着物は、自分らしく着ないとヘンテコになる
20年近く前に、ママ友が言った。
「振袖が着たい。」
私は聞き違えたのかと思い、
「そろそろ娘さんの振袖を選ぶ時期だよねー!」
と相槌を打ったが、ママ友は強く答えた。
「娘の事じゃないよ、私が着たいの。」
複数の子を抱えて40になった女が振袖を着る機会なんか、それこそ振袖がドレスコードみたいなパーティーでも企画しない限り全くない。
ママ友は独身時代に何か思い残す事でもあったんだろうか。
彼女は立派な注文住宅に住んで二人のお子さんを育てている幸せそうな人だが、それでも現状に納得できないものがあるのかもしれない。
さて、実は私は振袖を着た事がない。私の嫁ぎ先は子をまだ産んでない嫁は振袖を着るという皇室みたいな事を言ってるような家だが、私が嫁いですぐに不幸があったり、その不幸のすぐ後に私が第一子を妊娠したりで、結局振袖を着ることのないまま現在に至っている。
そして私はその事を別に残念に思っていない。現状に納得しているからだ。
着物は、自分らしく装うのが一番見栄えがする衣服だ。
自分の年齢らしく、自分の職業らしく、この場の自分の役割らしく、自分や自分の家族の出世の状況らしく着る事が求められるし、その通りにするのが一番立派に見えるのだ。
既婚者が未婚者の格好をしてもヘンテコになってしまうし、主役が脇役みたいな格好をしてもその場の全員が困ってしまう。何より、さっき私がママ友について書いたように、人がその人の立場らしくない格好をすると、まるで現状に不満があるかのように見えてしまうのだ。
不機嫌に見えて良い事なんか何もない。
私はしがない塾講師で、還暦で、成人した子らを持つおばさんだ。だからそれらしい格好をしていたい。中高年らしく渋い色柄の着物を教育者らしく首を詰めて着て、すぐに家事ができるように短めに着付けて、しかしひと様にものを教える立場らしく立派そうに白い足袋をはいているのが一番自分らしいし、そう着るのが一番私を立派に見せると思っている。だからそういう着物でそういう着付けをする事で自信が持てる。
若くなりたいとか、お金持ちに見せたいとか思うのは、自分じゃないものになりたがるという事だ。勿論それは向上心ではあるので、顔色が良くなる色彩を研究するとか高級品の掘り出し物を探して着物市に行くのは良い。しかし家庭も子供も忘れて振袖を現実に着ようとするような実現可能性の低い事は、着物を着る場合は厳に戒められてしまうのだ。人を縛るしきたりであり戒めだ。だが私はそれが、日本人の幸せをずっと守ってきた先人の知恵なのだと思っている。
はじめに書いたママ友は、娘さんの卒業式に自分が振袖を着て現れるなどという事はせずに、落ち着いた訪問着で出席して娘さんの門出を祝福した。あれから時は経ち、注文住宅のベランダには今日も娘さんが産んだお孫さんの洗濯物がはためいている。典型的な幸せな風景だ。だがその光景の目に見えない部分には、既に祖母となったママ友がもう一度振袖を着たいと思っていたほどの、悲しいほどの思い残しがあるのかもしれないのだ。彼女に尋ねてみるような事はしないつもりだが、少しでも彼女がその思い残したものを取り戻すことができていたなら良いなと、他所ながら祈り続けている。