赤茄子姫
「申し訳ない」
ジェフリー様は憤っていました。
先程から何度目かの謝罪を口にしながらも、彼は憤っていたのでしょう。
コーンサーチ侯爵家の三男であり、騎士見習いという立場らしからぬそんな態度、端から見ているものがいたらすぐに理解出来てしまうというのに、対峙している私にわからないとでも思っているのでしょうか。
「不実であった」
「不実、などとは……随分と軽い御言葉になったものですのね」
溜息ですらはくのも勿体ない気がして、つい急ぎ言葉を繋いでしまいました。
嫌味すぎる言葉を口にしてしまったと思いましたが、いまさら無かったことに出来るわけもなく、扇で口元を隠すことが精一杯です。
テラスにそよぐ涼しいはずの風も、この気まずい空気の中ではなんら感じることが出来ません。むしろ人の熱気や香水の混じりあったこの王宮のダンスフロアの方が、よほどマシなのではないかと思えます。
そんな意地の悪い考えが伝わったのかどうかはわかりませんが、正面に立つジェフリー様が取り繕うつもりもないような大きな声を響かせました。
「あなたはっ…あなたが、そんな態度だから、私はっ!」
あなたは?私は?私が?誰が?
「私は、あなたを婚約者として尊重して接しておりましたわ」
それはあなたもよくご存知でしょう?
一言、そう言葉を継げば、ジェフリー様はその眉間のシワを一層深めて吐き捨てるように舌打ちしたのです。
「アンジェリカ、あなたのその毒を含んだようなものの言い草にはもううんざりだ」
赤茄子姫とはよくも言ったものだな。
そうして捨て台詞にも似た別れの言葉を私に告げ、足早に去っていきます。ジェフリー様が向かう大広間につながる窓のカーテンの片隅に、薄い水色が揺れていました。
淡いそのドレスの主は、愛らしく光るストロベリーブロンドの男爵令嬢だと、噂で聞いたことがありました。とても優しく素直な少女だとも。
きついカールに真っ赤な髪をした私。
あの人にとって毒を吐くしかない私。
赤茄子のような毒の実に例えられる、
そんな私とは大違いなのでしょう。
一人テラスに残された私は、誰に問うともなく呟きました。
「誰だって毒の実よりも甘い果実の方がお好きに決まってるわ」
「毒?どこからどう聞いても、君の言葉は正論しかなかったようだが」
誰っ!?
フロアから離れたテラスではその華やかな灯りも届かず、半分雲に隠れた月の光だけでは暗すぎてまわりがよく見えません。けれども、誰かが居るのだけは確かです。
「申し訳ない。立ち入ったことを」
暗闇の中、衣擦れの音とともに詫びの言葉を続けるその声は、聞いたことのない御方のものですが男性のものであるのは明らかでした。
「お恥ずかしいところをお見せいたしました」
「いや。ただ私は、君の態度といい、振る舞いといい、全てが正しく何一つ卑下することはないと言いたかったのだが……」
すまない。それすらも煩わしかっただろうか。
クスッ。
相変わらず姿は見えませんが、少し慌てたように取り繕う言葉がおかしくて、思わず声がこぼれ落ちます。
見も知らぬ方になんて恥ずかしい場面を見られてしまったのだろうかと、軽率な行動に後悔しておりましたが、なんだか気がそがれてしまいました。
「いいえ、大変慰められました」
そう体裁のいい言葉を告げれば、ホッとしたような落ち着いた口調で言葉を返されます。
「そうか、なら良かった。ああ、本当に邪魔をしてすまなかった。もう大広間へお戻りなさい。ここは随分と涼しくなってきたからね」
そういわれると確かに少しばかり風が出てきたかもしれません。素直に忠告を聞き入れて、大広間に足を向けたところで、ふと思いついた疑問を口に出しました。
「あの、あなたはお戻りになりませんの?」
馬鹿なことを尋ねました。婚約者でもない男性と時を同じくして大広間に戻ったとしたら、周りの口さがない方々になんと言われるか、わかりきったことではありませんか。
本日は王家主催の夜会です。ここにいらっしゃるということは、それなりの家格の御方と存じますが、それだからこそ未婚の貴族の娘として軽々しい態度をとることは浅慮と言えましょう。
フッ。ほんの少し自嘲が混じったため息の後、小さいけれども、よく通る声で囁かれました。
「私は幽霊ですから」
その言葉と共に一瞬強く吹いた風が、あっという間に見えない彼の気配を持ち去っていってしまいます。
一人残された私は、今日起こった出来事が全て現実であったのかどうか、首を捻るばかりでした。
赤茄子とは、それは赤々とした毒のある実をつける植物です。
可愛らしい外見で観賞用の植物としては人気のものですから、どちらの御家にも一株程度は見られますが、やはり毒の実ということであまり印象はよろしいものではありません。
ランドルテ伯爵家の三姉妹の長女として生を受けた私は、お父様の伯爵位、延いてはお祖父様の公爵家をも継承するかもしれない伴侶を得ることを第一と心得て参りました。
その思いが過ぎる為か少々融通が利かず、ついつい余計な一言を発してしまうという自覚もあります。同じ年の婚約者相手にも、色々と口うるさいことを申し上げたのも良くなかったのでしょう。
そして何時しか、私のこの赤毛という見た目と相まって、とうとう赤茄子姫などと陰で揶揄されるようになってしまいました。
毒を吐く赤茄子姫、それが私、アンジェリカ・ランドルテなのです。
「今日正式に君の婚約を解消したよ、アンジェ」
「はい。御面倒をおかけして申し訳ありませんでした、お父様」
