第二章 弐
冷や汗が滴る感触と共に、目を覚ました。
白い天井と朝日が彩凌の視界を覆う。
額の汗を拭い、何とか頭を働かせ始めた。
――夢だった。
思い出したくない、あの時の……。
「何年ぶり……でしょうね」
延凌には悪いが、彩凌にとっては、一時期しょっちゅう魘された悪夢だった。
しかし、最近は思い出すこともなくなっていたのだ。
(……何故、今頃?)
幼少時に両親を妖異に殺された彩凌は、延凌に拾われた。
子供の頃は、妖異と聞くだけで、延凌や師匠に叱られても、退治してやろうと血気盛んだったが、師匠が死んで、紅涯師を継ぎ、透花を引き取ってからは、そんなこともなくなった。
感情は、死ぬものなのか……?
彩凌は、最近ふとそんなことを、思うことがある。
それが悟りの境地ならば、僧侶として尊ぶべきものなのだろうが、少しだけもの悲しさも感じる。
(……透花のことだって)
今まで一緒にいて、ずっと彼女の成長を見守ってきた。
正直、辛いし、切ない。すべての真実を棚に上げて、たとえ、自分の信条を曲げたとしても、離れたくないし、離したくない。
もしも、許されるのなら、国王などには返さずに、ずっと自分の手元に置いて、共に生活を送りたいと思っている。
――でも……。
それは、透花のためではなく、自分のためだ。
いつか大人になった透花が教院に訪ねて来てくれたのなら、落ち着いた気持ちで接することも出来るだろう。
そんなふうに考えて、彼女の真っ直ぐな瞳からも、自分の感情からも、逃げている自分がいる。
「まあ、こういうのを感傷と呼ぶのでしょうけど……」
持て余している気持ちを断ち切るように、目を擦る。
そうして、彩凌は、ようやくここが宿屋だったことを思い出した。
窓の外は、広小路だ。通行人の声が、お祭り騒ぎのように響いている。
南郡と蒼郡の間の町、百蓮。
小さな町ではあるが、極度の緊張状態だった旅人がやっと羽根を伸ばせる休養地として、活気に満ちていた。
人が寛ぐことが出来るのは、ここが妖異の襲撃に晒される危険がないと信じているからだ。ここ百蓮にも結界壁がある。彩凌が拠点とする紅令とは違い、結界壁の規模ははるかに小さいが、旅人と町人が行きかうこの町にとって、それは、生命線に等しかった。
数年前に、大法胤の三つ下の階級である、法祖の僧侶が結界を補強したのだが、だいぶ効力が弱まっているようだ。
昨日は時間と道具もなかったので、彩凌も応急処置しかできなかった。
(この程度の補強ではもたないかもれないな……)
彩凌は身を持って知っている。
妖異がその気になれば、この程度の結界壁打ち破ることなど簡単だろう。
もしかしたら、近いうちに「妖異」が侵入するかもしれない。危ない状況だ。
早めに準備を整え、結界を強化することが必要だった。
「さて……」
みんなが目覚める前に、仕事を終えてしまおうと、決意をした彩凌だったが、 しかし、身支度を整え、階下に下りると、延凌はとっくに起きて朝食をとっていた。
(私としたことが……)
少しだけ引け目を感じるが、表情には出さない。
延凌には二人で話したいことがあったので、丁度良い機会だと思った。
あくまで温厚に挨拶をして、微笑みかけると、延凌から爽やかな笑顔が返ってきた。
「早いな」
「貴方の方が早いじゃないですか。相変わらず、涼しい顔で嫌味をおっしゃられる」
「お前のように、笑顔で嫌味を言い続けるよりは、マシだと思うが?」
食後の茶を啜る延凌の前に座った彩凌は、さっそく宿の主人に朝粥を注文した。
延凌の言っていることが、昨夜の彩凌と透花の激しい言葉の応酬だということは、察しがついている。
透花に紅令に帰るよう、彩凌は言った。しかし、透花は帰らないと駄々をこねる。
彩凌がいつものごとく、「お仕置き」を発動させる一歩手前で、延凌と涼雅が止めに入った。
私的な感情で透花を苦しめるな……と、逆に彩凌は二人に責められた。
彩凌にとっては、私的なつもりでも、苦しめるつもりでもなく、単純にしつけのつもりだったのだが……。
「昨夜は、その……。私は、ただ祥仕を紅令に返したかっただけで……」
「しかし、せっかくあそこまでついてきたものを、無碍に返すのは酷いじゃないか」
