寛解
雨上がりの帰り道、ごつごつした大きな手に掴まれた。ふと我に返れば、わたしの足元には水溜まりがあり、危うく踏み込むところだった。降ったり止んだりの空が地面に造った鏡は、コールタールみたいな鉛色の空を映し出している。
「ぼけっとしてると危ないぞ」
「ああ、あんたか。ごめん、ぼーっとしていたかも」
心配そうな顔の同級生。こいつ絶対わたしのことが好きだ。だからそんな気持ちを知っていて、友だちのままでいるわたしは、中々にして隅には置けない罪な女である。
じっと彼を視る。ずいぶん髪も伸びて、顔もまあ……わりかし可愛いくないこともないかもしれない。はっきり言ってアリだ。何よりも、多分わたしのことだけを好きでいてくれている。でもね、ごめん。わたし好きな人がいるの。
「手、離してもらっていいかな」
人は愛するよりも、愛されたほうがずっと幸せなのかもしれない。だけれど握った手を離そうとしない彼の体温に、まるで牙を剥いた獣のような圧を感じてしまう。ゾゾゾと背筋に悪寒が走り、彼のことが怖くなる。目が合うとなんだか気まずくなって、彼の手を強引に振りほどく。ごめんね。今日は忙しいから帰るね。グッバイまた明日。まてよ。いやよ。まてよ。いやよ。まてって。
文字通り走って逃げ出すわたしと、困った顔で追い掛けて来る彼。やめて怖い。助けて先生。
直ぐに諦めてくれたのだろう。彼を撒くのに時間は掛からなかったが、残念ながら好きな人のことを忘れるのには時間を要した。息切れして、立ち寄った公園のベンチで休む。そのまましばらくぼーっとする。どれくらい経ったか、悲しくてもつらくても時は流れるもので、お腹だって減る。ぐぅぅぅ。そう。女子だってお腹くらい鳴るのだ。ここで男子の知らない秘密。女の子のカバンの中身。四次元ポケットよろしく、じゃじゃーんと取り出すじゃがりこ。それを一本摘んで、咥えてみると、まるでタバコを吸っているみたいで先生を思い出す。
かさぶたみたいに空を塞いでいた雲は、少しずつ少しずつ剥がれ、顔を出した桃色の夕日は傷口みたい。外気に触れるとひりひり沁みて、じゅくじゅくした涙が溢れた。滲んだ景色がわたしを過去に誘う。
逢うのは毎回診察室。いつも彼の白衣からは、微かなタバコの匂いがした。
「お久しぶり」
ずっと聴きたかった声。わたしの鼓膜と心臓をそよ風みたく仄かに、でも確かに揺らす。本来なら輝かしかったはずの青春時代の少なくない部分を過ごした白い檻の中。外の世界とは隔離された特別な場所にある診察室。
長い睫毛を眠たそうに羽ばたかせる白衣の先生は、病を患ったわたしの主治医であった。若くして躯を病魔に蝕まれたわたしは、この檻の中に閉じ込められていた。しかし人生とはドラマティックにできているもので、彼がヒーローみたく、この檻からわたしを救い出してくれたのだ。好きになるのは必然なのである。
闘病生活の末、無事に退院して彼を残したまま、わたしは現実の世界に帰った。週に二度の診察という名の逢瀬。次第に週に一度になり、ついには二月に一度となってしまった。ここは大好きな先生の診察室。消毒液のような独特の匂いが充満するこの部屋をわたしは不覚にも懐かしんだ。
気持ちを伝えなくては。ひーひーふー。ひーひーふー。なんか違う気がするけれども深呼吸。タイミングを計り鼻息も荒く大好きな彼の胸に飛び込もうとするも、彼はさながら華麗なマタドール。ひらり白衣をひるがえし、猛牛みたく突進するわたしをかわす。
「なんだ、なんだ。いきなり。びっくりしたなぁ」