お父様であるランドルテ伯爵が、私に向かい不機嫌な態度を隠しもせず告げられました。
あの王家主催の夜会で、コーンサーチ侯爵家のジェフリー様からの一方的な非難の言葉を受けて、丁度三日目のことです。
「意外と早かったのですね」
「あんな尻の軽い男と、可愛いアンジェをいつまでも婚約させておく訳にはいかないからね。騎士の風上にも置けない。本当にコーンサーチ侯爵には幻滅したよ」
二度と顔も見たくない。そうおっしゃるお父様は、普段の『冷静沈着の権化』と呼ばれるランドルテ伯爵の姿とはとても思えません。
いくら私たち三人の娘を溺愛しているとはいえ、一応相手は侯爵家です。それはどうなのかと、お母様に助け船を乞えば、にこやかに笑みをたたえつつもその言葉はお父様のものよりも辛辣でした。
「ええ、勿論ですわ。次の夜会の御招待も欠席の連絡をさせていただきました。うちからのお誘いも全て見合わせるつもりです」
「ありがとう。流石は私の愛しい妻だ」
カストバール公爵であるお祖父様の爵位を継承予定のお父様は、侯爵家相手にも一切手を緩めるつもりはないようです。
「うちもコーンサーチ侯爵家からの誘いは断るそうだ。どうも母が持病の癪と腰痛とあと二つ三つ程なんだか突然併発したらしい」
「えっ、マイロン侯爵夫人はご病気なの?アルフレッド様、もっと早く教えて下さい」
私の婚約破棄の話を、ぎゅと手を握りながら痛々しい表情で聞いていた妹のクリスティーナでしたが、未来の義母となるマイロン侯爵夫人の空々しい体調不良を聞くと、お見舞いに行かなければと、慌てだしました。そんなティナの手を取り、彼女の婚約者のアルフレッド様がやんわりと伝えます。
「ありがとう、心優しいティナ。君はいつでも素直で可愛らしいね。でも大丈夫。ランドルテ伯爵夫人が頻繁に遊びに来てさえくれれば、直ぐにでも良くなるよ」
アルフレッド様が碧の瞳を細め、うっとりとした表情でティナを見つめ微笑まれました。
どうにも彼にはティナ以外見えてない節がありますので、少しばかり釘をさしておかなければなりません。
「あまり追い詰めないでくださいまし、アルフレッド様。マイロン侯爵家は筆頭侯爵なのですから、皆に後追いされても寝覚めが悪いというものです」
大袈裟にしないでほしいと、言外に言うと、アルフレッド様は大きく肩をすくめます。
「君は相変わらず口が悪い、アンジェリカ」
「まあ、酷いわアルフレッド様!アンジェお姉様はとてもお優しいのよ」
「ああ、そうじゃないよ、ティナ!アンジェリカには、わざわざ憎まれ口を叩かずに、本心を言った方がいいと言ってるんだ」
ティナの言葉に狼狽え、急ぎ言葉を繕うアルフレッド様。本来の彼もティナ以外に対しては、大概口が過ぎると思うのですが、私と違い隠し方がとても御上手ですので特には目立たないようです。
けれども、私にもこの毒舌を、『正しい』と言って下さった御方がいらっしゃいました。
あの日、御自分を幽霊だと仰った御方。
姿一つ見えなかったのに、何故か忘れられない方。
また、いつかどこかで会えることがあるのでしょうか?
淡い期待が胸の中でチリチリと小さく鳴り響きます。
婚約破棄からおよそ一月ほど経った頃、王宮での秋花見の宴が開催されました。
王妃殿下が主催なされる、年頃の貴族の娘のための御茶会だということですし、元々破棄の前には知らせのありました宴だということで、ティナと一緒に参加させていただこうと思い用意をしておりました。
けれども生憎とティナが軽い風邪をひいた為、大事をとって休ませることにし、私一人での参加となったのです。
明るいうちの集まりということで、普段のように濃い色味のドレスは避けて、明るめのものを選びました。
私はこの赤い髪が変に強調されてしまう為、あまり色の薄いドレスは似合う方ではありません。
ただでさえ、18歳という年頃での婚約破棄の話も随分と知れ渡っていることで、嫌な注目を浴びています。私自身が悪いとは髪の毛一筋程も思ってはいませんが、興味本位で尋ねられるのも好ましくありません。
ですから、出来るだけ目立たぬようにと隅の方で親しい友人の御令嬢方達とたわいない会話をしてお茶を濁すことにしていました。
そうして過ごしておりますと、ふと、何かもの言いたげな視線を感じ、そちらの方をそれとなく窺えば、ストロベリーブロンドの髪が揺れていたのです。
彼女がこちらに向けて歩き出すのを見てしまいましたので、周りの方々に失礼を詫び、こっそりとその場から離れました。
一体何をされたいのかわかりませんが、これ以上、人の口の端に上るのは遠慮したいと思います。
会場である広い温室を抜け出し、庭園の方へと足を進めます。
王宮とはいえ庭園の辺りは、小さい頃まれに、お祖父様のカストバール公爵に連れてきて頂いていたので、私にとっては良く見知った場所なのでした。
確かこの薔薇の木のアーチの陰にベンチがあったはずだと覗き込めば、記憶通りそこには小さな白いベンチが置かれていました。アーチ自体が大きな木に隠れるように配置されており、知らなければ通り過ぎて行くような場所ですから、少しはゆっくりと出来るでしょう。
ふう。そう、一つ息をついて座ると、自分でも思っていた以上に気を張っていたようです。すっかりと気が抜けたようにベンチの背に体を預けてしまいました。
「へえ、君、良くここを知っていたね。それとも、偶然かな?」
突然後ろからかけられた言葉に、思わず跳ね上がります。
