前提
さてこのエッセイは習作の一であり、畢竟のところ創作であるからして、その内容は三流のゴシップ記事に相違なく、以って内容についての一切の論議はこれを受け付けざることを念頭に置かれたし。
なろう小説、或いはなろう系と呼ばれる小説群がある。この言葉の意味するところは実際、明瞭ではない。それと言うのも、そもそも何者かが厳密な定義によって使用し始めた言葉ではなく、ある種の経験則、定型、偏向、ステレオタイプ、そういった事々の印象を指すときに使用される、自然発生的な言葉であるからだ。故に、ここでこのまま「なろう小説」乃至「なろう系」という語を使用して話を展開させたとしても、その意味するところを正確に共有するのは至難であろう。以って論の理解は平行線を辿り、意図は伝わらず、会話は噛み合わない。では、ここに「なろう小説」や「なろう系」という語の厳密な定義を設ければ事は解決するのだろうか。否、そこにそのような定義をすれば、それはもはや、本来の意味での「なろう小説」乃至「なろう系」ではなくなる。我々に先ず必要なのは、「なろう小説」乃至「なろう系」という語が指す傾向の印象、この印象はどういうものであるか、また、どういった要素あるいは構造が、この印象をもたらすか、それらを明らかにする事である。
先ず、「なろう小説」や「なろう系」(以下「なろう小説」に統合)という語には、侮蔑的な意味合いが含まれている事に着目したい。確かに、あるコミュニティにおいて、便宜的にこの語が使用される際には、侮蔑の意味は込められていまい。だが一度そのコミュニティを離れて、つまりは「なろう小説」という語を日常的に使用しない場にこの語が立たされれば、或いは揶揄を前提としたコミュニティにおいては、あたかも小心者の裏切りのように、「なろう小説」という語は侮蔑語としての機能を持つようになる。それは何故か。
侮蔑する人間の心理的根拠は十人十色ではあろうが、物事に対する侮蔑の根拠というのは限られる。即ち格率に反すること。「なろう小説」が侮蔑の対象であるなら、それは取りも直さず、侮蔑する人間の格率に反しているからであり、同時に「なろう小説」が侮蔑の対象であり得ると、多くの者に認知されているのならば、「なろう小説」は道徳に反しているのである。
さて、それで以って、「なろう小説」という語が指す傾向の印象が明らかとなる。即ち、「反道徳」である。では次に、何が「反道徳」の印象をもたらすのか、これを明らかにしなければなるまい。
小説の構成要素は、ここでは単純に考えて、「文章」「物語」「キャラクター」「世界観」であるとする。「なろう小説」も小説である以上はこの四つから成っており、であるならば、「なろう小説」の反道徳的な印象の出所もこの四つの要素の何れか又は複合にある筈である。
先ずは文章から考える。ここで、文章とはその内容を問題としない。というのも、その内容にあたるのが、「物語」であり「キャラクター」であり「世界観」であるからだ。ここで問題とするのは、文章の形式や文法である。形式とは、例えば三点リーダの規則を知っているか否かの問題(「・・・」ではなく「……」が正しいとされる)。文法とは意味の通じるように文章を扱えるかどうか。後は、誤字脱字の多さ少なさといった所が、内容を考えない上での、文章に関する問題であろう。しかし、余程厳格な読者でもない限り、これらの誤りを「反道徳」であるなどとは考えないだろう。そもそも、「なろう小説」の出生地たるこのサイト「小説家になろう」は、素人に向けて開かれた場所である。確かに、文章の形式、文法を間違えている事は、それを見た無知な読者に誤解を与えかねないという意味においては反道徳と言えなくもないにしろ、それは「小説家になろう」外においても、何なら玄人にも発生しないとは言い切れぬ事象であるからして、「なろう小説」という揶揄や分類が生じる理由にはならない。何か特殊な意図を持って乱筆乱文するのでもない限り、文章は反道徳性を持ち得ない。(それは文章そのものは道徳性を持ち得ないことの裏返しでもあるが)