空を切った両腕。転びそうになったわたしを抱きとめてくれる先生。彼の胴に両手を回す。そうしたら先生もぎゅーーーーって、抱きしめてくれた。くっつくとタバコの匂いがして、銘柄変わってないんだなって凄く嬉しくなった。
「ねぇ、知ってるでしょ? せんせいのこと大好きだよ」
「こらー。犯罪になるから」
先生は暫くすると笑いながらわたしを押し退ける。ぎゅーってしたくせにオトナは狡いな。
「ここまでにしようか。診察はこれでお仕舞い。寛解だ。おめでとう」
先生はとても嬉しそうに残酷を口にした。寛解とは完治とはいかないが、症状が長期的に治まり治療が成功した状態をそう呼ぶらしい。先生から教えてもらった言葉だ。つまり今日でここに来るのが最後という意味なのである。
「あのさ、せんせいさ、本当に好きなんだよ。恋愛として本当に」
先生。困らせてごめんね。これで最後だから。
くぅーん。知らぬ間に足元にいた子犬がわたしを現実に引き戻す。捨てられたのだろうか。
ごめん。家じゃ飼えないんだ。
せめてお腹を空かせているならと、じゃがりこを子犬に差し出すも、お気に召さなかったのか、プイッとそっぽを向いてどこかに走り去ってしまう。可愛くない。こんなに美味しいのに。
ごめん。家じゃ飼えないんだ。わたしと先生の関係は、まさしくそんな感じなのであろう。お腹を空かせたわたしは、まんまと美味しそうな匂いに飛びついたのだ。わたしは持っていたじゃがりこを咥えてひとかじり、しばらく先生がタバコを吸う時みたいに、チューチュー吸ってみた。当たり前の話なのだけれどもタバコの匂いはしなかった。
「おーい。探したぞ」
声。そこに声。いやだ。やめろ。こんな顔、誰にも見られたくないんだ。そんなときに限って、のこのこ現れるタイミングの悪いアイツ。どーせ彼の言葉は半分ホントで半分ウソ。きっと後から心配になって、アタフタとわたしを探していたのだろう。マジ心配性でウケる。泣きべそでブサイクな顔が見られないように目線を落とすと、彼の両腕が小さな命を抱えていることに気づく。
わん!
やばい、バッチリ目が合う。お前はさっきの憎たらしい子犬。おやおや、ずいぶん懐いちゃって、わたしの時とは全然態度が違うじゃないか。子犬はまたプイッとそっぽを向く。可愛くない奴。
「ああ。こいつ? 家で飼おうと思ってさ。親と交渉しなきゃな」
あんたほんと絵に描いたみたいないいヤツ。ああ、もう。ああ、もう。ああ、もういいや。全部言ってしまおう。
あのね。
わたしね。
好きな人にフラレたんだ。
そうしたら目を丸くした彼が「ああ、そっか。だからテンション低いんだ」フヒヒと陽気にバシッと背中を叩かれた。軽くやったつもりであろうが元野球部の馬鹿力。やめろゴリラ。痛いわ。ほんとデリカシーないけど、彼の気持ちを知っていてそんな話をしたのだからお互い様だね。
「心にぽっかり空いた穴は埋まることはないかもしれない。でも俺で良かったら一ミリでも埋めてやるぜベイベー……とか言えないの? あんた」
「埋めたらチューとかしてもいいのかよ?」
「はぁ? だーめ。何言ってんの。このばか。スケベ。卒業するまでは手を繋ぐぐらいで精一杯」
「じゃあ、帰ろうぜ」
彼は左腕で子犬を抱いたまま、ごつごつした右手をわたしに差し出す。大事に育てた恋は全部泡のように消え、代わりに生涯消えることのないケロイドが残り続けるのだろう。先生はわたしを泣かすのが得意。でも目の前にいる彼は、わたしを笑かすのが得意だからもう泣くことはないのかもしれない。
手を握り返すわたし。極上の夕焼けが切れた雲の隙間から帰り道を照らす。完治とまでは言えなくとも、きっとこれが寛解ってやつである。
合同誌ようの原稿です。