この声は、確かに、あの日の、彼の声です。
「あ、あのっ……」
「ん?」
「ゆっ、幽霊様なのに、昼間でも出て来られるんですね」
ああ、またです。つい、余計なことを言ってしまいました。興奮したり、思いも寄らない事が起こると、何故だか一言多くなってしまうのです。これも、人からは口が悪いだの毒舌だの、あの不名誉な徒名だのと揶揄される一因でもあるのだとわかってはいるのですが、中々あらためることが出来ません。
自分の発した言葉を恥ずかしく感じ、顔を下げると、ぷっと、吹き出すような音が聞こえました。
「ははは、確かに君の言う通りだ。実は王宮に住む幽霊は、昼間から動き出すんだよ」
秘密にしてくれたまえ。そう仰ると、ベンチに座る私の横にスッと腰を下ろします。
幽霊だと自己紹介された割には、実に堂々と姿を現されたのに少し驚かされました。
あの夜、見ることの叶わなかった御姿をチラリと横目で確かめると、年の頃は20代後半でしょうか?我がウィルクベント王国の王太子、ギルバート殿下と同じくらいの年齢に思えます。
背の高いすらりとした体躯に、少し長めのブロンドの前髪と、そこから垣間見える金色の瞳が涼やかに光る、とても素敵な青年でした。けれども私が覚えている限りでは、貴族名鑑に御名前のある方ではございません。
「申し訳ありません。御邪魔をしてしまったのでしょうか?」
こちらの幽霊様は、この隠れ家のような場所へわざわざ来たのですから、当然用事があったに違いありません。そう思い、慌てて腰を浮かそうとした私の肩に彼が手を置き、座っているようにと促します。
「いや、幽霊らしく徘徊していただけだよ。それよりも、君の方は……確か今日は王妃殿下の御茶会があったようだけど」
「ええ。……でも、少し疲れてしまいまして」
普段なら決して出ないであろう、本音がほろりと零れました。そんな私を気遣うような顔で見ながら、優しく囁かれます。
「ならばゆっくりと休んでいけばいい。ここの花はもう落ちてしまっているが、君の美しい赤があるから華やかでいいね」
昼の御茶会と言うことで、軽めに結い上げた私の髪から、下ろした一房を指に絡め、そうおっしゃいました。
「……っあ、あのっ!」
「あ、ああ……すまない。……あまりに綺麗な髪だったから、つい」
「え、まさか?!……この髪が、ですか?」
「勿論。とても美しい。髪も、……そして、君も」
なんということでしょう。
私の、この真っ赤な髪を、綺麗などと言って下さったのは、家族以外ではこの御方が初めてです。
嬉しいやら恥ずかしいやら、なんと言っていいものかわからず、ただ顔を赤らめることしか出来ません。
そんな私を静かに微笑み見守って下さる、この御自分を幽霊だとおっしゃる御方は一体どこのどなたなのでしょうか?
私は、見ることも触れることも出来るのに、全く正体のわからないこの御方のことを、もっと知りたいと思ってしまったのです。
「王宮で、夜会ですか?」
「ああ、一週間後だ。アンジェもティナも出席するように」
「あらあら、随分と急ですのね」
王宮での仕事を終えたお父様が、私とティナに向かい声をかけられました。
お母様の仰る通り、通常王宮での夜会の開催は、最低でも一月程前に知らされるのが常なのです。
「ラフランカルド王国よりの使者をもてなすための夜会だよ。彼の国に大使として長く、もう15年ほどになるか……お務めされていた先代王弟殿下が来月帰国あそばすそうだ」
「まあ、それこそ急なお話ですわ。御加減でもよろしくないのでしょうか?」
「詳しくは知らされていない。新年の宴が帰国の御祝賀会となるようだが、どうであろうか。父に聞いても、のらりくらりかわされた」
秋花見の宴から一月程の間、私は特にお付き合いの深い御家だけに限っての社交でしたが、ふとした瞬間にも、あの幽霊様の御姿を探してしまいます。王宮に住む幽霊、とはどういった意味かは見当もつきませんが、もし本当にそうなのならば、当然見つけ出すことなど出来ません。けれども、それでもと淡い期待を持って見回してしまうのです。
やはり、王宮以外で会えることはないのかと落ち込んでいたところに、このお話です。お父様から聞かされた時、たちまち心が浮き立ちました。
王宮での夜会。本来なら後一月半後の新年の宴が一番近い夜会でしたが、なんという僥倖でしょう。
あまりに浮かれてしまい、お父様とお母様の会話が耳に入ってこないほどでした。
「……ね、アンジェ」
「え。ああ、すみませんお母様。今なんとおっしゃって?」
「いやねえ、あなたのエスコートの話よ」
「……そうですね。もうジェフリー様に頼むわけもいきませんし」
ポツリと漏らした言葉に、皆が軽く顔をしかめます。
つい、いつもの癖で彼の名を出してしまいましたが、やはりまだ腫れ物扱いなのだと身にしみました。
家族ですらこうなのですから、他人などもっと好奇の目で見られるのでしょう。
「どなたでも構いませんわ。……いえ、出来るだけ近い身内でお願いします。余計な噂はもう懲り懲りですもの」
恋愛事に興味は無いと匂わせて言っておりますが、そうではないことは私自身がよくわかっています。誰になんといわれても構いませんが、あの御方にだけは聞かせたくありません。
余計な噂を聞かせたくないのは、たった一人の御方なのです。
私がそんな小さい我が儘を願っていると、一番下の妹のキャサリンが、お姉様たちばかり狡いわ、私も隠れて行ってしまおうかしらと、むくれ出しました。デビュー前なのだからと、なだめるのに少しばかり時間がかかりましたが、なんとか納得させることが出来たと思います。
