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1.

『詠唱せよ、汝の最も晒したくない記憶を。さすれば力は汝のものとなる』


「グルルル…グアアアア!」


薄暗い異世界の空の下、巨大な魔物たちに囲まれた広瀬カケルは、背中を古い石碑に押し付けながら震えていた。狼のような体に鋭い牙と爪を持つ化け物が、少なくとも五匹。円陣を組むように彼を取り囲み、ゆっくりと距離を縮めてくる。


「死ぬ…俺、死ぬのか?」


足は震え、心臓は激しく鼓動を打っている。頭上には二つの月が浮かび、この場所が確実に異世界であることを物語っていた。


なんで俺がこんなことに…?


必死に逃げ道を探しながら、カケルは今日の出来事を思い返そうとした。確か、大学からの帰り道で…


--------


「はぁ…今日の講義もクソつまらなかった」


——数時間前。


大学三年生の広瀬カケルは、キャンパスの夕陽を眺めながら重いため息をついていた。経済学部の必修科目「マクロ経済学」の講義を終えた彼は、いつものように一人で帰路についている。


二十歳になった今、カケルは至って普通の大学生だった。身長は平均的、顔も特別イケメンでも不細工でもない。服装はユニクロとGUで固めた無難なコーディネート。友人は数人いるが、深く付き合うほどでもない。バイトは週三回のコンビニ店員。恋人はいない。


要するに、どこにでもいる平凡な大学生。それが今の広瀬カケルという人間だった。


しかし、そんな彼にも隠したい過去がある。いや、正確には「絶対に人には知られたくない黒歴史」が山ほどある。


中学二年生から高校一年生にかけて、カケルは重度の中二病患者だった。ネット掲示板に自作の詩を投稿し、「暗黒詩人・カケル=ナイトメア」なるハンドルネームで活動していた。その詩の内容たるや、今思い出すだけで全身が痒くなるような代物ばかり。


『闇に沈む僕の心、君だけが希望の光』

『血と涙で書いた愛の詩、永遠に君のもの』

『この世界は偽りに満ちている、真実を知るのは僕だけ』


当時は本気で「俺って詩的センスあるんじゃね?」と思っていたのだから、人間の記憶というものは恐ろしい。


「うわああああ!なんで今思い出すんだよ!」


歩きながら両手で頭を抱えるカケル。通りがかりの学生たちが怪訝そうな視線を向けるが、彼は気づかない。


あの頃の自分は、本当に痛かった。詩だけではない。自撮り写真にポエムを重ねてSNSに投稿したり、メールアドレスを「kurokakumei_darklove@...」にしたり、小説投稿サイトで恋愛小説を書いて「これが真の愛だ」とか豪語したり。


幸い、高校二年生になる頃に我に返ったカケルは、それらの黒歴史を可能な限り削除し、封印した。今では誰もその事実を知らない。両親すら、息子のネット上での痛々しい活動については詳しく把握していない。


「よし、今日は早く帰って、ゲームでもして忘れよう」


カケルは気持ちを切り替えると、最寄り駅へと向かう歩みを早めた。


だが、運命は彼にそんな平穏を許さなかった。


キャンパスから駅へと続く細い道を歩いていた時、それは起こった。


突然、足元から強烈な光が立ち上がったのだ。


「うわっ!な、なんだこれ!?」


カケルは慌てて後ずさりしようとしたが、光は瞬く間に彼の全身を包み込んだ。視界が真っ白になり、浮遊感が襲う。体が宙に浮いているような、いや、実際に浮いているような感覚。


「えっ、えええええ!?」


絶叫とともに意識が途切れた。


次に目を覚ました時、カケルは見知らぬ場所に立っていた。


「ここ…どこだ?」


周囲を見回すと、そこは古めかしい石造りの円形広場だった。足元には複雑な魔法陣のような文様が刻まれており、その中央にカケルは立っている。空は薄暗く、見上げると二つの月が浮かんでいるのが見えた。


「に、二つの月!?これって…まさか異世界転移!?」


アニメや小説でよく見る展開だが、実際に体験するとなると話は別だ。カケルの足は震え、心臓は激しく鼓動を打っている。


広場の端には、古い石碑が一つ立っていた。カケルは恐る恐るそれに近づく。石碑の表面には、なぜか日本語で文字が刻まれていた。


『汝、異界の来訪者よ。

この世界で力を得たくば、古の詠唱法に従え。

詠唱せよ、汝の最も曝したくない記憶を。

恥辱と引き換えに、汝は真の力を手にするであろう』


「は?最も曝したくない記憶って…」


そして、カケルが石碑の文字を読み上げた瞬間——



--------

——広場の周囲から低いうなり声が響いてきたのだった。


「グルルル…グアアアア!」


思い出が途切れ、カケルは現実に引き戻された。今まさに、森の奥から現れた巨大な魔物たちに取り囲まれている状況だ。


「そうだった…石碑を読んだら化け物が出てきて…」


魔物の一匹が飛び掛かってきた。カケルは反射的に両手を前に突き出し、石碑の言葉を思い出す。


『詠唱せよ、汝の最も曝したくない記憶を』


「詠唱って…まさかあの恥ずかしい記憶を声に出せってこと?」


生死の境で、カケルは絶叫した。


「俺が中学二年の時に書いたラブソングの歌詞がまだスマホに残ってるって本当なんです!『光るお前は俺のナイフ、暗闇切り裂く愛の証』とか書いてて、今でも見るたびに死にたくなるんです!」