「で、でも、あの子はまだ子供で、ずっと教院で育って来たので、世間を知らないのですよ」
「それは、お前だって、そうだろう」
……うかつだった。
彩凌は自分で発した言葉で、見事に追い込まれていた。
「しかも、あの妖異がうろついているかもしれん。透花殿はかえって危ないかもしれんぞ」
(透花殿……か)
延凌は昔から透花のことを「祥仕」と呼ばない。
涼雅は透明が十六歳を迎えたことをきっかけに「透花」と呼ぶことが増えたが、普段は一応気を遣っていた。
彼女の呼び名に関しては、彩凌も、すでに諦めていたが、今回の透花の処遇に関しては、彼女の命の危険に関することだ。引き下がりたくはなかった。
(……しかし)
延凌を納得させるのは難しい。
三師の一人で、兄弟子の延凌の主張を跳ねつけるには、それ相応の理由を提示しなければならない。今の彩凌には無理だった。
結局、なし崩しのような形で、透花はこの宿にいる。
彩凌自身、どうして良いか分からなくなっていた。多分、私情が占める割合が多いのだ。どこか後ろめたい気持ちがあるから、説得一つできないのだろう。
「祥仕のことはともかく……」
これ以上、透花のことを話していたら、どんどん墓穴を掘っていくかもしれない。
彩凌はそそくさと話題を変えることにした。
「……やはり、あの女性は、妖異なのですか?」
「ああ。見てのとおり、巷で話題の蒼郡の妖異だよ」
怖いほど淡泊に答えは返ってきた。
それは、つまり、彩凌、ひいては、「天来教」にとって大きな痛手に繋がることである。
ーー大事件に相違ない。
……なのに、朝食のついでのような会話で発覚してしまうと、どこか他人事のように、彩凌には感じられた。
「……何故、貴方が「巷の話題」をご存知なのでしょうか?」
「それを言うのなら、お前こそ何故知っているのかと、聞き返したいところだがな。まあ、俺の方は単純な話だ。差出人不明の手紙が届いた」
「もしかして?」
彩凌は懐の手紙を広げて、延凌に見せた。延凌もうなずいて、懐からまったく同じ内容の手紙を取り出した。
「お前も呼ばれたのか? まあ、俺の場合はこれだけでは動くつもりもなかったんだが、陛下から直々にお話を聞かされてしまったからな」
「はっ?」
延凌は彫りの深い顔に皺をこさえて、くしゃりと笑った。
「弟子の高位試験の結果を告げに、王都の白叡に出向いたんだ」
「ああ……」
ようやく運ばれてきた粥には手もつけず、彩凌はうなだれるように、頷いた。
「申し訳ありません。私がいたらないばかりに、貴方に弟子を押し付けるような真似をしてしまって……」
「大法胤」とは厳しい修行の果てに、辿り着く位のはずだった。
それが、いきなりこんな若造が大法胤を継いでしまったのだ。
当然、真面目に修行をしている僧侶たちに動揺が走り、あんな若者に何が教えられるのかということになった。そこで、彩凌は、元・同門で、年長者でもある延凌に、頼っているのだ。現在、唯慧、彩凌の弟子の面倒を一手に引き受けているのは、延凌である。
「何言ってやがる。唯慧師の御心を、次の者に継がせるのが俺らの責務だろう?」
「そうは言っても……」
国王までもが、妖異の噂を知っていた。
「私はもっと情報収集するべきでした」
彩凌は自分の対応の遅さを、強く後悔していた。
しかし、延凌は溜息交じりに微笑する。呆れられているのだろう。
「そう急くな。お前は紅涯師だろう。国の至宝である存在が、自ら調査に乗り出すこと自体が憚れることじゃないか。二番手の俺に、情報が集まるのは仕方ないことだ。陛下だって、そういう意図だろうよ。もう少しどっしりと構えてろ」
耳が痛い一言だ。彩凌の気持ちを察した延凌は、遠回しに、透花だけではなく、彩凌にも蒼郡に行くべきではなかったのだと釘を差しているらしい。
「延凌様は、本当に、手厳しい……」
「もう、その話はいいじゃねえか。陛下もお妃様も、そりゃあ、お健やかだったんだぜ。透花殿が戻って来るのを心待ちにしていてな。……もっとも、透花殿は、王宮に戻るのを良しとしていないようだが?」
「――今だけのことですよ」
昨夜、悲しみよりも、怒りの色を込めて、彩凌を見ていた透花の銀色の瞳を思い出す。
