3日目-1
そうして私の病院でのお手伝いの日々が始まった。
翌朝、茂希さんの車で、病院まで同行させてもらった。
「じゃあ、後の事は頼むよ」茂希さんが婦長さんに言う。
「じゃあ、後の事お願いね。」婦長さんが看護師さんに、何やら説明を加えながら、言う。
「それじゃあ、よろしくお願いします。」看護師さんが最終的に私を連れて行ったのは、小さなロッカーのある個室で、そこには
「あ?」
と、振り向くおばちゃんがいた。
「ああ、聡子ちゃんの代わりね?」聡子ちゃん?
「毎年来てくれるんだよ。あんた、聡ちゃんの半分もないね。」笑いながらおばちゃんが言う。
毎年来てくれる半分もない聡子ちゃん。マスター。知らなかった。私はマスターが聡子ちゃんである事と、マスターが聡子ちゃんという名を持つ事を今の今まで知らなかった事実に、ガツンと何かどこからか飛んできた球でも食らったような衝撃を受けて、挨拶を忘れた。
黙っている私に、おばちゃんが言った。
「あれまあ、あんた。まあいいわ。ここは涼しくていいよ。夏でも沢山着るからね。」
「はじめまして」多分、そう答えたと思う。
予想以上の、完全装備だった。私はロッカー一つと、作業着一式を与えられ、まず着替え方から教えてもらわなければならなかった。その服装は、宇宙服の如く、細菌の侵入と侵出から我が身を守り、相手を守る為の完全装備だった。
上着とズボンはツルツルするビニールみたいな物で、長靴。手袋。マスク。帽子へと続く。外では、蝉の音。確かに、ここは涼しくて助かった。それでも汗が滲んでくる。
まず最初はお風呂から。水をジャブジャブ、ピカピカに磨く。入院している患者さんが入る、大きなお風呂。
「はあ、気持ちが良いですね。」と、我ながら爽快でおばちゃんを振り向くと「あいよ」と、言葉の名残だけ残しておばちゃんの姿はそこには無かった。慌てて後を、追う私。続いて床のモップ掛け。おばちゃんはタフだった。移動式のbigサイズのバケツにタップリと水を張り、全部一緒に移動しながら床を磨く。かなり、しんどい。
「バケツが転がるからまだマシなんだよ。」おばちゃんから一言。「ふう、休憩。」なんて挟む間も無く
「次は一部屋づつ、雑巾掛けるからね。」会議室など各部屋の机など、雑巾を掛ける。
「昼前にトイレまでいくからね。」
一つ一つ磨き上げてゆく。便器の中と外。おばちゃんに、妥協は無い。
既に汗だく。涼しいもんか。
ああこんなことならきょうあさごはんちゃんとたべてくればよかった。
ヤバい目が回る。と、思った時、
「あんた、大丈夫かい?」と、やっとおばちゃんが、傍に立ってくれていた。
情けない事に、私は一人、先に休憩を取らせてもらった。纏った装備を解くだけで、目に映るものが違ってくる気がした。私は中途半端にバリバリと胸元を開けるだけ開いて、中庭に出た。ぬるい夏風が、肌に心地良い。中庭から、患者さんの病室が見えた。解放感のある病室だ。
私はピクリとも動く気になれず、だらしなく中庭の椅子に腰かけていた。
どのくらいそうしていただろうか、おばちゃんが、呼びに来た。
「あんた、ほら、お昼食べないと。」
お腹が空きすぎているのか、よく分からないけれど、何も食べたくない。
「ほら。」
おばちゃんの手から、缶コーヒー。缶の表面がうっすらと汗を掻いて、見ただけでキンキンに冷えているのが分る。喉が、鳴った。缶コーヒーに手を伸ばしながら、声を出す元気が無く、おばちゃんの顔を見上げた。帽子を解いたおばちゃんの髪も、汗で濡れていた。その姿は爽やかだった。
ドロンと、椅子にだらしなく座る私と、真っ直ぐに立ったおばちゃん。その後ろでは、太陽に照らされた青葉が風に靡く。自分の姿が妙に恥ずかしく、私はのろのろと、座を正した。
おばちゃんが、缶コーヒーを私に転がすように渡しながら、隣に座ってくれた。
「涼ちゃんは文書整理なんかも手伝ってたから、そっちに聞いてみてあげようか?」
私はコーヒーを飲みながら、うんうんと頷いた。ふふと、笑う。おばちゃん。ああ、何てプロフェッショナル。おばちゃんからの缶コーヒーで、私の食欲は復活した。