その瞬間、カケルの手のひらから青白い電撃が迸った。


「え?」


雷撃は飛び掛かってきた魔物を直撃し、一瞬で炭と化す。だが、それだけでは終わらなかった。カケルの詠唱内容が、なぜか光の文字となって空中に浮かび上がったのだ。


『俺が中学二年の時に書いたラブソングの歌詞がまだスマホに残ってる』

『光るお前は俺のナイフ、暗闇切り裂く愛の証』


「うわああああ!なんで文字になって出てくるんだよ!」


カケルの絶叫をよそに、残りの魔物たちも攻撃を仕掛けてきた。必死になった彼は、さらなる黒歴史を詠唱する。


「俺のメールアドレスが『kurokakumei_darklove』で始まるのも本当です!革命とか愛とか、なんで英語にしたんだ当時の俺!」


再び雷撃が炸裂し、魔物が一匹消し飛ぶ。同時に、またしても光文字が宙に舞った。


『メールアドレス:kurokakumei_darklove@...』


「やめろおおお!もう出てくるなああああ!」


戦闘は約十分間続いた。その間、カケルは次々と自分の黒歴史を詠唱し、強力な雷撃で魔物たちを殲滅していく。だが、その代償として彼の恥ずかしい過去が次々と光文字として空中に表示され続けた。


『高校生の時、一人でカラオケに行って自作の歌を歌い、録音していた』

『「俺の歌声、結構イケてるんじゃね?」と本気で思っていた』

『小説投稿サイトのアカウント「DarkPoet_Kakeru」がまだ生きている』

『処女作のタイトルは「永遠の愛、血と涙の叙事詩」』


最後の魔物を倒し終えた時、カケルは膝から崩れ落ちた。


「はぁ…はぁ…勝った…のか?」



--------

しかし、安堵もつかの間、広場の入り口から人影が現れた。


「すごい魔力反応だったけど…まさか一人でブラッドウルフの群れを?」


現れたのは、長い銀髪に青い瞳をした美少女だった。年齢は十七歳くらいだろうか。魔導士風のローブを身にまとい、手には木製の杖を持っている。


「あ、あの…」


カケルが声をかけようとした瞬間、少女の視線が空中に浮かぶ光文字に注がれた。


『小説投稿サイトのアカウント「DarkPoet_Kakeru」がまだ生きている』

『処女作のタイトルは「永遠の愛、血と涙の叙事詩」』


「………」


静寂。


少女の表情が微妙に変化する。困惑、驚愕、そして…なぜか興味深そうな眼差し。


「あの…これは…」


「見るなああああああ!」


カケルは地面に土下座した。顔面は茹でダコのように真っ赤になり、全身から湯気が立ち上っているように見える。


「お願いします!今のは忘れてください!特に最後のやつ!あれは黒歴史中の黒歴史なんです!」


「え、えーっと…」


少女は慌てたように両手をひらひらと振った。


「だ、大丈夫よ!私、そういうの慣れてるから!魔導学院にも変わった人いっぱいいるし!」


「うそつけ!絶対笑ってるでしょ!?」


「笑ってない笑ってない!…ちょっとだけ驚いたけど」


少女は咳払いをして、改めてカケルに向き直った。


「私はハルネ・ミクリオ。王立魔導学院の見習い魔導士よ。あなたは?」


「広瀬カケル…です…」


まだ土下座の姿勢を崩さないカケル。ハルネは困ったような表情で、彼の前にしゃがみ込んだ。


「カケル…さん?顔を上げて。私が聞きたいのは、今の魔法のことなの」


「魔法?」


「そうよ。あなたが使った雷撃魔法。あれ、普通の詠唱じゃなかった。どうやって発動させたの?」


カケルはゆっくりと顔を上げた。ハルネの瞳には純粋な興味の色が宿っている。嘲笑や軽蔑ではなく、本当に関心を示しているようだった。


「え…えーっと…なんか石碑に『恥ずかしい記憶を詠唱しろ』って書いてあったから…」


「恥ずかしい記憶を?」


ハルネの目が輝いた。


「それって…もしかして『暴露詠唱(アーク=コンフェッション)』?」


「は?」


「古代魔法の一種よ。自分の秘密や恥部を告白することで魔力を引き出す術。でも、普通は自白の儀式にしか使わないの。それを実戦で、しかもあんなに強力な雷撃として発動させるなんて…」