子供らしく、彩凌とはもう口も利きたくないと言い捨てて、彩凌の部屋を出て行った小さな後ろ姿を思い描きながら、粥を蓮華にとって口に運ぶと、彩凌は見事に舌を火傷した。
「大丈夫か?」
延凌の気遣わしい目が彩凌に注がれている。
(……駄目だ。透花のことは考えてはいけない)
舌のひりひりを我慢して、彩凌は怪しい呂律で先を促した。
「私は、涼雅からもしかしたら「進化した妖異なのではないか」と聞かされたんです。蒼郡で頻発している怪異。何でも、結界の内側から、結界壁が破壊されているのだとか……」
「俺は見てきたよ。蒼郡で壊された結界壁をな。無惨に一角が砕かれていたよ。急いでいたんで、応急処置程度しかできなかったが、今度はちゃんと補強しに行くつもりだ」
「……そうですか」
「それにしたって、今まで、いろんな僧侶が築き上げてきた渾身の結界壁だ。いくら、先代の蒼涯師が実力不足だったからって、簡単に壊される代物じゃない。妖異であろうが、たとえ人間であろうが、誰の仕業であろうと、常軌を逸しているよ」
粥の湯気が延凌の浅黒い、精悍な顔立ちを隠した。昇り始めた朝日が、暗かった室内に色をつける。
(やはり……)
危険だと言っていた涼雅の直感は正しかったらしい。
彩凌は、器の粥をかき混ぜて覚ましながら、冷静を装って、延凌に尋ねた。
「それで、延凌様はどうしてあの女性が妖異だと、知ったのですか……?」
「おびき寄せられたのさ。あの女、蒼郡の茶店で働いていたんだ。情報を提供したいから、別の場所で会って欲しいと言われて、出向いたら、いきなり襲い掛かってきた。……で、俺は逃げるあの女を追っていたら、お前に会った」
「何故でしょう? 涼雅の話では、人は襲われていないということだったんですが?」
「どうにもな、分からないことだらけだ。大体、妖異が人の形をしているというのも、有り得んことじゃないか……」
「本当に、あの女性は妖異なんでしょうか? 私にはどうも納得いかないというか……」
「本人が自ら「妖異」だと名乗ったんだ。……きっと、そうなんだろうよ」
……自らを「化け物」だと名乗り出た「妖異」。
そもそも妖異が口を利けるというのも、驚きだった。
涼雅や、延凌の指摘する通り、獣の姿を取っているのが一般的だろう。
しかも、よりによって危険極まりない妖異は逃走してしまっているのだ。
「やはり、祥仕には今日にでも涼雅と一緒に紅令へと帰ってもらいます。私は決めました」
「だから、言ってるだろう。しばらく待てと」
「……ですが、こことて、結界を補強しないと危ないんです」
慌しく席を立とうとした彩凌だったが、延凌は行かせなかった。
細い瞳を見開き、深い漆黒の瞳で、彩凌を睨んでいる。毒針にも似た言葉が、彩凌の足を引き止めた。
「お前、何も言わずに王宮へ帰すことが、彼女の幸せなのだと、本気で思っているのか?」
「延凌様?」
「もしも、透花殿がすべてを知ったら、その時彼女は、お前に対して何を思うんだろうな?」
「別に。私は、あの子に好かれたいわけじゃないんです」
「だが、お前が話さなくても、彼女はいつか思い出してしまうかもしれない。お前が現実を認めたくないだけで、彼女に真実を教えられないのなら、それは大きな誤りだ」
――逃げているのだと、延凌は言いたいのだろう。自覚はしている。でも……。
「俺は忘れたわけじゃない。十年前の出来事をちゃんと覚えている。でも、忘れないからこそ乗り越えることが出来るのだと思っている。違うか? 彩凌。……お前だって」
「……どう話せば良いのでしょう?」
日向にいる延凌が眩しくて、彩凌は目を細める。笑顔でいながらも、朝見た夢と、十年前の光景が脳裏によみがえり、息が出来ないほど苦しかった。
「涼雅にだって話していない事実を、祥仕に何と言って聞かせれば良いのか、私にはまったく分からないのです」
「彩凌?」
れんげに取った粥はぬるくなっていた。
気分転換に、口に運んでみたが、冷めた米が突き刺すように喉を通っていくだけだった。心の靄が黒い霧になって、彩凌の心に広がっていく。
……暗い感情。
懸命に修行で己を培ってきた彩凌にとって、気付いてはいけない感情は山のようにあった。だから、蓋を閉めているのに……。
「……どうして、私はあの子を引き取ったんでしょうね? 延凌様」