友好国の使者をもてなす為の夜会ということで、それはそれは華やかに開催されました。
私のエスコートには、近しい身内でということで、お母様の弟にあたる叔父のバンフリード侯爵にお願いしました。叔父様は今年36歳になるというのに文字通り独身貴族を楽しんでいられる、腰の落ち着かないふわふわとした方です。
「なんだかまたとても綺麗になったね、アンジェリカ」
「叔父様の御世辞は聞き飽きましたわ」
お母様と似た柔らかい笑みを浮かべ、叔父様は優しく褒めてくださいますが、割と誰にも同じような言葉を仰っているのは皆様のよく知っている通りです。
「いやいや。先日会った時よりも、ずっと憂いを帯びて、とても美しいと感じるよ」
「叔父様とお会いしたのは、前回の王宮での夜会でしたから、憂いを帯びるのも当然かと」
婚約者が他の女性連れで出席した上、破棄を申し出された日ですものね、と申し出せば、叔父様は満足気に笑い、私に手を差し出しました。
そうしてダンスフロアへと誘われるまま、一曲お相手をしていただきます。
「気分が落ち込んでいるかと思っていたけれど、いつも通りで安心したよ、アンジェリカ」
不特定多数のお相手がいらっしゃる叔父様は、ダンスがとてもお上手ですので、お喋りが多少多くても私も安心して任せられます。
「ええ、私に変わりは御座いませんから」
そう答えれば、叔父様は、なんとなく面白そうな表情をしながら、私の目をジッと見つめられました。
「いや。寧ろ、何か良いことがあったように見えるよ。違う?今日の君はとても嬉しそうだ」
ズバリ、そう言い当てられました。
確かに今日の私は浮かれています。前回、彼の幽霊様とお会いしてから一月と少しの間、ずっとこの日を待ちわびていたのですから。
けれどもそう言われてしまうと少し心配になります。
「あの、叔父様……私はそんなにわかりやすいでしょうか?」
特に約束を交わした訳では御座いません。ただ、王宮にさえ来ることが出来れば、あの御方に会うことが叶うかもしれないという淡い期待を抱いているだけなのです。
それなのに、こんなにも舞い上がっているなどとは、もしあの御方に知られたらと思うと、とても恥ずかしくて顔を合わせられません。
「うん。わかりやすいというか……そうだな、幸せそうに見えるんだよ。まるで、」
素敵な恋をしているように、ね。
優しげな瞳を、さらに細めながら、叔父様はそう仰いました。
恋。
……恋、なのでしょうか?
まだ、二度ほどしか会っていない彼に?
まさか、本当に?そう自問します。
会える日を、一日、一日と数えて、会いたいと焦がれる日々を過ごしました。
王宮へ向かって、零れる溜め息の数を数えました。
彼の、あの横顔を思い出し、何度も何度も胸の痛みを覚えました。
チリチリチリと痛む胸すら愛おしいと思う気持ち。
温かいのに何故だか不意に涙がこぼれてきそうなこの思い。
ああ、これが恋なのですね、きっと……
私は、あの御方へ、王宮の幽霊様へ恋をしたのです。
叔父様がウィンクを一つ残し次の花へと渡り飛んでいったのを機に、私は自覚した想いを胸に抱いて、ゆっくりとテラスへと向かいました。
会えるのかどうかわかりません。でも、会いたいと、会ってもう一度お話をしたいと、ただそれだけの気持ちで向かったのです。
冬の足音が、もうそこまで来ているこの季節のテラスには、人気がほとんどありません。
薄いショールを羽織っただけでは、このままゆっくりと留まることも出来そうにない寒さですが、それでももう少しだけと、諦めきれずにその場へ立ち止まっていたのです。
すると、誰もいなかったはずのテラスにカタンと足音が響きました。
いらぬ期待をしてしまうと、それが叶わなかった時の落胆というものは、それは酷いものです。
ましてやそれが、恋焦がれる幽霊様ではなく、今一番会いたくもないはずの、ジェフリー様と男爵令嬢ともなれば猶の事でした。
「アンジェリカ、話がある」
私の後をわざわざ追いかけて来たのでしょう。話があると言う割には酷く機嫌が悪いといった態度で声をかけてきました。
「こちらには、お話はありませんわ。申し訳ありませんが、体が随分と冷えてまいりましたので、戻らせていただきます」
未だテラスに未練はありますが、これ以上こちらに居座ったところで、気分が悪くなるだけだと、諦めて大広間へ戻ることにします。そうして踵を返したところで、後ろから鈴の音を転がすような声で静止がかかりました。
「お待ち下さい、アンジェリカ様!ジェフ様は大変お困りなのです。お話を聞いてあげてください。お願いします!」
一生懸命、私に向けて声を張り上げる彼女のことを、一体どう思えばいいのでしょうか。私は一度たりとも正式に紹介を受けたことのない彼女の、酷く馴れ馴れしい言葉に首を捻ります。考えあぐねた結果、答の出ないそれを放棄して、ジェフリー様へと振り向き、二人だけでなら話を聞くことを了承しました。
「ここは冷えますので、手短にお願いします」
「このところ、マイロン侯爵家やアズドラック伯爵家など、多くの貴族からことごとく招待を断られている。あなたの差し金だと聞いたのだが本当か?アンジェリカ」
テラスの一番隅にまで移動し、かけられた話がそれなのですか。
本当に溜め息しか出ないと、呆れ顔の私に更に苛立ちを覚えたらしいジェフリー様が言葉を続けました。