ハルネは興奮気味に早口で説明する。カケルは話についていけず、ただぽかんと聞いていた。


「つまり…俺の恥ずかしい過去が魔法の燃料ってこと?」


「そういうことになるわね。でも代償も大きい。あなたの秘密が周囲の人たちに知られてしまうもの」


実際、さっきの戦闘中に現れた光文字は、まだ空中にうっすらと残っている。カケルは改めて絶望的な気分になった。


「うわああああ!やっぱり最悪じゃないか!」


「でも、すごく強い魔法よ?この世界で生き抜くには必要な力だと思うけど」


「生き抜くって…俺、元の世界に帰れないんですか?」


ハルネは申し訳なさそうに首を横に振った。


「異世界転移者の帰還事例は…ほとんどないわ。記録に残ってるのは、この百年で二例だけ」


「そんな…」


カケルは再び地面に座り込んだ。現実が重くのしかかる。


故郷に帰れない。この世界で生きていかなければならない。そして、生き抜くためには自分の黒歴史を晒し続けなければならない。


「でも」


ハルネが優しい声で言った。


「一人じゃないわ。私が手伝う」


「え?」


「あなたの能力、とても興味深いもの。魔導学院の研究対象としても価値があるし…それに」


ハルネは微笑んだ。


「面白そうじゃない。『暗黒詩人・カケル=ナイトメア』の冒険譚」


「やめろおおおお!そのハンドルネーム言うなあああああ!」


カケルの絶叫が夜空に響いた。二つの月が、まるで彼を嘲笑うように煌々と輝いている。



--------

ハルネに案内され、カケルは近くの街にやってきた。石造りの建物が立ち並ぶ、典型的な中世ヨーロッパ風の街並み。夜だというのに、街の中央大通りには多くの人が行き交っている。


「ここで宿を取りましょう。明日、魔導学院に連絡を取って、あなたの身元保証をしてもらうわ」


「身元保証?」


「異世界転移者は、まず王国に登録しなければならないの。魔導学院の推薦があれば、手続きは簡単になるはず」


ハルネは慣れた様子で街を歩いていく。カケルは彼女の後をついて行きながら、周囲の視線が気になって仕方がなかった。


先ほどの戦闘の際に現れた光文字は、まだ完全には消えていない。薄っすらと、しかし確実に、カケルの頭上に浮かんでいるのだ。


『メールアドレス:kurokakumei_darklove@...』

『処女作のタイトルは「永遠の愛、血と涙の叙事詩」』


通りがかりの人々が、その文字を見てクスクスと笑っている。


「うああああ…死にたい…」


「大丈夫よ、そのうち消えるから」


ハルネは慰めるように言ったが、カケルの心は折れかけていた。


宿屋「銀月亭」は、中央大通りに面した三階建ての建物だった。一階が酒場、二階と三階が客室になっている。ハルネが宿主と交渉し、カケルの部屋を確保してくれた。


「一泊銀貨三枚よ。食事付きで」


「銀貨…」


当然、カケルは異世界の通貨など持っていない。ハルネが立て替えてくれることになった。


「後で返します」


「気にしないで。魔導学院から研究協力費が出るはずだから」


部屋は質素だが清潔だった。ベッド、机、椅子、洗面台。必要最小限の設備は整っている。カケルは疲れ切ってベッドに倒れ込んだ。


「今日は休んで。明日、詳しい話をしましょう」


ハルネはそう言って部屋を出て行った。一人になったカケルは、天井を見つめながら今日の出来事を振り返る。


異世界転移。魔物との戦闘。黒歴史を使った魔法。そして、帰還の望みが薄いという現実。


「なんで俺がこんな目に…」


しかし、嘆いていても状況は変わらない。この世界で生きていくしかないのだ。


そして、生きるためには戦わなければならない。戦うためには魔法を使わなければならない。魔法を使うためには…黒歴史を詠唱しなければならない。


「もう、開き直るしかないのか?」


カケルは苦笑いを浮かべた。


昔から、彼には一つだけ取り柄があった。それは「恥をかくことに慣れている」ということ。中二病時代に散々恥ずかしい思いをしてきたおかげで、普通の人よりも恥への耐性が高いのだ。


「よし…どうせなら、思いっきりやってやる」


カケルは立ち上がり、窓の外を見た。二つの月が街を照らしている。


「俺の黒歴史で、この世界を救ってやる」


それは、広瀬カケルという平凡な大学生が、真の冒険者へと変貌する瞬間だった。


頭上にはまだ、光文字がうっすらと浮かんでいる。


『暗黒詩人・カケル=ナイトメア、永遠に封印されし詩集』


「うわああああ!まだ出てくるのかよ!」


カケルの絶叫が、銀月亭の夜に響いた。


隣の部屋から壁を叩く音が聞こえてきたが、彼が静かになることはなかった。なぜなら、光文字はまだまだ増え続けていたからだ。


『高校時代、一人で公園のベンチに座って月を見上げながら「俺って詩人の素質あるよな」とつぶやいていた』

『その時の詩「月よ、お前は俺の心を理解しているか」』


「やめろおおおおお!」


こうして、広瀬カケルの異世界生活の第一日目は、絶叫とともに更けていった。


明日からの冒険がどうなるかは、神のみぞ知る。


だが一つだけ確実なことがあった。それは、彼の黒歴史がこの世界の人々に強烈なインパクトを与え続けるであろうということだった。


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