ハスラー
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■ 勝負の朝
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うららかな春の陽気に満たされた朝、その一画だけは隔絶されたように冷たく凍り付いていた。市営ゲートボール第三遊技場では、今まさに天下分け目の大勝負が決着しようとしていた。赤いゼッケンを付けたチームの代表らしき老人男性は、脂汗を浮かべたまま硬直している。その後に並ぶ同じ赤いゼッケンを付けた老人達も同様の表情で事態を見守っていた。その様子を白いゼッケンのやけに姿勢が良い老人男性が薄ら笑いを浮かべて眺めていたが、わざとらしいため息を一つついて口を開いた。
「どうしました? 東区代表の馬場さん。もう他に挑戦する人はいないのですか?」
挑発的なその物言いに馬場と呼ばれた老人は顔を上げて睨んだが、すぐに唇を噛んでうつむいてしまった。そして、極々小さな声でポツリと呟いた。
「くそっ。高橋さんさえ健在ならこんなことには……」
その声を老人とは思えないほどの聴力で聞き取った姿勢の良い老人は、やけに大きな一人言を言い放った。
「あ〜あ。エースが亡くなったらすっかり弱小チームになっちゃうんだもんなあ。高橋さんも今頃天国で泣いてらっしゃるだろう」
余裕を持って眺めていた白ゼッケンチームの面々は、そのおどけるような言いっぷりを聞いてクスクスと笑いあった。最近越してきていきなり不遜な態度をとり続ける目の前の男に対して、馬場はスティックを強く握って詰め寄った。
「田中ぁ! 高橋さんの名前まで出して俺たちを馬鹿にしやがって! 決して許さんぞ!」
田中と呼ばれた老人はさらに顎を上げて見下すようにして馬場に答えた。
「許さん? どう許さないんだ? ゲートボールで負けたからって市議会議員にでも泣きつくのか? 文句があるなら勝負に勝ってからにしてもらおう」
馬場は言葉を返すことができなかった。半年に一度の西区と東区の対抗戦で、東区は完膚なきまでに叩きのめされた。この勝敗によって、今後半年間コートを優先的に利用できる権利を西区に奪われたのだ。しかし、収まらない東区は再戦を要求し特別ルールでの勝負を挑んだ。しかし……。
「本来ならばもうあんたらと戦わなくてもいいんだ。だが武士の情けで再戦を受けてやったんだよ。特別ルール、一周早周り対決で、我がチームが誇るこの近藤君にあんたたちは全く敵わなかった。負け犬の遠吠えは聞き苦しいよ」
田中はそう言うと、老人とは思えないような精悍な顔つきの男性と肩を組んだ。
一周早周り対決とは、スタートして一番ゲート二番ゲート三番ゲートを順に通過させ、コート中央に立つゴールポストにボールを当てるまでの総打数を競うゲームだ。シンプルながらゲートボールの基本技術を高く要求されるシビアなルールで、亡くなった高橋が得意とし、東区の言わば十八番だった。しかし、特別参加だとして急遽呼ばれた西区の助っ人、近藤がはじき出した五打という高記録の前になす術なく敗れ去ったのだった。
「ふざけるな! 全国大会に出るような者を連れてこなければ勝てないのか? この卑怯者が!」
馬場の言葉によって田中の表情が一変した。確かに近藤は全国大会に出場したこともある強豪だったが、本来チームプレイでの完璧な勝利を収めるために連れてきた助っ人。特別ルールでの再戦を任せたのは、わざわざ出向いてくれた近藤に対して華を持たせただけのことだった。それをして卑怯者呼ばわりされたのでは、田中にとって心外と言う以外なにものでもなかった。それまでの余裕全開の顔から、目の据わった勝負師の顔へと瞬時に変った田中は、たぎらせる感情を抑えるように宣言した。
「ほう……。卑怯者ときたか。だったら俺と勝負するか? 誰でもいいからかかってこい! 俺に勝つことができたらコートの利用権を譲ってやる!」
田中の唐突な宣言に東西どちらの老人達も一斉にざわついた。しめた、と思った馬場はこのチャンスを逃さなかった。
「ずいぶんと豪気だな。いいだろう、願ってもない話だ。そっちが代表自ら来るんなら、こっちも俺が相手をしてやる!」
