3.
カケルが異世界に来て一週間が経った。
この間、彼は順調に冒険者としての経験を積んでいた。スライム退治、野生動物の駆除、盗賊の追い払い。比較的軽い依頼ばかりだったが、その分使用する黒歴史も軽めで済んでいた。
「今日の詠唱内容は何だったかしら?」
朝食を取りながら、ハルネが興味深そうに聞いた。昨日はオーク(豚の魔物)一匹を相手にした。
「『中学の時、給食で嫌いなピーマンを全部友達に押し付けて、先生に怒られた』です」
カケルの頭上には、相変わらず光文字が浮かんでいる。
『給食ピーマン全押し付け事件』
『先生の一言:「広瀬君、好き嫌いはダメですよ」』
「かわいいじゃない」ハルネがクスクス笑った。「最近、詠唱内容が微笑ましくなってきたわね」
「そりゃあ、ヤバい黒歴史は温存してますからね」
実際のところ、カケルは戦略的に黒歴史を使い分けていた。軽い敵には軽い恥ずかしさで済む黒歴史を、強い敵にはより恥ずかしい黒歴史を。おかげで、まだ本当にヤバい記憶は使わずに済んでいる。
「でも、そろそろ限界が来るんじゃない?」ハルネが心配そうに言った。「軽い黒歴史ばかりじゃ、強い敵と戦えないでしょ?」
「うーん…そうですね。でも、できるだけ避けたいんです」
その時、銀月亭の入り口が勢いよく開かれた。
「緊急事態だ!」
息を切らして駆け込んできたのは、街の衛兵隊長のマルクス・レイドだった。中年の男性で、普段は落ち着いているのだが、今日は顔面蒼白になっている。
「どうしたんですか?」ハルネが立ち上がった。
「邪教徒の軍勢が街に向かってくる!」マルクスが叫んだ。「ベルダノス率いる『魂喰らいの教団』だ!」
食堂にいた客たちがざわめいた。ベルダノスという名前は、カケルも聞いたことがある。この地方で暗躍する邪悪な司祭で、人の魂を喰らって力を得ると言われている危険人物だ。
「何人くらいですか?」
「約五十人。しかも、全員が狂信者で戦闘能力が高い」マルクスが汗を拭った。「我々だけでは到底太刀打ちできん」
「王都に援軍要請は?」
「間に合わない。連中は明日の夜明けには到着する」
絶望的な空気が食堂を包んだ。五十人の戦闘集団相手では、小さな街の衛兵隊では歯が立たない。
「私たちも協力します」ハルネが名乗り出た。「カケルさんの能力があれば、何とかなるかもしれません」
「えっ、俺が?」カケルは慌てた。「でも相手は五十人ですよ?今まで戦ったのなんて、せいぜい十匹のゴブリンが最大で…」
「君が『暗黒詠唱士カケル』か」マルクスが希望を込めた目でカケルを見た。「噂は聞いている。ブラッドウルフの群れを一人で殲滅したという」
「あれはたまたまで…」
「お願いします」マルクスが頭を下げた。「このままでは、街の人たちが皆殺しにされてしまいます」
カケルは困った。確かに、見捨てるわけにはいかない。この一週間で、街の人たちは彼を温かく受け入れてくれた。黒歴史を笑いながらも、親しみやすい人として接してくれる。
「分かりました」カケルは決意を固めた。「やってみます」
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その日の午後、街の防衛会議が開かれた。参加者は衛兵隊長マルクス、魔導学院支部長グレン、ハルネ、そしてカケル。街で最も有力な冒険者たちも数人加わっている。
「敵の戦力分析から始めよう」グレンが地図を広げた。「ベルダノスの『魂喰らいの教団』は、信者約五十名。全員が狂信的な戦士で、痛みを感じない呪術がかけられている」
「痛みを感じない?」カケルが聞き返した。
「ベルダノスの呪術でな。通常なら戦闘不能になるような傷を負っても、死ぬまで戦い続ける」マルクスが説明した。「つまり、中途半端な攻撃では止められない」
「それって…一撃で倒すしかないってことですか?」
「その通りだ」グレンがうなずいた。「だからこそ、君の暴露詠唱が重要になる。強力な雷撃で、一度に複数の敵を殲滅できれば」
カケルは青ざめた。五十人を相手にするということは、それだけ強力な魔法が必要だということ。つまり、より恥ずかしい黒歴史を詠唱しなければならない。
「どの程度の威力が必要なんでしょうか?」
「そうだな…」グレンが考え込んだ。「君が今まで使った中で最大威力だった『哲学ノート』の詠唱。あれの十倍は欲しいところだ」
「じゅ、十倍!?」
カケルは椅子から転げ落ちそうになった。哲学ノートの詠唱でも十分恥ずかしかったのに、その十倍となると…
「つまり、君の封印している『最もヤバい黒歴史』を使う必要があるということだ」
「それだけは…」
「カケル」ハルネが真剣な目で見つめた。「街の人たちの命がかかってるのよ」
カケルは葛藤した。確かに、人命には代えられない。だが、あの黒歴史を詠唱したら、本当に社会的な死を迎えることになる。今まで隠し続けてきた、絶対に人に知られてはいけない記憶。
「どんな内容なんだ?参考までに聞かせてくれ」グレンが興味深そうに言った。
