巫女の旅立ち
朝靄のなか、旅の支度を終えた巫女が家の前に立つ。
彼女を拾い育ててくれた元旅人が、無言で佇んでいる。
「……本当に行くのか。」
巫女は小さくうなずく。
この場所に流れていた静かな時間、守られていた日々、過ぎ去った家族の温もり。すべて心に抱えたまま、彼女は静かに前を見る。
「お世話になりました。」
旅人はわずかに視線をそらす。
「礼なんていらない。ただ、危険な道だからな。」
巫女は胸の奥に、静かな想いが満ちていくのを感じる。
もう迷う理由はない。ここで過ごした時間が、歩き出す力をくれた。
旅人は小さくうなずき、巫女の肩に手を置く。
「自分を見失うな。」
巫女はまたうなずき、背を向けて歩き出す。
新しい朝の空気が少しだけ冷たい。振り返れば、確かな日々がそこにあったとわかる。
「……気をつけて行け。」
短い言葉を胸に刻み、巫女は静かに歩みを進める。
旅人は小さく呟く。
「行ってこい。」
巫女は一度だけ振り返り、かすかに微笑んだ。言葉にできない思いがその笑みに重なる。
ここは「エフィルス」。
幾つもの国と文化、さまざまな人々や歴史が息づく広大な大陸――。この世界を知る者なら誰もがまず思い浮かべるのが、東方に広がるアルディナ王国と、南のザール魔族領の存在であろう。
アルディナ王国。そこは、古くから人の文明を築いてきた大国である。
王都には荘厳な城がそびえ、白亜の神殿が神官たちによって守られ、石畳の大通りには多種多様な人々や商人が行き交う。
市場には各地の品が並び、季節ごとに祭りの音楽と笑い声が絶えることはない。
王国の学問と芸術は高く評価され、勇壮な騎士や熟練の魔道士が訓練を重ねている。
町の広場では旅の語り部が王国の繁栄や過去の逸話を語り、市井の人々も誇りと希望を胸に日々を送る。
王都から離れると、林や草原の中に点在する素朴な村々が現れる。農民は土を耕し、子どもたちは麦畑や小川で遊び、四季の移ろいが穏やかな暮らしに彩りを加えている。
だがその穏やかさの裏側では、王国を守るための兵士たちが南の国境で日々警戒を怠らず、鋭い眼差しで遠くを見つめている。
その南、暗く深い森と起伏の多い大地の先に、ザール魔族領が広がる。
ここは人とは異なる姿、異なる力を持つ魔族たちが支配する国である。
黒曜石のような尖塔や不可思議な光を放つ宮殿が影のように佇み、森や谷間の集落には、魔族独自の信仰や儀式が息づいている。
ザールの住人たちは誇り高く、部族や一族ごとに結束しながらも不文律の掟に従い、力と知恵を重んじて暮らす。穏やかな宴や独特の音楽、時に激しい戦の舞が夜を照らすこともある。
アルディナ王国とは、遠い昔から対立と和解の歴史を繰り返してきた。
国境地帯には今も、かつての戦の傷跡が残り、警戒を怠れば忽ち緊張が高まる。英雄や魔族の将たちの伝説が両国に語り継がれ、時には辺境の村を不安が包み込むこともある。
それでも、互いの国に興味のある者たちの交流や密かな取引が静かに行われている場所も存在し、全てが敵対だけで語れるわけではない、そんな複雑な関係が両国では続いている。
西方の砂海帝国カレナスは、終わりのない砂漠、星空の下のオアシス都市、風に舞う絨毯や香料の芳香で知られている。
隊商が行き交い、遠い異国の珍しい品々が時にアルディナの市場にも届く。
カレナスの部族や豪商たちは誇り高く、独自の伝承と掟を持っているが、この国の営みや争いは、時折物語や商談の中で触れられる遠い景色のひとつだ。
北東のハイエン自治領は、山々と森、澄んだ空気に恵まれた知の都。
浮遊する塔、大図書館、魔術師と研究者たちの話題は耳にすることも多いが、アルディナやザールの人々の日々の暮らしから見れば、“遠い聡者の国”としての印象が強い。
時に留学生や学者、珍しい魔道具が王国を訪れ、少し特別な話題をもたらす存在である。
そして大陸の中央に広がる“均衡の地”。
広大な大地のほぼ中心には、すべての均衡を保つと言われる聖域――“均衡の地”が横たわっている。
遥か昔、「白の古代種」が天空の裂け目から突如舞い降り、荒廃しきった大地を浄化した。
彼らが残した奇跡は人々の希望となり、やがて伝説となって受け継がれていく。
強大な力の源であり、古今東西、数々の伝説と争いの火種となってきた場所だ。
そこには、今も多くの伝説が残り、旅人や学者たちを惹きつけてやまない。
古代遺跡や未知の力、奇妙な事件の噂が、各国の物語好きたちの想像をかき立てている。
このように、エフィルスの世界は、均衡の地中心に、人と魔族、人と人とが交錯する舞台となっている。幾多の営みと出会い、緊張と安らぎが折り重なり、この広い大陸の風景を日々形作っている。
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