一度は決着したと思われた勝負だったが、馬場の挑発により東区にも逆転の目が出てきた。馬場はさっきの勝負では近藤に及ばなかったものの、六打という次点を付けていた。死んだ高橋に師事していたこともあり、このルールに自信を持っていたのだ。全国レベルには敵わなかったが、町のゲートボーラーに後れを取ることなどありえなかった。笑みすら浮かべて勇む馬場に対して、田中は湧き上がる怒りを抑えるように正対した。
「吠え面かくなよ、負け犬が」
「死地に立った者の強さ、今こそ見せてくれる!」
激しく火花を散し合う両者に周りの老人達から一斉に声援が飛ぶ中、最後の勝負の幕が上がった。
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■ 東区の地力
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先行は東区馬場、ぐわしと握ったボールはゼッケンと同じ赤色。その表面には「1」の文字が白く鮮烈に記されていた。スタートエリアにそのボールを慎重に置くと、前方四メートル先の一番ゲートを睨みつけた。
「高橋さん、力を貸してください!」
小さくそして力強く呟いて構えると、お手本のようなスイングでボールを打ち出した。ボールはまっすぐに一番ゲートを目指して転がった。たまらず東区のルーキー(古河さん七十歳)が歓声を上げた。
「うまい! 力加減も抜群だ!」
その言葉通り、ボールはゲートの中央を通過すると決められていたかのように最適な位置で止まった。ゲートボールでは実は一番ゲートが最も難しい。一発で通過できなければ何度もスタートからやり直しとなってしまう。特に今回は総打数の勝負であるため、一番ゲートが最大の関門なのだ。
最高のスタートを切った馬場は、満足気にスティックを担ぐとゆっくりとした足取りでボールの元へ向った。ちらりと対戦相手の田中を見て不適な笑みを浮かべると、馬場は二打目を打つために構えた。そして一打目の時よりもわずかに高いバックスイングをとった後、伸び上がるようにしてボールを弾いた。
「馬鹿め! 強すぎる!」
思わず口を開いた西区の組合長(間山さん八十一歳)は、インパクトの強さからインサイドラインをオーバーすると予想した。ラインをオーバーすれば打ち直しとなり一打損をしてしまう。ボールは一直線に二番ゲートを目指すものの、そのスピードは砂煙を上げんばかり。組合長の予想があたることを誰もが確信した。
「完璧だ」
皆の予想をあざ笑うかのようにそう呟いたのは馬場だった。二番ゲートを絶妙な角度で通過したボールは、インサイドラインギリギリで静止した。その瞬間、東区側からは歓声が、西区側からはどよめきが起こった。理想的な展開を見せる馬場のプレイに西区のメンバーは一様に動揺を見せたが、対戦相手である田中だけは冷静に見つめていた。
次は三打目。馬場の取ったスタンスは意外なものだった。まっすぐに三番ゲートへ向うようなそのスタンスを見て、両チームは共にざわつき始めた。本来、三番ゲートへのアプローチは他のゲートと違いまっすぐに狙わない。二番ゲートを通過したボールは三番ゲートを直接狙うには角度がない場所に位置している場合が多いためだ。通常は二打を用いて三番ゲート通過を狙うのがセオリーだが、馬場はラインギリギリに停止したボールの位置を好機と見て直接三番ゲートを狙うというギャンブルに出たのだった。ざわつきが治まるまで待った馬場は、ギャンブルを成功させるべく慎重にボールを叩いた。
「よっしゃ! いけるぞ!」
馬場の幼年学校時代からの親友(日下部さん七十七歳)は曲がった腰を伸ばさんばかりの勢いで叫んだ。二打目とは対照的に、ボールはゆっくりと三番ゲートへ向かう。通常よりも角度に恵まれているとはいえ、安全に通過できる範囲はボール一個分。ゲートにぶつかってしまえば、あらぬ方向へボールが転がり余計に打数を増やしてしまう。皆が息を飲む中、ふらふらとゲートに近づいたボールは、するりと三番ゲートを通り抜けることに成功した。
一気に湧き上がる歓声。東区の面々は既に勝利したかのように喜び合った。三番ゲートまでを通過するのに要した打数はわずか三打。残るは中央に立つゴールポストにボールをぶつけるのみ。ラインは一直線、今の馬場の勢いを持ってすれば、残された距離も簡単なものに思われた。もし後一打でゴールとなれば、総打数四打。勝利は約束されたも同然だ。