次に物語である。ここでは先ず、道徳的な物語とは何か、反道徳的な物語とは何か、を考えねばならない。「なろう小説」が反道徳的な物語に当て嵌まるのであれば、「なろう小説」の持つ反道徳性の根源或いは一因は物語にあるという事になる。難しいのは、万人に共通する道徳的な規準があるか、という事である。筆者はある、と言いたい。それは「公平」である。「公平」とは、罪には罰が、恩には奉公が、悪には制裁が、善には報酬が、努力には成果が、それぞれ適切に加わることである。尤も、何が罪であるかとか、善であるかとか、それらに対する制裁やら奉公やらは、どの程度が適切なのかといった、内容については、何も言えない。実質、規準はないと言っているようなものではある。だが、その「公平」という思考の枠組みが、道徳性から外れる事はない、と考える。つまり、「公平」だが反道徳的という事は有り得ず、「不公平」だが道徳的という事もない、と考えるのである。
さてさて、「なろう小説」は、果たして「公平」を、「因果応報」を描いた物語であろうか。これについては、意見が分かれそうな所である。というのも、「なろう小説」が形式的には公平性を持っている事、少なくとも持とうとしている事は、多くの場合に看取し得る事実である。例えば「神様の手違いで主人公が死んでしまい、その謝罪としてチートを付与し異世界で云々」という展開は、過失に対する補償、公平性の原理なくしては有り得ない思考である。他にも、「主人公を不当に扱った人間がその事によって何らかの陰惨な目に遭う」というのも、紛れもない因果応報の形式である。しかしながら、問題は、罪に対する罰が、善に対する報酬が、過失に対する補償が、何れも大き過ぎるように感じられる点だ。つまりは、公平を装った不公平という、最も悪質な行為が描かれているのであり、しかも、その悪事の利益を得るのが主人公である。「なろう小説」において、最大の悪人とは主人公であり、更には主人公であるが故に、何の制裁も受けないという考え得る限り最悪の展開がそこにはある。だが、まだそう決めつけるには早急である。というのも、主人公への処遇が適切であるか否かという具体的な規準は、個人の中にしかないからだ。或る人にとっては悪質と感じられても、或る人にとっては悪質とまでは感じられないかも知れない。だから、その小説が公平性を維持しているかどうか見極めるには、自分の感性に依ることが先ず第一である。こう考えてみればいいだろう。ある小説において「神様の手違いで主人公が死んでしまい、その謝罪としてチートを付与し異世界で転生」という展開があった場合なら、こうだ。自分の知る誰かが、神様の手違いで死んだので、何かの超能力と前世の自我を持って異世界に転生したと知った時、自分はその神様の行為を称賛できるか否か。「貴方は正しい、正に神様!」と言えるなら、その小説は、少なくともその時点では公平性、道徳性を持っている。そうでないなら、反道徳的な小説、ということになるだろう。
さてそういう訳だから、「なろう小説」の要素において「物語」は反道徳性を持ち易い(必ず持っている訳ではない)、という事は分かった。次に移る。
「キャラクター」である。キャラクターの道徳性は、その設定と行為に存するだろう。例えば道徳的な設定を考えるなら、「人助けに生き甲斐を感じる」という性格設定や、「騎士としての役目に忠実で、その点を評価されている」等の職業や立場の設定など考えられる。反対に反道徳的な設定なら、「不正な利益を得ている」とか「殺人者」であるとか「奴隷」であるとか、現代社会で否定されている行為や立場に関する設定がある。注意するべきは、これらの設定そのものに道徳性があったりなかったりするのではなく、これら設定の扱いに道徳性があったりなかったりする点である。つまり、「人助けに生き甲斐を感じる」設定があっても、その性格が原因で自身が不幸を極めるという展開などは、道徳的とは言い難い。また、「奴隷」という設定が付されていても、その解放を目的とするならば、現代的価値観と照らし合わせて、それは道徳的と言って良いだろう。