「父上も母上も酷く迷惑を被っている。そんなくだらない仕返しは止めてくれないか」
「仕返し?仕返しとは、一体なんのことでしょうか?」
「私が、あなたとの婚約を取り止めたことに対しての、だよ」
私と同じ年だというのに、まさかここまで現実が見えない方だとは思いませんでした。勿論貴族の結婚とは、家と家の繋がりが最重要ですから、一方的に婚約破棄をされた側としたら貴族の体面に泥を塗られたと思われても仕方がないでしょう。
けれども、ここまであからさまに排除されることはそうありませんし、ましてやそれがたった一人の小娘が泣きついたところでまかり通るものでもないのです。
これはもう、ジェフリー様の資質の問題であり、コーンサーチ侯爵家の監督責任の問題です。
「迷惑と言うのなら、私の方とて被っておりますが、そちらはどうお考えでしょう」
一度聞いて見たかったことが思わず口から零れてしまいました。
婚約者に捨てられた娘だと噂の的となる立場は、迷惑という言葉では済ませられるものではないと思います。例え少しでも気にして下さったりしたのではないかと、微かな慰めを持っておりましたが、それはあっさりと打ち砕かれました。
「相変わらずあなたは毒づくことがお得意のようだね、赤茄子姫」
そう面と向かって言われ、足下から何かが音を立てて崩れていく気がしました。
あの夜、私がジェフリー様を婚約者として尊重していたと告げた時、あなたの方はそうではありませんでしたがと、そう続けて言い捨ててしまえればどんなにか良かったことでしょう。
けれども、その言葉は私の口から出て行くことはありませんでした。
認めたくはなかったのです。彼が私ではなく、儚げな男爵令嬢ばかりを愛おしんでいるという事実を。
ジェフリー様に恋をしていたとは申しません。
それでも、それほどには婚約者としてお慕いしていたのです。
ええ、あの時私は、本当に言いたいことは飲み込みました。
どうしたって彼には、毒の言葉としてしか伝わらないと、飲み込んだのです。
解毒できない毒を飲み、それがじわじわと私を蝕んでいくのを感じながら。
なのに、正直に本音を零してもあなたは毒だと仰るのですね。
私を毒だというのならそれは、それは────
「なんとか言ったらどうなのだ?アンジェリカ」
更に私を攻め立てるジェフリー様の声を聞くのも疎ましく、ただ足下を見つめることで時間が経つのを待つしかありません。そんな私に業を煮やしたのか、彼の手が伸び私を掴みにかかろうかという、嫌な気配を感じたのです。
それを避けようとのけぞると、トンっと何かに背中が当たり、肩に温かいものがふわりと掛かりました。
「引きなさい。君の態度はレディに対するものではないよ」
静かに、けれども確かに怒りを含んだような声が響きます。
私は、仕立ての良いジャケットが肩に掛けられたと思うよりも早く、その声が誰の声かということに気がつきました。
────幽霊様!
ジャケットの温もりに思わず声が出そうになりましたが、我慢し振り返れば金色の瞳が柔らかく光りました。そうして私に向かい、いつもと同じような優しい声で諭されるのです。
「この寒空にいつまでもこんなところに居てはいけない。もう戻りたまえ」
「……でもっ!」
折角、こうして幽霊様に会えたというのに、この御方は何故そんなことを仰るのでしょうか。もしかして、こんな場所で男性と言い争いをしているところをみられ、呆れられたのかと思うと気が気ではありません。
掛けられたジャケットをぎゅっと握りしめ、彼のその瞳を見つめながら、ふるふると首を振ることしか出来ない自分を情けなく感じてしまいました。
「なっ、何を突然出てきて!誰だか知らないが、そちらこそ人の話に勝手に入ってきて失礼ではないか」
幽霊様の静かな怒気に圧されていたジェフリー様が、ようやく我に返り高圧的に言葉を吐き出しますが、まるで子供扱いです。
「君のそれは、話ですらない。ただの癇癪だ。付き合わされる彼女の身にもなりたまえ」
冷たく言い聞かされジェフリー様がたじろぐと、失礼するよ、と幽霊様は彼を突き放し、私の手を取り一緒にその場から離れて下さいました。
大広間を避け横の廊下を抜けた先、小さな控えの間に通されると、寒さで縮こまっていた身体が急に暖かみを覚え、ホッと緩むのがわかります。
勧められたソファーに座り、私が一息ついたところで幽霊様は仰いました。
「迎えを呼ぼう。少し休んだら帰るがいい」
「……えっ?!」
どうして、どうしてと、心が震えます。
先程まで添えられた掌が、まだこんなに熱いのに……
離れたくないと、叫び出す代わりに涙が零れてしまいました。
止めることも出来ずに、ポロポロと流れだす私の涙に、ジェフリー様の言葉には全く動じなかった幽霊様の顔色が曇ります。そして、ぐっと噛みしめられた後、私の前に跪かれました。
「こんなところを見られては君の立場が悪くなってしまうだけだというのに、そんな顔を見せられては……」
──離したくなくなる。
そう仰る口元を私の手の甲へと近づけて、そっと添えて下さいました。
「実は、ちょうどあの男と君が、話し始める所を見つけたんだ」
ソファーに座る私の隣へ腰を下ろし、そっと手を握って下さった幽霊様が、少し照れているようにはにかみながら、言葉を続けられます。
「もし、もしあの男が、君ともう一度仲を修復したいと言い出したら、そのままそこを立ち去ろうと思っていた」
まさか?!