「決めるぞ!」
高らかにそう宣言した馬場は東区側に向って拳を振り上げた。歓声で応えた仲間を確認するとゆっくりと構えに入る。"いける!"、そう確信した馬場は、美しいスイングの軌道を描いてみせた。東区すべての者の願いを込めたボールはまっすぐにゴールポストに向い、祝福するように金属音を響かせた。歓喜の渦に包まれるその中に戻った馬場は、田中を見据えると勝ち誇ったように言った。
「おい田中! 俺の記録は四打だ。次はお前の番だが、どうする? おとなしく逃げ帰った方が身のためじゃないのか?」
完全なる形勢逆転だった。勝利宣言とも取れる馬場の言葉を、田中はいたって冷静に受け止めてそれに答えた。
「逃げる? フッフッ。今のうちに喜びを楽しんでおけ。じきに恐怖に震えることになるだろうからな」
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■ 九州スタイル
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田中の不気味とも思える言葉にも馬場は余裕を隠そうとはしなかった。早周りでの四打という記録はまずありえないくらいの超高記録。全てが完璧に作用した最高のプレイと言えた。この土壇場でそれをやり遂げた馬場には、負けるというイメージなど持てるはずがなかった。
「卑怯者と言ったことは取り消そう。だから意固地になって負けるとわかっている勝負を続けることはなかろう?」
挑発を止めない馬場を無視するかのように田中はコートに入った。そして何故か一番ゲートと三番ゲートの状態を念入りに確認した。
「何やってんだろうね、ありゃ」
東区の最高齢にして紅一点(ヨモさん八十八歳)は、田中の行動を見てただでさえ深い皺をさらに寄せて不思議がった。
「なあに。意味の無いことをさも意味有り気にやってんのさ。はったりだよ」
馬場はそう解釈して吐き捨てた。しかし、田中の落ち着き払った態度が小さな不安を抱かせた。
確認らしきものを済ませた田中はスタートエリアにボールを置いた。白いボールには血のような赤い字で「9」と記されている。田中の目もその色と同じように赤く充血していた。それまで野次を飛ばしていた東区の面々も、田中の並々ならぬ気迫を感じて押し黙ってしまった。
いざ構えに入ろうかという時、田中は集中を途切れさせたように顔を上げた。その先にはコート脇に生えた草をむしる老人の背中があった。
「ちょっと、そこのあんた! 今から俺が打つんだ。視線に入って邪魔だからどっかに行ってくれ!」
そう注意を受けた老人はゆっくりと立ち上がるとひどい蟹股歩きで脇に退いた。ため息と共に気を取り直した田中は、スティックを正面に掲げてヘッド部分を見据えると、うやうやしく構えに入った。
その姿は衝撃的だった。オーソドックスな構えとはあきらかに違う異様な姿に、老人達はコートの温度が下がったような錯覚を覚えた。ボールとゲートに対して正面で対峙し、左足をボールのすぐ脇に、右足を後へ引いて、スティックを身体の右側に添える。そして前方正面に一番ゲートを見据えるとピタリと静止した。その構えは身体に対して横方向へのスイングではなく、縦へのスイングを想像させた。
「出た! 田中代表の必殺技、九州スタイル!」
その姿を見た西区の古株(片桐さん八十歳)は西区の希望を届けるように叫んだ。聞き慣れない言葉と「必殺技」というキーワードは、余裕に浸っていた東区の面々を一気に動揺させたが、ただ一人、馬場だけはその不気味な構えの真意を冷静に分析した。「九州スタイル」と呼ばれた田中の構えは、正確な由来は不明だが九州発祥という噂からその名が付いたという。目標を身体の正面に置くことによってショットの精度を高めるという理にかなったものだ。パワーショットには不向きだが、抜群のコントロール性を発揮する。しかし、本来「必殺技」と呼べるほどの破壊力は秘めていない。コントロールを極限にまで高め、自分と同じ四打で上がることによって次戦に希望を繋げようとしている、馬場はそう推理した。しかし……。
