浸れるほどの余裕はテレーズにもオーギュストにもなかったが、それはそれとして親子である二人は同じ感情を抱いていた。
それはただの脱力感と無力感、そして少しの開放感だった。
しかし、主はオーギュストにそのような末路を許すほど慈愛に満ちてはいない。
「あっ!!」
マリアが叫ぶ。そして彼女のシートは少しばかり濡れていた。
オーギュストはこの瞬間をすでに2回も経験していた。
そう、陣痛である
郊外の景色 オーギュスト17世