例えジェフリー様がそう言ったとしても、私には全くその気はありません。
私のその考えは口に出さずとも理解して下さったようで、軽く頷かれます。
「それでも、彼はあの時君のことをこう呼んだだろう?」
──赤茄子姫、と
「きっと、本心では君のことを忘れられないと思ったんだ」
驚くことが大きすぎると本当に身動きが出来なくなるものです。その徒名の意味を知らないとは、一体どういうことでしょう。
そういえば今日のこの夜会は、ラフランカルド王国の御使者の方をもてなすためのものでした。もしかしたらこの幽霊様も彼の王国から来ていらっしゃる方なのかもしれません。
それでも、まさかあの毒の実を知らない筈はないと思いつつも、失礼を承知で尋ねてしまいました。
「あの、申し訳ありませんが……赤茄子を、ご存知ありませんの?」
「……?勿論、知っているよ。赤茄子だね。あの可愛らしくて美しい赤色をした、」
とても美味しい実のことだよ。
「ええっ?!毒の実ですよ!」
毒の実であるはずの赤茄子を美味しいとはどういうことでしょうか?
しかし、私が驚くと同じ様に、幽霊様も驚かれていました。
「まさか……いや、まだこの国ではそんなふうに思われているのか?赤茄子を、毒の実などと」
「ええ、そうです。そうでは……ないのですか?」
私がそう答えると、この御方は左手で両目を押さえるように隠し、大きくため息をつかれました。
「全く、なんてことだ」
「はい?」
「赤茄子を毒の実と言うだけならまだしも、君のような美しく、可愛らしいレディのことを、そんな……」
悔し気に語る幽霊様の御顔が歪まれるのが嫌で、慌てて言葉をかけました。
「いえ、そんなに気になさらないで下さいませ。例え誰に毒と言われようとも、私は貴方様にさえ、そう思われなければ……!」
また、思わず本音が零れ出してしまいました。何故だかこの御方といると、隠したいことすら露わにされてしまいます。
あまりの恥ずかしさに頬に熱が集まってしまい、両手でそれを覆う私を、慈しむように眺められる幽霊様。
「君はとても素直な人だよ」
そう、私の一番欲しかった言葉を下さいます。
もしも私の恋心を伝えたとしたら、この御方は一体何と答えて下さるのでしょうか。
厚かましい願望を胸に抱きながらも、やはり拒否されたらと怖ろしく、それ以上は何も伝えることなくただ時が過ぎて行くだけでした。
あの後少しして、幽霊様の従者らしき方が来られ、ティナが私を探していると伝えて下さいました。
名残惜しく離れがたい気持ちでいっぱいでしたが、これ以上無理を押し通しても、名も知らぬこの御方にも迷惑がかかってしまうかもしれません。
そう思い、後ろ髪を引かれる思いで王宮を後にしたのです。
次の王宮での夜会は、新年二日目に開催される新年の宴になりますので、その間はなんとも心の落ち着かない気分で日々を過ごしています。
時おり、あの幽霊様を思い出しては、胸がギュウッと締めつけられるような痛みを感じたり、突然頭の中がぼおっとし涙ぐんだりと、自分でもおかしくなっているのではないかと思うほどでした。
未だ名前も知らないあの御方が、もしも突然姿を見せなくなってしまったらどうしようなどと思い感極まり、兎に角端から見ても酷くみっともない様を見せてしまっていたようです。
そんな私にお母様は、色々と気分転換を勧めて下さり、新年の宴で着る予定のドレスと、それを彩る宝飾品を選んで下さいました。
お父様は、私の様子が随分と気になるようで、お仕事もお忙しいこの年末時期に、何時になく何度も顔を見せ、ため息をついていかれます。
新年にいよいよあと一週間といった所で、カストバール公爵、つまりはお祖父様が家にいらっしゃいました。
珍しい果物や御菓子、それから美味しいと評判のワインをお土産に持ち込み、いつも通りの面白いお話をして下さいます。途中、ティナへピアノの演奏をねだられたり、キャスへは流行りの歌を歌うようにとけしかけたりと、久しぶりに大変面白おかしい一日を過ごさせていただいたのです。
そうしてお祖父様が帰りしな、私へ向かいその大きな手を広げて、小さな頃以来でしょうか、ギュッと抱きしめながらこう仰りました。
「アンジェ、可愛いアンジェリカ。お前の幸せが、わしの幸せだよ」
昔から変わらぬその温もりに、不意に込み上げるものがありました。
幸せに?こんな私でも幸せになれますでしょうか?