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■ 衝撃の一打
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田中は大きく息を吸いながらスティックを後に引いた。思い切り上半身を前傾させるその姿はまるで居合いの達人の秘技を切り取ったかのようだった。ゆっくりとしたバックスイングが頂点に達すると、それまで溜めてきたものを一気に吐き出すような息吹と共に、正面に向ってボールを打ちつけた。
「な、何ぃぃぃ!」
東区の宴会部長(林場さん七十五歳)は、狩りで鍛えた動体視力でその光景を捉えると、手の震えが止まるほどに驚愕した。ボールを前方に向けて激しく弾いたスティックは勢いを失うことなく半円を描き、中天を付くような角度に至ってようやく止まった。打ち出されたボールの勢いは凄まじく、まるで宙を飛ぶようにゲートへ向った。だが、まっすぐに一番ゲートへ向けて射出されたと思われたボールは、微妙に右側に向ってずれてしまっていた。
「しくじったな! 目立ちたがりが!」
予想とは違う強烈なショットに呆気にとられた馬場だったが、みるみる右側にずれていくボールを見て余裕を取り戻すことができた。このまま進めばゲートに直撃、不通過となりスタートのやり直しだ。仮に運よく通過することがあっても、この勢いならばラインを超えることは確実だ。田中にとって一打を損するということは現状を考えれば絶望を意味する。馬場は完璧な勝利を確信した。
「行けぇぇぇぇい!」
空気を切り裂くように田中は叫んだ。絶体絶命を思わせるこの状況でも、田中の叫びに悲壮感はなかった、それどころか次の展開を予期するかのような自信を感じさせた。
ガキィッン!
硬い物同士が激しく衝突する鈍い音がコートに轟いた。両チームの様々な感情を乗せた白いボールは、ゲート右側に衝突しつつも無事に通過し、大きく角度を変えてさらに転がり続けた。そして、その転がる先には二番ゲートが待っていた。
「まさかっ!?」
馬場のその悪い予感は現実のものとなった。勢いが落ちないボールはまっすぐに転がり続け、あっさりと二番ゲートをくぐってみせた。そして幾分距離を伸ばすと、誇らしげに「9」の文字を示して止まった。
湧き上がるものは歓声などと呼べるものではなかった。狂気さえ含まれるおたけびを上げると、西区メンバーは激しく抱き合った。二番ゲートまでを一打で通過。信じられない瞬間に立ち会えたことで西区はおろか東区の一部の者まで拍手する異常事態に、馬場は世界が崩れる音を聞いたような気がした。
「そ、そうか! わざとゲートにぶつけて二番を狙ったんだ! だから事前にゲートをチェックしてたわけだ! ……て、確か、三番ゲートもチェックしてなかったか?」
東区一番の博識(松田さん六十九歳)は遠近両用メガネをせわしなく上げながらとんでもないことに気付いてしまった。プレイ直前、田中が行ったゲートの確認作業は、予想される反射角を調べていたのだ。ゲートのわずかな傾きによって反射されたボールの行方は大きく変わってしまう。田中はその角度を読みきり、わずか一打で二番ゲートまでを陥落させた。しかし、確認していたのは一番ゲートだけではなかった。そう、田中の目指すものは今現在まだ半分しか成されていないのだ。
まっすぐに二番ゲート付近に進む田中を、西区の声援が押した。その声援に含まれるものは、単純な勝利への期待ではなく、これから大記録に挑もうとする勇者への祈りだった。やはり姿勢良く歩く田中は振り返ることなく、左手を挙げることでそれに答えた。ボールの側まで来ると皆の祈りに応じるかのようにあの構えを取った。奇跡の再現、いや真の奇跡が今まさに完成されようとしていた。
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■ 決着
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じっ、っと三番ゲートを睨みつけた田中は意を決したように前屈みになると、一瞬の溜めの後、のけぞるようにスティックを振り上げた。破裂音に似た響きを残して白いボールは三番ゲートへまっすぐに飛んだ。そしてつい一分前に聞いた鈍い衝突音をもう一度奏でると、Vの字を描くように跳ね返り、一直線にゴールポストを目指した。
