第二章 肆
「祥仕!!」
駆け出してきた必死の叫声は彩凌のものだった。問答無用で真紅の数珠を翳し、炎を作り出す。法胤の力の第一は経典との契約による、自然物の使役だった。紅涯師である彩凌は炎を作る力を受け継いでいる。手加減出来ずに、彩凌が繰り出した火炎は、火の粉を振りまきながら、甘味処の長椅子を焼いた。
「きゃああ!」
店の中で談笑していた若い女性が、悲鳴を上げて外に飛び出して行く。
恐怖は連鎖して、大通りの通行人は、一気に霧散した。
「馬鹿なヤツ。無茶しすぎだ……」
難なく避けた景蘭は、透花を肩で抱き、盾のようにして、彩凌と向き合った。
「祥仕に何をしたのです?」
常の笑顔が彩凌からは消えていた。教徒を魅了する美しい菫色の瞳は、小さく細められ、鋭い輝きを放っている。白い旅用の着物は、走ったせいか、襟の部分が乱れて、裾は土煙に汚れていた。彩凌は怒っているようだった。
今まであんなに狼狽した師匠を、透花は見たことがない。
「まだ何もしてないさ。ただ、真実を教えてあげただけだよ。……なあ。同志」
むっとして、透花が睨むと、景蘭は透花の一つに結っていた髪を解いて、灰色の髪を片手で撫でた。
「祥仕!」
彩凌が咄嗟に両手で印を結ぶが、攻撃はしない。
助けるべき透花が、前面に押し出されていることを確認して、渋々手を下ろしたようだった。
「真実……とは?」
息を整えながら彩凌が訊き、景蘭が透花に目配せをする。もう透花は腹を括るしかなかった。
「お師匠様……、私が「妖異」だというのは、本当なんですか?」
か細い小さな声で、訊いたはずなのに、彩凌は目を大きく見開いて、あからさまに動揺した。せっかく、透花が心を落ち着けようとしているのに、台無しになったと言わざるを得ないくらい、正直な人である。
(……やはり)
…………真実なのだ。
透花はそう確信した。
「……何故?」
彩凌は、景蘭の質の悪い笑みを、直視した。
彩凌にとっても、景蘭が事情を知っているなんて思ってもいなかったらしい。
「……ふーん。なるほど。紅涯師。とりあえず、お前は透花に親愛の情は持っているようだな。良かったよ。散々遠回りしたが、お前たちのおかげで、答えが出た」
「言いなさい。貴方は、祥仕に何を話したのですか?」
「未熟者。先にこの娘に疑いを持たせたのは、お前だろう? まあ、しかし、お前の方針を裏切って、透花に話をしたのは、私にも理由がある」
「――理由」
彩凌が聞き返した刹那だった。
「さて、その理由とは、何だ? ……妖異」
ぎくりと肩を震わせて、景蘭が後ろを向いた。
……延凌だった。
いつの間にやって来たのか、延凌は景蘭の後ろに立っていたのだ。
「お前……」
「いつぞやは世話になったな。……妖異」
即座に、景蘭は舌打ちして、身構える。逃すまいと、延凌が拳を振り上げる。
「やられるかよ!」
間一髪、景蘭は、透花を抱いたまま、飛び退き、延凌の直接攻撃を避けたが、さすがに表情は強張っていた。
「黒涯師め……」
意味ありげな呟き。
直後に、さっと、景蘭が左手を掲げると、旋毛風が吹き荒れた。
風力は増し、周囲の店の看板を吹き飛ばしながら、獲物を狙うように、延凌のもとに向かう。
……もはや竜巻だった。
猛烈に旋回する風は、呆然とする延凌を取り巻き、徐々に苦しめた。
「――くっ」
「……延凌様!」
彩凌が瞬時に走ったが、風が壁のようになって、近づくことも出来ない。
「やめて!!」
透花は景蘭に縋りつく。揺さぶられて、掌で風を操っていた景蘭は、態勢を崩した。
不思議な術が解けていく。何事もなかったかのように、風は散った。
どうやら、延凌は掠り傷を負っているものの、軽傷のようだった。
急いで、彩凌が延凌を助け起こす。
ほっと、透花が一息ついたと同時に、景蘭が前のめりになって、しゃがみこんだ。
「くそっ」
透花の背中に寄りかかりながら、景蘭は乱れた呼吸で呻く。
「力が出ない。こんな、この程度になっちまったのか? ……私は」
「景……蘭?」
よろよろと透花を支えに、景蘭は立ち上がろうとするが、直後、透花の耳元を吹雪が吹き抜けた。景蘭は透花の頭を咄嗟に押さえ込んだ。強い力に引き摺られ、透花は地面に尻餅をつく。
「延凌様……?」
延凌が彩凌を押しのけて、前面に漆黒の数珠を掲げていた。
「何を……?」
彩凌が呆然としていた。
今、延凌は透花ごと景蘭を吹き飛ばすつもりだったのではないか?