ふと、周りを見まわせば、お父様やお母様、そしてティナにキャスまでもが私へ向かい微笑みかけてくれています。
私が初めての恋に舞い上がり、戸惑っている間に、皆が私を見守ってくれていたことに気がつきました。
後継ぎの伯爵令嬢として、この思いが正しいかはわかりません。皆の優しさに甘えるだけの私です。けれども、
幸せになりたい。あの御方と幸せになりたいの。
次に会うことが叶うのなら、怖れることなく伝えたい。そう、強く心に決めたのです。
「緊張してる?」
今宵もエスコートをお願いしました叔父様のバンフリード侯爵に笑ってそう尋ねられ、素直に頷きました。何も初めての夜会という訳でもないのに、心臓が跳ね上がりそうなくらいドキドキと音を立ててしまいます。
「……あの叔父様、何故今日に限ってこんなに遅い出になるのでしょうか?」
王宮で開かれる夜会では、大広間に出られる順番は遅くなるほど高位の者で、国王陛下と王妃殿下が最後にお出になられるのが常なのです。
けれどもたった今、ナタリカ公爵夫妻が大広間へと出ていかれまして、この場に留まっているのが、ランドルテ伯爵夫妻であるお父様とお母様、カストバール公爵であるお祖父様、そして私たちだけとなってしまいました。
お祖父様はまだしも、お父様やお母様ですらこの順番は無理があるというのに、何故私が?そう思い混乱していますと、お父様が拗ねたような声で囁かれます。
「アンジェにはわかるはずだよ」
「わかるはずがありませんでしょう」
すかさず答えましたが、その言葉の意図をこちらから尋ねる間もなくお父様たちは大広間へと呼び出されてしまいました。それを見ながら笑っていたお祖父様も同様に続いていかれます。
なんということでしょうか、とうとう一番最後になってしまったのです。
今夜は、あの幽霊様へ思いを伝えるのだと勇気をふりしぼり意気込んできたのですが、全くそれどころではありません。
そうこうしているうちに、大広間から大きな歓声が響きました。国王陛下御夫妻が登場されたのでしょう、いつものファンファーレが耳に届き、私は大いに焦りました。
もしかしたら、あの婚約破棄の件で私は、貴族としての籍を失ってしまったのでしょうか?いいえ、そうだとしても、叔父様まで呼ばれないということは考えられません。だとしたら、一体……
「何故なの?」
「何故って?それは主賓の意向としか思えないだろうね、この順番は」
「ありえませんわ。今日の主賓は先代王弟殿下ではありませんか」
御姿を拝見したこともないのですよ。驚きつつも声を潜めながら叔父様に伝えると、叔父様が事も無げに仰います。
「あり得なくもないさ。なあ、さっさと教えてあげたらどうだい?」
叔父様がそう、誰かに声をかけられたところで、今この場に私たち以外の方がいらっしゃることに初めて気がつきました。
「遅くなりました。バンフリード侯爵」
ああ、その声は!
私が一番聞きたかった、あの幽霊様の声です。
けれども何故ここに?そう思う間もなく、彼は私の横に立たち、スッと腰に手を置かれました。
驚き、慌てて顔を向ければそこには、長めの前髪を綺麗に撫でつけ、濃紺地に金糸の刺繍の入った美しいジャケットを羽織られた幽霊様がいらっしゃいました。そのお姿はいつも以上に精悍で思わず見惚れてしまいます。
「すまない。随分と待たせてしまったかな?」
「えっ?!」
私に向けそう一言仰ると、グイッと腰を持ち上げるようにして大広間へと繋がる大扉へと誘われたのです。
開かれた大扉の向こう側には、光り輝く照明や美しい調度品、そして煌びやかな正装やドレスに身を包まれた方々が拍手で出迎えて下さいます。
思いもかけない出来事に、ただ、ただ、圧倒されるしかない私の表情は、随分と間の抜けた顔のように見えるでしょう。
そんな私とは対照的に、とても自然な笑みをたたえ、堂々と皆様方へ応えるこの御方は、まさか……
まさか、そんな?!