「そ、そんな、馬鹿な……!」
膝を着いてへたり込んだ馬場は、次の瞬間軽やかな金属音を聞いた。そしてすぐに地響きにも似た歓喜の声が続いた。
二打。全ゲート通過してのゴールがわずかに二打という驚くべき記録が誕生した瞬間だった。真の奇跡を目の当たりにしたすべてのメンバーは、両チーム入り乱れて喜びを分かち合い、ハイタッチと抱擁を繰り返した。
「あ、ありがたやぁ! 冥土の土産とはまさにこのこと!」
西区のゲートボーラー兼歌手(米田さん七十三歳)は両手をすり合わせながら目を閉じ、涙を滴らせた。
「とんでもねえもん見ちまった! こうなりゃ俺もすぐさま西区に引っ越すぞ!」
東区の太鼓持ち(小泉さん六十八歳)はよくわからない決意表明を行った。皆がみな、ただ目の前の奇跡に酔い続けた。そんな中、その輪を外れ一人四つんばいでうなだれていた馬場の目の前に、スティックのヘッドが荒っぽく置かれた。顔を上げると、当初の余裕全開な顔に戻った田中の姿があった。
「卑怯者のはったりプレイはお気に召していただけたかな? 私も負け犬と言ったことは訂正しよう。もちろん逃げ帰るなんて恥ずかしいまねはしないよな? 」
頭上からのいやみを極める田中の言葉に対しても、馬場は何も答えることができずに、ガクリと首を垂らすのみだった。その両者の姿が勝負の全てを象徴していた。西区と東区による因縁の対決はここに完全決着をみた。
待機所に戻るなりあっという間に両メンバーに取り囲まれた田中はまるで銀幕スターのように笑顔をふりまいた。両チームの老婆たちは潤んだ目でその姿を仰ぎ見た。あきれたように首を振った近藤が手を差し伸べると、その手を田中はがっちりと掴み返し肩を叩き合った。
「いやぁ、ちょっと大人気なかったかなぁ。三打でも勝てるんだから無理することはなかったけど、ついつい本気出しちゃった。お恥ずかしい」
「さすがは田中先輩だ。獅子は兎を屠るにも全力を以てす、と言いますからな。ただ、助っ人としての私の立場がなくなって少々複雑な気分ですが」
二人は声を上げて笑い合った。そこには絶対的な勝者の自信が満ち溢れていた。数分前の張り詰めた雰囲気は幻であったかのように和やかな空気で遊技場は満たされていた。その時……。
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■ タオルの老人
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「ふぅわぁぁぁぁぁあ……」
場の空気をわきまえないあくび声が聞こえた。愉悦の時を邪魔されたように感じた田中は、眉を寄せてその間延びする声が聞こえてきた方向を睨んだ。そこには、先ほど田中に注意されて場所を移動させられた老人の姿があった。曲がった腰に、冗談かと思えるほどの蟹股、頭には鉢巻のようにタオルを結んでいる。
「なんだぁ?」
田中はいぶかしげにその様子を眺めた。その老人の手にはスティックが握られ、スタートエリアには無造作に赤いボールが転がっている。白いタオルと白髪で覆われた頭を振ってコキコキと首を鳴らすと、赤く塗られたスティックを正面に突き出した。
「ははぁ〜あ。さっきの田中さんのプレイに触発されちまった初心者さんだな、ありゃ」
いつの間にか"田中さん"と呼んでいる東区一の子沢山(牛島さん七十六歳)の一言で場の空気はまた元に戻された。だが、田中の気持ちは収まらなかった。
「おい! そこのあんた! そこはたった今から我々西区の貸しきりだ! ゲートボールの真似事なら他でやってくれ!」
田中の声は確かに届いたはずだったが、タオルの老人はそこを出ようとはしない。それどころか、サンダル履きの足でボールを転がし、スタート位置を雑に調整していた。無視される形となった田中は老人達が作る輪を飛び出し、血相を変えてその老人の元へ駆け寄った。
「ふざけた野郎だ! こうなりゃ身体でわからせてやる!」
田中がコート内に入ろうとした時、全ての老人達は唖然とすることとなった。その老人はひどい蟹股はそのままに、スティックをまるで巻き割りでもするかのように頭上に振りかぶったのだ。呆気にとられた面々はすぐに腹を抱えて笑うこととなった。
