何故なろう小説は読まれそして書かれるのか/類型
前回、筆者は「なろう小説」がどのようなものであるかを明らかにした。しかし、それ自体は何の意味も持たない。それは単に、こういうものがありますよ、という提示をしたに過ぎない。
今回の目的は、「なろう小説」の意味を探ること。その存在意義を問うことである。「なろう小説」が読まれる事、そして書かれる事には、如何なる価値が存するのか。果たして「なろう小説」は、度々見掛ける主張のように、悪い意味での現実逃避でしかないのか、或いは、現実に侵犯し現実の問題を克服するための力を持った、即ち文学の可能性を持ったものであるのか。それを問いたいと思う。
「なろう小説」とはある類似した性向を持った反道徳的小説である、と言ってほぼ差し支えのない事情は、前回を読んだ読者になら分かると思う。だが、ここには不可思議が存在している。何故、反道徳的な小説が読まれ、書かれるのか。それが反道徳的であるなら、通常、読者からは批難を浴びせられ、排斥され、作者からはその執筆自体、拒否されそうなものである。実際にそういう向きもあろうが、「小説家になろう」のランキングや、書籍化といった事績を見る限り、現状「なろう小説」は小さくない人気を持っていると言わざるを得ない。ここにはどんな意味があるのか。
「なろう小説」との関りにおいては、大きく4つの類型が考えられる。一つは、「なろう小説」を積極的に認める肯定型、反対に、「なろう小説」を批判し認めない否定型、そして、「なろう小説」に対し一定の距離を持ち、積極的な肯定や否定をしないリベラルを気取ったような観察型、最後に、「なろう小説」の存在を知るにしろ知らないにしろそもそも興味がない無関係型。今回の考察において、四番目の無関係型についてはその対象とする必要がないために除外するとして、我々は、肯定型、否定型、観察型についてそれぞれどういう意味で「なろう小説」と関わっているのかを考えなければならない。
始めに、最も単純であろうと思われる否定型について。否定型が「なろう小説」を拒絶するのは、一先ずそれが反道徳的であるから、と言う事が出来る。尤も、「なろう小説」は単に反道徳的なのではなく、ある性向を持っていることもその呼称の対象条件であるから、今一つ正確を期すなら、「なろう小説」の持つ性向について、もう少し詳しく明らかにせねばならない。
そこで注目したいのは、「なろう小説」の成因たる世界観のうち、個の力が異様に強いという特徴である。逆を言えば、「なろう小説」において、群れとしての強さ、対等な人間関係、好敵手との友情、と言ったような事柄は強調されないか、強調され辛いということである。個の力が異様に強い状況で成り立ち得る、友好的な人間関係とは、なんらかの形での上下関係以外では有り得ない。
つまり否定型が否定する「なろう小説」の性向とは、利己主義的な行為による害、弱きを助け強きを挫くという勧善懲悪の観念の否定、エゴイズムの横溢、集団性(横の繋がり)の軽視、といった事柄であると言える。――補遺。弱きを助け強きを挫くという構図は「なろう小説」にもあるとする見方もあるだろう。しかし筆者はそう思わない。何故なら、「なろう小説」において強きを挫くのはより強力な個である。そして、強きを挫いたその個はその後どうするであろうか。これが古式ゆかしい勧善懲悪ものであれば、自分が元来居るべき場所に戻るだろう。所謂「行きて帰りし物語」というもので、例を挙げれば『水戸黄門』であれば旅が続く事によってより強力な個である主人公らはその場を去り、『ハリーポッター』シリーズであれば、元の学生生活や人間界での日常に戻ったりする。要は、強きを挫いた強力な個は、その場を去る事によって、強き者が座していた空位を弱き者に譲るのである。強さや優位を譲ると言っても良い。「なろう小説」の場合は、果たして、強きを挫いた強力な個は、その場に居座ってしまう。強さや優位を譲る事など有り得ない。