「大使としての長きの務め、御苦労であった。マクシミリアン」
「国王陛下におかれましては、大変御健勝のこととお慶び申し上げます。過分なる労いの御言葉には感謝しきりで御座います」
国王陛下の御前に並び、御言葉をいただいた幽霊様、いいえ、マクシミリアン先代王弟殿下が厳かな態度で御返答されました。
私と言えばあまりの出来事に、顔が強張り、王妃殿下より御言葉を賜りましたが、何と答えたものか全く覚えておりません。
そんなカチカチの私に向かい、よろしいですか?とマクシミリアン殿下が尋ねられたのに、深く考えず条件反射で、はいと答えました。
晴れやかな笑顔を返して下さったマクシミリアン殿下が、ダンスフロアの真ん中へ私を誘い手を取ったところで澄んだ弦楽のメロディが流れ始めます。そうすると周りで手を取り合っていた皆様方がスッと離れ、私たち二人だけがフロアで踊り出すこととなりました。
「あっ……」
「私だけを見て、アンジェリカ」
優雅にステップをふみながら、先程までの涼しい顔を取り外し、熱の籠もられた目で私を見つめられるマクシミリアン殿下。初めて私の名前を呼んで下さったその声に、ドキっと胸が跳ね上がります。
「マクシミリアン殿下……」
「マックスだ。そう呼んで欲しい」
マックス……声にならない私の呟きを、しっかりと聞き取って下さったのか、腰に支えられた殿下の手に力が入りました。
「さあ、一曲踊ったら抜け出そう。君と私が初めてあったあのテラスへ」
そう仰ると、私を軽々と回しウィンクを一つ落とされたのです。
「ダンスは久しく踊っていなかったから、随分と迷惑をかけたかな?」
「いいえ、とても楽しかったですわ」
本当に、こんなに素敵なダンスは初めてでした。
私の体では無いように、ふわりふわりと舞いあがり、まるでダンスフロアを飛び回る蝶になったような気分です。
二人で笑いあいながらこのテラスまで移る途中、ポカンと大口を開けてこちらを伺うジェフリー様を見かけました。隣にあの男爵令嬢の姿は見あたりません。もう彼に対して特に思うこともありませんが、幸せになって下さればと存じます。
マクシミリアン殿下が用意して下さった毛皮の上着を羽織りテラスへと出ますと、新年の夜風は冷たく、ダンスで火照った顔もあっという間に冷やす程でした。けれども寄り添った体と心の中はとても温かく、幸せな気持ちで一杯だったのです。
「私の母はとても身分の低い立場であった」
そうして、二人ただ寄り添っている内に、少しずつマクシミリアン殿下がお話を聞かせて下さいます。
「それでも先代陛下は兄として、歳の離れた私を非常に可愛がって下さったのだが……」
私の生まれる前のことでしたから失念しておりましたが、先代の国王陛下はとてもお若くして崩御されましたので、現国王陛下は先代陛下の叔父上様にあたられるのでした。
妃殿下の身分が低いとは言え、先先代陛下の第二王子であり、先代陛下の王弟というマクシミリアン殿下です。少年と呼べる年齢で微妙なお立場に立たれたその心痛といえば、簡単には語り尽くせられないでしょう。無理はなされないようにと、視線で伝えれば、柔らかな笑顔を向けて下さいます。
「逃げるようにラフランカルドへ大使として渡ったが、それなりに楽しく暮らしてはいたんだよ。とても温かく、花で覆われた美しい国だから」
そのままここで一生を終えてもいいと思えるほどには楽しかった。そう仰る殿下の袖を、行かないで、戻らないでと、ぎゅっと握りました。
「戻らない、もう。ずっと、君の側に……」
私の思いを受け取って下さったマクシミリアン殿下。
ああ、私もです。ずっとお側にいることをどうぞ許して下さいませ。
「愛しております」
思わず零れ落ちたその言葉に、マクシミリアン殿下は蕩けるような笑顔を向けて仰います。
「やはり君はとても素直で可愛らしい人だ」
そうして、そっと抱きしめて下さいました。
「ゼラニウム……ですか?」
「そう。あの温暖な国では、ほぼ一年中咲き誇っている花なのだが、去年辺りから急に香が体質に合わなくなってしまったんだ」
花と香水が特産のラフランカルドで、香が合わないというのは致命的だそうで、中でもマクシミリアン殿下は呼吸にまで支障をきたしたそうです。
「その為こっそりとこちらに戻り、王宮で籠もりながらこれからを考えていたのだけれど、あの頃は本当に幽霊のような心地だったよ」
花の一鉢も無い、ランドルテ伯爵家の温室の中で、あの悩ましい日々を思い起こすマクシミリアン殿下ですが、ふっと一息ついた後、全てを吹っ切ったようにこう仰いました。
「けれど、お陰で私の未来を見つけることが出来た」
私に微笑みを向け、腰を引き寄せてぎゅっと横から抱きしめられます。
「マクシミリアン殿下!ダメです、こんな所で……」
「マックスと呼んで、アンジェ。それにもう私たちは婚約者なのだから」
あの後、正式に私とマクシミリアン殿下との婚約が調いました。
お祖父様がいよいよ爵位を退き、お父様がカストバール公爵を継承されるのを期に、私達が結婚しランドルテ伯爵家を継ぐのが良いだろうとの、国王陛下の肝いりでの婚約です。
「それでも、です。鉢を落としてしまいますわ」
私の手の中には、真っ赤な実のついた赤茄子の鉢植え。
「ふむ。それは拙いな。可愛い赤茄子を落としたら大変だ」
そう仰ると、私の手からサッと鉢植えを取り上げ、日当たりのいい棚の上に置かれました。
今、ランドルテ伯爵家の温室には、花は全て片付けられ沢山の赤茄子の鉢が並んでいます。
マクシミリアン殿下は、そのうちラフランカルドより料理人を呼び寄せて、我がウィルクベント王国で赤茄子料理を流行らせようと目論んでいるらしいのですが、そう簡単にいくでしょうか?
そうして少し懐疑的に首を捻る私を、ひょいっと抱き上げました。
きゃあっ!
「何をなさるのですか?!や、ダメですよ。マックス様!」
私が呼ぶ名に顔を綻ばせ、さらにいっそう抱き上げる手に力が入ります。そうしてその端正な顔を近づけ、耳元で密やかに囁かれました。
「美味しそうに実った私の赤茄子姫を見つけた」
ねえ、味見をさせて。
その言葉に抗える訳もなく、小さく頷いた後、私はそっと目を閉じたのです。