婚約破棄を受け入れて潔く身を引こうとしたのに、致命傷を与えてしまった
「クロエ、君との婚約を破棄させていただきたい。本当にすまない。慰謝料はもちろん払わせてもらう」
「そんな、オード……。どうして……」
「商会のため、従業員のため仕方ないんだ」
オードの透き通ったブルーの瞳に、驚いた顔をする赤毛の女が見える。私の顔だ。
お気に入りの喫茶店の窓際のいつもの席。今日はやたらとおじ様のお客さんが多いなと思いながら椅子に座れば、そこで私を待っていた婚約者の顔がなんだか憂いを帯びているような気がして、嫌な予感がした。
この茶髪の青年はオード。彼は私の婚約者で、今では若いながらに名のしれた商会の会長をやっている。オードとは私が道を聞かれたことがきっかけで出会い、彼の誠実な人柄に惹かれて婚約するまでに至った。
その彼が突然婚約破棄だなんて、いったい何があったのだろう。
「オード、何があったの。話してくれない?」
「……実は、とある伯爵令嬢に売ったネックレスが不良品で、怪我をさせてしまったんだ。とんでもない額の賠償金を請求されているんだけど、もし俺がその令嬢と結婚するならそれはなかったことにしてくれるって」
「そんなの、あなたは悪くないじゃない!」
「それが通じる相手ならよかったんだけどな。……とにかく、本当にすまない。君との結婚はできなくなった」
オードは商会の会長をしていて将来有望だし、顔だって舞台女優だった母親の美貌を引き継いで若い女の子が好みそうな甘い顔立ちをしている。もしかしたら、その商品のせいで怪我をしたというのも言いがかりかもしれない。
しかし、相手は貴族だ。賠償金は資産家と呼ばれる程度にはお金があるうちが払ってあげられるとしても、相手の思う通りにしないと商会の評判に傷をつけられかねない。厄介な相手に目をつけられてしまったものだ。
「……そう。わかったわ」
「クロエ……」
「私の方から婚約破棄しよう思っていたから、ちょうどよかったわ」
ものすごく悲しかったし今にもすがりつきたかったけど、彼にものっぴきならない事情がある。オードが私のことで罪悪感を感じないように強がって振る舞うと、なぜか。周囲からどよめきが起こった。
えっ、どういうこと?何かあったの?
よくわからなくて周囲を見回していると、私たちのテーブルに誰かが立った。
見れば、そこにいたのは黒目黒髪の精悍な顔つきの男性。腰に剣がないのが不思議なくらい屈強な体をしている彼は、私の知り合いだった。
私にとって兄みたいな存在のユージーン・ハロルド。国の内外で名を知れ渡らせている大商会の会長であり、国への莫大な寄付により伯爵位を得ている。また、やり手と評判で同業者からは恐れられていた。
「やあ、クロエ。遅くなってすまない。話はもう終わってしまったかな?」
きょどきょどしながら私とユージーンさんを交互に見るオード。お前が呼んだのかという無言の訴えを感じるが、呼んでないし彼がここに来ていること自体も知らなかった。
「ゆ、ユージーンさん?どうして……」
「合わせて」
困惑している私の言葉をユージーンさんは遮るように囁いて、にっこり笑いながらオードに向き合う。オードは自分のところよりずっと大きな商会の会長を前にして緊張しているのだろうか、いっそ怯えているような顔を浮かべていた。
「はじめましてオード。もうクロエから話は聞いてくれたかな?」
「は、話というのは……?」
「おや、まだ話していなかったのか。君とクロエの婚約破棄のことだよ。実は私達、お互いに好きになってしまってね。これはきっと真実の愛だと思うんだ。クロエのことを思うなら身を引いてくれるかい?」
「は、はい……」
「ああよかった。物わかりがよくて嬉しいよ」
た、助けてくれたんだよね、これは。他人の心の機微に鋭いユージーンさんは、私が何を考えているのか悟って助け舟を出してくれたに違いない。でなければ、即席で略奪婚の間男役なんて誰がやるもんか。
そう勝手に納得しながら、ユージーンさんに手を引かれるまま私な喫茶店を後にした。
「ユージーンさん、あの、ありがとうございました」
「お礼を言われることをした覚えはないけれど?」
「さっきのことです。新しい恋人のふりをしてくださって助かりました。これで彼も婚約破棄したことを後ろめたく思わなくて済むはずです」
喫茶店から少し離れた噴水広場、そこで立ち止まった彼に私は頭を下げる。
オードはこれから大変だろうし、そんな彼の重荷にはなりたくない。だから、ユージーンさんが一芝居打ってくれて本当に助かった。
安心した気持ちでユージーンさんにお礼を言えば、彼は額に手を当てながら大きなため息を吐いていた。
「クロエ……」
「はい」
「君は少し、……いや、だいぶだ。お人好しが過ぎるんじゃないか?」
「先ほどの婚約破棄のことですか?でも、彼にも事情があったのだし……」
「言いにくいことだが、俺ははっきり言うぞ。クロエ、君は騙されていた。君の元婚約者とその伯爵令嬢とやらはグルだ。元からあいつらは恋人同士で、結婚するために君を、君の家を利用したんだ」