「それは…」カケルは声を震わせた。「絶対に言えません」
「そんなにヤバいのか?」
「はい。たぶん、詠唱した瞬間に俺の人生が終わります」
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翌日の夜明け前。ベルダノスの軍勢が街の入り口に現れた。
黒いローブに身を包んだ狂信者たちが、ゾンビのようにゆっくりと歩いてくる。先頭に立つのは、異様に背の高い男——邪教の司祭ベルダノスだった。
「ククク…小さな街だな」ベルダノスが不気味に笑った。「だが、新鮮な魂がたくさんある。特に…」
彼の視線が、街の中央広場で待ち構えるカケルに向けられた。
「異界から来た者よ。お前の魂は特別に美味そうだ」
「うわあ…本物の悪役だ」カケルは震え上がった。
ベルダノスは両手を上げ、何かを詠唱し始めた。すると、狂信者たちの目が赤く光り、獣のような雄叫びを上げて街に突撃してきた。
「来るぞ!」マルクスが叫んだ。
衛兵隊と冒険者たちが迎撃に向かうが、狂信者たちは痛みを感じないため、傷を負っても止まらない。たちまち防衛線が突破されそうになった。
「カケル!今よ!」ハルネが叫んだ。
カケルは意を決した。まずは、中程度の黒歴史から。
「俺が高校二年の時に、文化祭で一人芝居をやって、『ハムレット』の名台詞を大声で叫んだら、観客が全員帰っちゃったことがあります!」
雷撃が炸裂し、狂信者の群れに直撃した。十人ほどが倒れる。
『高校文化祭・一人芝居大失敗事件』
『演目:ハムレット(一人三役)』
『観客数:開始時50人 → 終了時0人』
「効いてる!でももっと威力が必要だ!」グレンが叫んだ。
カケルはさらに恥ずかしい記憶を掘り起こした。
「俺が大学一年の時に、合コンで『俺、実は詩人なんだ』って自己紹介して、その場で自作の詩を朗読したら、女の子たちが全員席を立ったことがあります!」
より強力な雷撃が放たれ、さらに十五人の狂信者が倒れた。
『合コン詩人自己紹介事件』
『朗読した詩:「君の瞳に映る僕の魂」』
『女性陣の反応:全員トイレに避難(そのまま帰宅)』
「まだ足りん!もっと強力なやつを!」
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しかし、まだ二十人以上の狂信者が残っていた。そして、最強の敵であるベルダノスは全く無傷だ。
「ふん、面白い魔法を使うな」ベルダノスが嘲笑った。「だが、所詮はその程度か」
ベルダノスが何かを詠唱すると、倒れた狂信者たちがゾンビとして蘇り始めた。
「嘘でしょ…」ハルネが青ざめた。
敵の数が元に戻ってしまった。しかも、今度は死体なので物理攻撃がほとんど効かない。
「カケル!最大威力の詠唱を!」マルクスが絶叫した。「このままじゃ全滅だ!」
カケルは震えた。ついに、その時が来てしまった。封印していた、絶対に人に知られてはいけない記憶。人生最大の黒歴史。
「で、でも…」
「お願い!」ハルネが涙を浮かべて叫んだ。「みんなを救って!」
街の人たちの顔が頭に浮かんだ。宿屋の主人、食堂の客たち、子供たち。みんな、カケルを温かく受け入れてくれた人たちだ。
「くそ…くそおおおお!」
カケルは天を仰いだ。もう、覚悟するしかない。
「俺が…」
声が震える。
「俺が十五歳の時に…」
全身が汗まみれになる。
「オカンの携帯で自分の声を録音して着信ボイス作ってたんです!」
空気が静まり返った。
「『広瀬です!マッハで電話出ろ!』って叫んでたのが…」
カケルの声がひび割れる。
「未だに親戚にネタにされてることが…本当なんですうううう!」
その瞬間、世界が変わった。
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空が真っ黒に染まった。
カケルから放たれた雷撃は、もはや雷撃とは呼べない何かだった。黒い稲妻が空全体を覆い、大地を震わせ、空間そのものを歪ませる。
「な、なんだこの魔力は!?」ベルダノスが初めて恐怖の表情を浮かべた。
黒い稲妻は狂信者たちを一瞬で蒸発させ、ベルダノス自身も直撃した。邪悪な司祭は「ぐああああ!」という断末魔の叫びを上げて消滅する。
だが、その代償は凄まじかった。
空中に浮かんだ光文字は、もはや文字ではなく映像だった。十五歳のカケルが母親の携帯電話に向かって「広瀬です!マッハで電話出ろ!」と叫んでいる姿が、巨大なスクリーンのように空に映し出されている。
しかも、音声付きで。
『広瀬です!マッハで電話出ろ!』
その声が街中に響き渡った。何度も、何度も、リピート再生されている。
「やめろおおおおおお!」
カケルは地面に倒れ込んだ。もう立ち上がる気力もない。
「マッハで電話出ろって…」ハルネがぽつりと呟いた。「なにそのセンス…」
「聞くなあああああ!」
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戦いは終わった。ベルダノスと狂信者たちは全滅し、街は救われた。だが、カケルの社会的生命は完全に終焉を迎えていた。