周囲の疑惑の目に晒されながら、しかし延凌は問答無用な構えで、再び氷の嵐を放った。
「――っ!?」
景蘭を狙ったものだろうが、当然透花も巻き込まれる。
「透花!」
なぜか、透花を庇うようにして、景蘭は前に出た。
「……透花。私はこんなところで、消えるつもりはないんだ」
震える声に、透花は瞑っていた目をゆっくりと開けた。
黒い着物に透明な氷の破片が張り付いている。まるで透花を守ってくれているような態勢だ。
「だから……」
震えるか細い声が、いつの間にか透花の至近距離にあった。
「――お前の体を私にくれ」
「……あっ」
気付いた時には、透花の左手の指輪ははずされていた。
紅の指輪が宙に転がる。瞬間、透花の意識は薄れ、体が激しく脈打った。
……熱がやって来る。
大きな力の奔流が血液と一緒に透花の全身に広がっていく。意識が朦朧として、すべてが消えていく。
「――仕!」
誰かが呼んでいる。しかし、それが誰の声なのか、透花には分からなかった。
自分が何者なのかすら、忘れてしまいそうな一歩手前……。
「悪いな」
慈愛に満ちた声が、透花の奥底から聞こえた。
(何だろう?)
自分なのか、他人なのか、いや、他人であって自分なのか?
(小さい……)
そう感じた。
何にしても、自分は随分と小さな器に入り込んでいたらしい。
もっと遠くに。大きくなれるはずなのに……。
どうして、ここに留まっていたんだろう?
「妖異め!」
低い男の声が透花を侮蔑する。
見ると、がっしりとした体格の男が透花の行く手を阻んでいた。
「えんりょう……?」
唇は動くが、理解はしてなかった。一瞬だけ、冷たくて痛いと感じた。男が透花を攻撃したらしい。
(嫌だな……)
コイツの攻撃は嫌いなのだ。
そう感じた透花は、お返しとばかりに男に近寄り、叩いた。
きらきらと、割れた氷が蒼天の下に舞う。
「……氷?」
しかし、風に舞うのはそれだけではなかった。透花の……、
「涙?」
ハッと我に返る。視界の真ん中には、彩凌がいた。
(……おかしい。視界が変だ)
そう気付いたら、透花は空中から地面に落ちた。
今まで、ずっと浮いていたらしい。
体が受けた衝撃はさほどでもなかったが、心の動揺は大きかった。
彩凌は、両手を横に広げた。
延凌のもとに行かせないように、透花を足止めしていたのだろう。
彩凌は武器である真紅の数珠を、地面に投げ出している。丸腰で向き合っているのだ。
「お師匠さま……!」
「――ああ、もう」
仰向けに倒れていた景蘭が起き上がり、嘆息をついた。
「紅涯師! お前間違ってるぞ」
「馬鹿なことをこれ以上言わないで下さい。貴方が彼女にこれ以上、何かしたら、その時は、すぐに口が効けないようにしてあげますよ」
彩凌は涼しい顔を取り戻していたが、間近で彼を見ている透花にはすぐに分かった。
――キレているのだ。
甘味処の店先を破壊して、横たわっている延凌は、さっきの掠り傷だけではなかった。あちらこちらに、裂傷を負い、頭から血を流していた。
「残念ながら、お前と争っている暇はない。とっとと去れ」
「祥仕は放してくれるのですか?」
「…………さーて、どうしたものかな?」
景蘭が不敵な笑みを深めたことで、彩凌はかっと目を見開いた。
「速やかに、彼女を放しなさい!」
彩凌は言うが早く、数珠を拾い上げ、特大の炎を掌の上に作り出した。勢いよく景蘭めがけて放り投げる。
「馬鹿なヤツ……」
捨て台詞が乾いた空気に溶ける。土を焦がした炎は、景蘭には命中しなかった。
ーー彼女はもう、その場にはいなかったからだ。
……どうやって逃げたのか?
どういう種があるのか分からない。
……しかし。
苛立ちを隠せず、両手を握り締める彩凌は透花を見ていなかった。
景蘭がいなくなった地面を凝視している。
「お師匠様……」
そんな彩凌は、透花にとって新鮮ではあった。
だけど、透花は、そんな彩凌の一面を知ってはならなかったのかもしれない。
「祥仕」
彩凌は、蹲っている透花のもとに走ってきた。地面に落ちていた透花の指輪を拾い、元通りにはめて、経を唱える。
「怪我は?」
問いかけてから、彩凌は無言になった。無傷であることを透花が恥じていることに、気付いたからだろう。
今朝の段階では、透花は黙っているつもりだった。
彩凌が発した言葉について、自身の心の整理がついてなかったからだ。
…………でも。
さすがに、今の一見を何もなかったことにはできない。
本当は、すぐに彩凌に否定して欲しかった。
一刻も早く、景蘭から聞いた話について……、すべてを……。
「お師匠様。……私は」
唇をかみしめて、彩凌を見遣る。
けれども、彩凌は一瞬天を仰ぎ、迷った挙句に、首を振るようにしながら頷いた。
……それは、透花が心の奥で求めていた希望とは程遠い表情だった。