自らの影響力を捨て去ろうとはしない。(成り上がりという流行のあった事、逆に追放ものと呼ばれるような類では、主人公の空位を誰も埋めることが出来ない=影響力を失くさないといった事が、その代表と言える)詰まるところ、強き者がより強き者にすげ変わっただけの事であり、これでは、弱きを助け強きを挫くという句の本意は果たされていない。むしろ、より強力な個としての主人公、この主人公より弱い者は主人公よりも弱いままであり続ける事の方が多いのではないかと思われる。(これこれの部分では主人公より上だ、と言った言い訳が付く事もあるが、強さとは詰まる所、「どんな敵にも倒されるが強い」という事が有り得ないように、倒されない事にこそある。なので能力の優越を挙げても無意味である。例えば、敵がどんなに強い設定を付与されていたとしても、主人公に「死んだらその事実は無かったことになる」、という能力が備わっており、敵側にそれを打ち破る事が出来ない場合、この主人公は終始、その相手よりも強いか互角という事になる)
さて纏めると、否定型が「なろう小説」を否定するのは、横暴や理不尽への拒否感という、人間として至極もっともな感情に由来すると言える。そして、その感情を生み出す根底には、他人を尊重する事や、和を以て貴しとなすといった価値観や全体性への指向がある。
肯定型。もしかすると、この肯定型こそが、「なろう小説」の持つ意義を解明する最も重要な鍵かも知れない。「なろう小説」は、他の誰でもない、この肯定型のためにこそ存在していると考えられるからだ。
さて、反道徳的な事、自らの格率に反する事を、何の条件もなしに受け入れられる人間はいまい。であるなら、話しは単純、肯定型にとって、「なろう小説」とは反道徳的ではないのである。然るに、肯定型にとって対等な人間関係とか、横の繋がりの集団性とか、対等以下の相手を尊重する態度とか、群れる事などは、まったくもって取るに足らない価値観なのである。そんな肯定型にしてみれば、むしろ「なろう小説」以外の、前述の価値観を尊んだ作品などは、退屈極まりないくらいであろう。
そんな肯定型ではあるが、留意しておくべきが、肯定型は前述の価値観に価値を見出していないと言う事は出来ても、それらが反道徳的であると考えている、とまでは言えない事である。仮に肯定型が前述の価値観を反道徳的と考えるなら、肯定型はそういった価値観を描いた作品を侮蔑する筈である。否定型が「なろう小説」を否定し侮蔑するように。しかし現実には「なろう小説」の周囲における否定や侮蔑の類は反発によるものを除いては大分一方的であり、この事は、肯定型は前述の価値観を反道徳的とは考えてはいないとする事の証左である。ただ、それらの価値観に説得力を感じないだけなのだ。
逆を言えば、肯定型は、強い個、力による揺るぎない上下関係、利己主義、不公平な世界と言った価値観を信じ奉っていると言える。
最後に観察型。観察型は理由はどうあれ「なろう小説」を嗜むが、積極的な肯定も否定もしないという立場である。肯定も否定もしない理由も様々であろうが、一つ言えるのは、「なろう小説」が反道徳的と考えるならば、「なろう小説」を読んで静観するだけというのは有り得ない。直接の批判はないにせよ、何らかの形で拒絶を示す筈である。つまり、観察型は潜在的肯定型とも言える。結局のところは肯定型の一種であり、肯定も否定もしないのは、そもそも議論が苦手であるとか、批判は悪であるという考えを持っているとか、表立っての主張がないだけで内心では肯定しきりであるとか、現実的には肯定型の価値観を持っているが理想的には否定型の価値観を持っているとか、色々と考えられるため、やめにしておく。
さて、こうして読者と「なろう小説」の関りが明らかにされた以上、今度は読者と現実の関りを見ていかなくてはなるまい。そこで初めて、「なろう小説」が現実にどう作用するか、或いはしないのかが明らかとなる。