どういうこと?目を白黒させる私に、ユージーンさんは「いいか?」よくよく言い聞かせるように私の肩を掴んで目を合わせてくる。
「伯爵令嬢と吹けば飛ぶような小さな商会の商会長。いくら二人が愛し合っていたとしても、伯爵が結婚を許すはずがない。だが、もし、その商会が大きく、娘を十二分に養っていけるほど強大なものだったら?幸いと言っていいのか、その娘は四人姉妹の末っ子だ。その彼が後継ぎになることもない。伯爵も二人の結婚を許してくれるかもしれないね。ちなみに、その筋の専門家に調べてもらった情報だよ」
「え……?そんなこと……」
「信じられない?でも、君は彼の支援をして、そのおかげで彼の商会は大きくなった。さっきのあいつ、慰謝料は払うなんて殊勝なことを言っておいて、支援の返金については何も言わなかった。ちゃっかりしてやがるぜ」
「そんなこと、……あるかも」
言われてみれば彼にいいように言いくるめられて契約書のひとつも作らなかった。支援の約束を取り付けてからの彼は忙しいと言って会う頻度が極端に減っていたし、私ってば本当に騙されていたのかも。
お父様も渋い顔をしていたのに甘い言葉に舞い上がっていた私が婚約を押し切った。嫌な予感がしたのに、気のせいだと思い込むようにしていた。
思いおこせば怪しい所がどんどんと浮かび上がってきて、もうオードを信じる気はほとんど無くなってしまった。
なにより、ユージーンさんは我が家に不義理なことは絶対にしない。きっと、本当のことを言っているのだ。
「最悪……。こんなことならもっと罵ってやればよかった」
「おいおい、十分だっただろうよ」
「十分?あれのどこが十分だって言うんです?」
「君、自分と自分の家の商売を忘れたのかい?」
「アドバイザーの方ですよね?忘れてないですけど、今は関係なくないですか?」
我が家はあらゆる相談を聞いてアドバイスをすることを生業にしている。
父方の一族がとんでもなく勘が鋭くて、百発百中で正解の道を引き当てられたからだ。アドバイスのおかげで成功を収めたとものすごく感謝され、何度も依頼が来るおかげで我が家の財産はどんどんと増えている。ありがたいことなのだけど、あまり顧客が増えると手が回らないので紹介制にして、表向きもいくつかの飲食店を経営する経営者ということにしていた。
ここにいるユージーンさんもその関係での知り合い立ったりする。
しかし、今は関係ないだろう。
「あるよ。あの時、実は俺はあそこに君の家に世話になったことのある連中を呼んでたんだ。お嬢さんが男に騙されて泣かされそうだと言ったら、皆殺気立って集まってくれたよ」
「えっ、色々つっこみたいところはあるんですけど、ちょっと待って。ということは……」
「私の方から婚約破棄しようと思っていた。……皆、それを聞いて思っただろうな。お嬢さんがそう言うからには、この男は早急に手を切らないといけないとやばい未来があるんだって。実際、オードだっけ?あれと取引をしていたやつは顔色を変えていたよ」
遠くない未来、あの商会は潰れちまうだろうな、なんてユージーンさんはどこか楽しげに言う。こうなるともう、十分を通り過ぎてやり過ぎなくらいだろう。
すっかり毒気を抜かれてしまった。
「それは……、本当にありがとうございます。……でも、ここまでしてくださらなくてよかったのよ。助かったけど、なんだか申し訳ないわ。ユージーンさん、いつもお忙しいのに」
「なに。八割くらい俺自身のためだから、気にしなさんな」
「今度はどういう意味かしら……?」
「俺は君の婚約者なんていなくなればいいってずっと思ってた。あの婚約者を調べたのだって、ちょっとでも悪いところがあったら吊るし上げてやろうとと思ってやっただけさ。……ま、実際はかなり悪かったんだが」
「ごめんなさい。本当にどういう意味なのか……」
「君が好きだ」
ユージーンさんが私を好き?
言われた瞬間頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。彼はこれから大事な商談があるみたいな真面目な顔をして、私の手を握っていた。
「野良犬のようだった俺を君が掬い上げてくれたあの日から、君は俺の女神だった。美しすぎて眩しくて、触れるのをためらっているうちに掻っ攫われたと知ったときは死ぬほど悔しかった」
「そ、んな、大げさです……」
「大げさじゃない」
確かに、数年前に道端でぼろぼろになって倒れていた彼を拾い、手当てをしたのは私だ。目が合った瞬間放っておけなくて、気づけば手を差し伸ばしていた。まさかここまで立派になるとは思っていなかったし、恩返しされたくてやったわけじゃない。
しかし私が後ずさると、彼はその距離を潰すようにその分踏み込んでくる。
「なんだったら、そのお得意の勘で見ればいい」
私を見下ろしてユージーンさんは言う。
悪い予感は少しも感じられなくて、私は顔を赤くしながら固まってしまった。なんて答えたらいいのか、そこまでは勘ではわからなかったから。