はてさて「なろう小説」はどうかと言うと、奴隷制を肯定する(主人公が奴隷を持つ)作品の多い事は、多くの人が持つステレオタイプであろう。実際の所を調査した事はないので、真実がどうかは知らないが、少なくとも人々の印象としては、この点において「なろう小説」は反道徳的と言えそうである。また主人公が殺人を犯していることも珍しくないように感じる。そこにどんな事情があるにせよ、人を殺した人を恐ろしく感じないのであれば、反道徳性を感じないのであれば、その人もまた異常者であろう。殺人に必要なのは大義名分ではなく、贖罪である。それが贖い得る罪であるかどうかは別にしても。この点、「なろう小説」と呼ばれる小説は、どうであろうか。――この事に補遺を加えさせてもらいたい。こういう風に書くと、現実と虚構は違うという主張が飛んでくるかも知れない。だが、その主張をする人は、いま問題にしていることを全く分かっていない。ここでの問題は、描かれているものであって、それが事実であるかどうかは関係ないし、当然、問題にもならない。
キャラクターの設定に関する道徳性を考えたが、次は行為の道徳性に関してである。これは非常に単純、主人公の行為が公平であるか否かが、反道徳的かの判断基準となる。例えば、泥棒が二人いたとして、主人公がそれを追うという状況を考えてみよう。何なら、主人公は男で、泥棒の一方は男、もう一方は美少女とする。その状況で、主人公は男の泥棒を私刑に処し、美少女の泥棒は見逃すなり囲うなりしたとすれば……この主人公の行為に、道徳性を感じるのはまず無理であろう。そこには理性の抑制を受けない生々しい欲望が想定されるだけである。逆に、どちらも同じように警邏に引き渡すといった行為ならば、(人として至極当然であるとは言え)公平性、道徳性の面目を保つ事は出来る。他にも、罪に対する罰が過大であるといった事もあり得る(個人的に、過少である事が「なろう小説」に多いという印象は殆どない)。例えば、ある人物が主人公をいじめており、主人公はそれによって怪我をしたり精神的苦痛を感じていたとする。しかしそうかと言って、それの応報が死や一生ものの障害などでは、明らかにやり過ぎである。
斯くして、「なろう小説」において、キャラクターとはその設定において多く反道徳的な要素を持ち、行為においても反道徳性を持ち易いことが分かった。
最後に「世界観」である。世界観は、主人公がどういう世界にいるかというそれだけの事ではある。「なろう小説」においては、所謂「異世界」「ゲーム的なファンタジー世界」「中世西洋風」というのが大勢であるように思われる。このことは如何なる意味を持つか。それは、反道徳性を持ち易い世界観であるということである。法の監視が行き届いていない、人権等の意識が希薄である、個人の力が異様に(時には軍隊なども凌駕して)強い。「なろう小説」の世界観には、こういった特徴が見られる。そしてこういった特徴は、現代の現実社会と対比した時、反道徳的な行動を取るための必要条件とさえなり得るのである。
以上、纏めると、次のようになる。
・「なろう小説」と揶揄される小説は、反道徳的な印象によって揶揄されている。
・「なろう小説」の反道徳的な印象は、主にキャラクターの設定と言動から来ており、場合によっては物語もそれに加担する。そしてそれらを可能にするのが、「なろう小説」によく見られる「個の力が異様に強く、中世風乃至ゲーム的なファンタジー」の世界観である。
これらの事柄は、今後の論を進めていく上での前提となる。
補足。物語とキャラクターは不可分である故に少々分かり辛くなったかも知れない。物語とキャラクターの行為は、ほぼ同じ事を言っていると思ってもらっても差し支えないが、キャラクターの行為は純粋に行為のみを言っているのに対し、物語は受動的、或いは偶然の出来事を言っている。