「はははははっ! ダメだありゃあ!」
西区の暴れん坊(吉田さん七十四歳)も入れ歯を飛ばさんばかりに笑った。しかし、その入れ歯は本当に飛び出すこととなる。
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■ 神業
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笑い声がこだまする中、タオルの老人は振りかぶったスティックをほぼ垂直に地面に叩きつけた。地震かと思わせるほどの衝撃に気圧され、全ての老人達は笑顔を凍らせた。
「!!!!!!!!!!」
田中は最も近くにいたため詳細にその瞬間を目撃してしまった。地面に叩きつけたように思われたスティックは、実はボールの端をこするように打ち付けられていた。そして弾かれたボールは凄まじい回転を伴って弧を描くように一番ゲートを目指した。
「ぐぶごぉおおお!?」
とうとう入れ歯を吐き出した吉田さんだったが、それを拾うことなくボールの行方を追った。砂利を撒き散らしながら一番ゲートを通過したボールは、さらに弧を強めると二番ゲートへと進路をとった。
「な、何が起こってるんだ!?」
混乱する田中の思考などお構い無しに、ボールは二番ゲートを斜めに通過、全く回転の落ちないボールはコートの幅を最大に使って曲がり続けると、そのまま三番ゲートをくぐり抜けた。轟音と共に激しく回転する赤いボールは、怒張する火の玉を思わせた。
「あ、ありえない……。三番ゲートまでを一打で、だと……。お?」
三番ゲートまでをいとも簡単にクリアしてみせた打球だったが、直後の進行方向に目指すべき物は待っていなかった。それを見取った田中は、このいかれたパフォーマンスがこれで終了することを予期した。進行方向にはゴールポストではなく一番ゲートが屹立していた。このまま進めばゲートの脇を通りラインアウト、もしくはゲートにぶつかって常識外れな回転は止まることとなる。主役の座を奪われることはない、そんな私的な希望を歪んだ笑顔でボールにぶつける田中だったが、意思を持つかのように進むこのボールはそれを裏切った。田中の予想どおり一番ゲートに激しくぶつかったボールだったが、なんと回転を止めることなくゲートを駆け上がるようにして真上に飛び上がった。
「なにぬおぉぉぉぉぉ!!!!????」
予想だにしない事態に田中は我を忘れて絶叫した。天を目指すように高く舞い上がったボールは、やがてその勢いを失うと、軌道を反らせて落下を始めた。そして、その落ちる先にはゴールポストが突き刺さっていた。
「やめろおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
ゴンッ!
田中の悲痛な叫びと共にボールは落下し、ゴールポストの先端にぶつかって金槌を打つような音をさせた。バウンドして着地したボールは少しだけ転がると、自らの仕事を終えるようにその動きを止めた。
奇跡と称された田中のプレイが児戯に思えるほどの神業。しかし、その驚嘆すべき光景が目の前で繰り広げられたにも関わらず、その場にいた誰もが言葉を発することができずに一様に固まっていた。コート脇にいた田中もあんぐりと口を開けたまま、落ちたボールを呆然と見続けるだけだった。
「ちょいとずれちまった。もう少しで杭の上に乗っけられるんだがなぁ」
そう呟くと、タオルの老人はスティックを肩に乗せ、ひどい蟹股歩きでその場を去った。呆然と見送っていた老人達だったが、誰かの声に押され慌ててその後を追った。一人残されてもまだボールから目を離すことができない田中だったが、そのボールをふいに拾い上げられて意識を戻した。拾ったのは打ちのめされていたはずの馬場だった。
「これ、赤だから、東区の勝ちでいいよな?」
赤いボールを田中に見せ付けると、馬場はニヤリと笑ってみせた。
そう言えば、あまりゲートボールを扱った物語がないなぁと思って書いてみました。書いてみて、動きを表現するのはとても難しいことだと再確認しました。「九州スタイル」の描写がくどくなったことが悔やまれます。面倒でしょうが、よかったら評価をお願いします。