「広瀬です!マッハで電話出ろ!」
空中の映像は、まだ再生され続けている。十五歳のカケルの得意顔が、街の人全員に見られている。
「あの…すごい魔法でしたね」マルクスが気まずそうに言った。
「はい…ありがとうございます…」カケルは虚ろな目で答えた。
「でも、マッハで電話出ろって、どういう意味ですか?」
「聞かないでください…お願いします…」
グレンが興奮気味に近づいてきた。
「素晴らしい!これほどの魔力を見たのは初めてだ!しかし、詠唱内容が視覚・聴覚両方で再現されるとは!理論上はありえない現象だ!」
「理論とかどうでもいいんです…もう俺の人生終わりました…」
ハルネが心配そうにカケルの肩に手を置いた。
「大丈夫よ。みんな、あなたが街を救ったこと、忘れないから」
「でも、マッハボイスも忘れられないですよね…」
「…それも忘れないわね」
「うわああああん!」
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その後、カケルの「マッハボイス」は街の伝説となった。
教会の鐘の代わりに、時間を知らせるために毎日再生されることになった。朝六時、昼十二時、夕方六時。一日三回、街中に響く。
『広瀬です!マッハで電話出ろ!』
「もう慣れましたよ」と言いながら、カケルの顔は毎回真っ赤になる。
「でも、街のみんなが時間を守るようになったわ」ハルネがフォローした。「マッハボイスのおかげで」
「フォローになってません」
一週間後、魔導学院本校から研究員がやってきた。カケルの暴露詠唱を詳しく調べるためだ。
「君の能力は、魔法史に新たなページを刻むものだ」研究員のエリザベス博士が興奮して言った。「特に最後の詠唱は、単なる暴露詠唱を超越している」
「どういうことですか?」
「君の羞恥心が極限に達した時、魔法は現実改変レベルまで到達した。つまり、理論的には何でもできる可能性がある」
「何でも?」
「そうだ。だが、その代償も相応に大きくなる」
カケルは考え込んだ。確かに、強力な力を得たが、失ったものも大きい。
「でも」ハルネが言った。「あなたのマッハボイス、街の子供たちには大人気よ」
実際、街の子供たちは「マッハおじさん!」と呼んで、カケルに懐いている。
「マッハで電話出ろ!って言って!」
「やだ」
「お願い!」
「絶対やだ」
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夜、銀月亭の屋上でカケルとハルネは星空を眺めていた。二つの月が煌々と輝いている。
「後悔してる?」ハルネが聞いた。
「正直、めちゃくちゃ恥ずかしいです」カケルが苦笑いを浮かべた。「でも、街のみんなを救えて良かった」
「あなたって、本当に優しいのね」
「優しいって言うか…もう開き直るしかないんです」
頭上には、相変わらず光文字が浮かんでいる。今日追加されたのは:
『十五歳時制作・母親携帯用着信ボイス』
『内容:「広瀬です!マッハで電話出ろ!」』
『現在の再生回数:街全体で一日約300回』
「300回って…」カケルが頭を抱えた。
「でも、もうみんな慣れてるわよ?」
「慣れの問題じゃないです!」
ハルネがクスクス笑った。
「でも、これで分かったわね。あなたの能力の本当の可能性」
「そうですね…」
カケルは空を見上げた。確かに、凄まじい力を発揮できることが分かった。だが、その代償も理解した。
「次はもっと強い敵が来るかもしれません」
「その時は、また新しい黒歴史を?」
「うーん…実はまだあるんですよ。マッハボイス以上にヤバいやつが」
「え?まだあるの?」ハルネが驚いた。
「はい。でも、それは本当に世界が終わりそうな時まで封印しておきます」
「どんなやつなの?」
「それは…」カケルは首を振った。「絶対に言えません。マッハボイスが可愛く見えるレベルです」
「そんなのがまだあるのね…」
二人は黙って星空を眺めた。街は平和に眠っている。明日もまた、マッハボイスが時を告げるだろう。
「でも」カケルが呟いた。「この世界、案外悪くないかもしれません」
「え?」
「恥ずかしいことはたくさんあるけど、みんな受け入れてくれる。元の世界じゃ、こんなに人と深く関われなかった」
「そうね」ハルネが微笑んだ。「あなたの黒歴史、みんなを笑顔にしてるもの」
「複雑な気分ですけどね」
遠くから、夜警の声が聞こえてきた。
「夜中の二時をお知らせしまーす!マッハで時間確認しろー!」
「うわああああ!アレンジしないでくれええええ!」
カケルの絶叫が、静かな夜に響いた。
明日もまた、彼の恥ずかしくも温かい異世界生活が続いていく。
こちらもよろしくお願いします。
「無理ィィィイ!!」と絶叫しながら女子大生がボディブローで吹き飛ばす異世界がやばい
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